2013年7月7日日曜日

努力や業績の追求では救われません


ローマの信徒への手紙4・1~12

「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」

いまお読みしました個所には、先週までの個所に書かれていることとは“ちょうど正反対”のことが書かれています。そのように申し上げることができます。先週までの個所に書かれていたことは、ユダヤ人と異邦人の違いはどこにあるのか、ということでした。しかし、今日の個所に書かれていることは、その反対です。ユダヤ人と異邦人の共通点はどこにあるのかという問題です。そういう言葉や問いそのものが直接出てくるわけではありませんが、内容をよく考えてみれば、なるほどそういうことが書かれているということを、きっとお分かりいただけると思います。

何度も繰り返して申し上げてきたことですが、また繰り返しておきます。この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と書いているとき、その意味は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人のことであると考えることができます。彼らが幼い頃からそのような教育を受けることができるのは、彼らの親や先祖が同じ信仰を受け継いできたからです。つまり、彼らは先祖代々の信仰者です。

それに対して、パウロが「異邦人」と書いているとき、その意味はユダヤ人とは異なる、ユダヤ人とは反対のタイプの人のことです。それは、幼い頃は聖書や教会に触れる機会がなく、聖書に基づく宗教教育とは無縁の生活を送ってこられたような、そういう人のことです。異邦人の信仰は、先祖代々受け継がれてきた信仰ではなく、その人自身が家族の中ではいちばん最初に与えられた信仰です。

どちらがいいとか悪いとか、どちらが上だとか下だとか、パウロ自身はそんなことを言いたいのではありません。全く違います。それどころかパウロは、両者の違いを明らかにしたうえで両者の共通点を指摘します。それは両方とも罪人であるという共通点です。どちらも罪深いと言っているのですから、ユダヤ人のほうが上だという話であるはずがないのです。神の前ではどちらも罪深いのです。

これで分かることは、どんなに幼い頃からそのような教育を受けていようとも、先祖代々の信仰を受け継いでいようとも、だからと言ってその人には罪がないということは言えないとパウロは考えていたということです。いま私は、教育には効果がないという話をしようとしているのではありません。そうではなく、教育という方法によっては、誰か一人でも、完璧に罪がない、人生で一度も罪を犯すことがありえない、そのような人間を生み出すことは不可能であるという話をしているのです。

しかし、両者の共通点はいま申し上げていることだけではありません。どちらも罪人であるということだけが共通点であるわけではありません。もう一つの共通点があります。それが、今日の個所に書かれていることです。それは、先祖代々の信仰を受け継いできたユダヤ人といえども、彼ら自身の信仰の歴史をいちばん最初までさかのぼれば、信仰を与えられた最初の人は事実上異邦人と同じ状態であった、ということです。

ユダヤ人の信仰の歴史の出発点はアブラハムです。アブラハムは先祖代々の信仰を受け継いだわけではなく、いわば彼が家族の中では初めて真の神を信じる信仰を与えられました。「『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』と書いてあるとおりです」(3節)とパウロが書いています。

アブラハムは、生後まもなく割礼を受けた人ではなく、成人してから割礼を受けた人です。それが意味することは、アブラハムにも割礼を受けていなかったときがあるということです。しかしだからといって、割礼を受けていなかった頃のアブラハムはまだユダヤ人ではなかったということにはなりません。かなり理屈っぽく聞こえてしまう話かもしれませんが、ここでパウロが言っていることは、アブラハムには「割礼を受けていないユダヤ人」だったころと、「割礼を受けたユダヤ人」だった頃とがある、というふうに、彼の人生は二つに分けることができるものである、ということです。

まさにこの点、つまりアブラハムという存在が、過去においては「割礼を受けていないユダヤ人」でもあったというその歴史的事実が、ユダヤ人と異邦人のもう一つの共通点であると言えます。このことを突き詰めて言えば、割礼を受けているかどうかという点こそが、その人がユダヤ人であるか、それとも異邦人であるかということを区別するための唯一の印であると考えることは、必ずしも正確な理解であるとは言えないということになります。そのように言える根拠は、信仰の父アブラハムの人生の中にも「割礼を受けていないユダヤ人」だった頃がある、ということです。

それで、今日の個所でパウロが問題にしていることは、アブラハムが神の義を与えられ、神の救いの恵みによって救われたのは、「割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか」(10節)ということです。

この順序は重要です。アブラハムは割礼を受けたから救われたという順序であれば、割礼を受けることは人が救われるための条件であるということになります。しかし実際の順序はそれとは逆でした。アブラハムは神を信じました。だから彼は救われました。そして彼は救われた後に割礼を受けました。つまり、割礼を受けることは人が救われるための条件ではない、ということをアブラハム自身が証明したのだ、ということをパウロは言いたいのです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」(11節)とパウロが書いているとおりです。

そして、パウロはこのことを異邦人の救いという問題に当てはめています。異邦人は割礼を受けていません。しかし、彼らは割礼を受けなくても、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神の義を与えられて、救われるのです。なぜなら、割礼は人が救われるための条件ではないからです。

そしてパウロは、まさにそのことを根拠にして、割礼を受けないまま信仰によって救われた異邦人は、アブラハムのように、あるいはユダヤ人のように、自分が救われたことの証しとして、救われた後に割礼の印を受けるということは、もはやしなくてもよいと主張しました。パウロが主張したのは、人が救われることにとっての条件ではない割礼を、まだそれを受けていない人々があえて受ける必要はないということでした。

ですから、パウロにとっては、ユダヤ人と異邦人の違いは、割礼を受けているかどうかにあるのではない、ということになります。アブラハムとは、ユダヤ人にとっての信仰の父であるだけではなく、異邦人にとっての信仰の父でもあるということになります。いま申し上げたことはパウロが次のように書いているとおりです。「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」(11節)。

だいぶ理屈っぽい話になっているかもしれません。しかしこれは、わたしたちにとって重要な事柄です。アブラハムまでさかのぼれば、ユダヤ人と異邦人の違いはない。少なくとも割礼の有無という点は問題ではなくなる。ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、彼らが救われるために必要なのは信仰だけである。割礼は信仰と救いの付録のようなものだということになります。そして、その付録は絶対に必要なものではなく、無くてもよいものだという話になるのです。

その人がユダヤ人であるか異邦人であるかにかかわらず、つまり、先祖代々の信仰を受け継いできた人であるか、それともその人が家族で初めて信仰を与えられた人であるかにかかわらず、すべての人間にとっての救いの条件は信仰だけであるということになるのです。

しかも、その場合、「信仰」とは何を意味するのかが問題になります。パウロにとって信仰は「信仰」という名がついているだけの、しかし結局それは自分の行いや努力や業績であるというようなものではありません。自分ががんばって信じたとか、信仰という努力を重ねたとか、そういうことがその人を救うという話になるのであれば、結局、すべての人は自分の努力で自分を救うという話になります。神の恵みは不必要です。しかし、パウロの理解はそうではありません。信仰は神の恵みです。自分で手を伸ばして奪い取るものではなく、神から賜物として与えられるものです。それは、がんばった人への報酬ではなく、まだ何一つがんばっていない人へのプレゼントなのです。

そのことをパウロは「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(5節)という言葉で表現しています。

「不信心な者を義とされる方」とは神のことです。パウロが言っていることは、わたしたちの神は、深い信仰をもって生きている真面目な人だけを救ってくださる、そういう方ではない、ということです。順序が逆です。神を信じる信仰など全く持っておらず、信仰に基づく善き生活など全く送っておらず、真面目か不真面目か、どちらなのかと聞かれたら不真面目であると言わざるをえないような生活しか送っていない、そのような人を神は救ってくださるのです。それが正しい順序です。

「ずるい」などと言わないでください。わたしたちが教会に初めて来たときは「異邦人」の姿をしていました。パウロが描く「異邦人」は、わたしたちのことです。

もし「ずるい」と感じるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。しかし、やがて、病気や怪我や加齢等で体力や気力が衰え、「働きがなくなる」ときが来ます。そのとき、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」神の存在は、わたしたちの大きな慰めになるでしょう。

そして、もしそうでないならば、人が神によって変えられたということになるはずがないのです。救われる前に真面目な生き方が既にできているならば、神の力など不必要です。聖書も説教も不必要だし、教会も牧師も必要ありません。教会は真面目な人だけの集まりではありません。順序が逆です。教会の中で、人は神の力によって変えられていくのです。

(2013年7月7日、松戸小金原教会主日礼拝)