ローマの信徒への手紙8・31~39
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
おはようございます。松戸小金原教会の関口です。今日は東関東中会講壇交換です。稲毛海岸教会の朝の礼拝で説教させていただくのは、10年ぶりくらいです。どうかよろしくお願いいたします。
今日開いていただきました聖書の個所は、ローマの信徒への手紙の8章が終わる直前の部分です。文脈がある話ですので、この部分を正しく理解するためには、ローマの信徒への手紙の1章から8章までについて解説する必要があるかもしれませんが、時間の関係で割愛します。しかし、ある程度大づかみのことは申し上げておきたいと思います。
この手紙にパウロがとにかく書いていることは、御子イエス・キリストにおいて父なる神の御心が明らかにされたということです。イエス・キリストを信じるすべての人に神の救いの恵みが与えられ、罪赦され、けがれをきよめられ、永遠の命が与えられます。その人は罪の中から救い出され、新しい人生を始めます。全く自由に生きられるようになります。
しかし、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、洗礼を受けても、罪を犯し続けます。大きな罪、小さな罪を犯します。人間は弱い存在です。そのことをパウロは知っています。そして、その弱いわたしたちを助けてくださるのは「聖霊」であるということを直前の個所で教えています。
「聖霊」について聖書はどのようなことを教えているでしょうか。聖霊は、わたしたちの存在の内側に「注ぎ込まれる」方であると言われます。またわたしたちの内部に「住みこんでくださる」方でもあります。そして、聖霊はわたしたちにとって端的に「神」です。父・子・聖霊なる三位一体の神です。
ですから、わたしたちは次のように語ることができます。
わたしたちは「神に祈る」と言いますが、どこに向かって祈るのでしょうか。父なる神のイメージは、天地万物の創造者です。天地万物よりも巨大で、なおかつ宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。そうすると、宇宙の果てまで届くほど大きな声で祈らなければならないような気がしてきます。
イエス・キリストのイメージも同じです。十字架につけられた方が三日目によみがえられて、その四十日後に天に昇られました。イエス・キリストはどこに行かれたのでしょうか。天の父なる神の右に座っておられると告白します。父なる神と同じ場所におられるなら、やはり宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。ですから、祈るときは宇宙の果てに届くほど大きな声で祈らなければならないような気がします。
しかし、聖霊なる神は違います。聖霊はこのわたし、そこのあなた、わたしたち一人一人の心と体の中に住んでおられるのです。そして、わたしたちの中に住んでおられるこの聖霊が、端的に「神」なのです。ですから、わたしたちはその神に祈るときは大きな声で祈らなくてもよいのです。むしろ小さな声で、ひそひそ声で、自分の胸に言い聞かせるように祈ってもよいのです。
わたしたちの中に住んでおられるその聖霊なる神が「弱いわたしたちを助けてくださる」(26節)とパウロは書いています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と続けています。
わたしたちは、自分のこと、個人的なことで苦しみます。家族のことで苦しみます。会社のことや社会のことで苦しみます。そして教会のことで苦しみます。「これからわたしたちの教会はどうなっていくのだろうか」と考えるだけで不安になります。心配になります。涙が出てくることもあります。そのようなとき、わたしたちは「どう祈るべきか」が分からなくなります。
そのような場面で、聖霊なる神御がわたしたちの中で「言葉に表せないうめき」を発してくださるというのです。まるで神が絶句なさっているかのように。まるで神が理路整然とした言葉を語れなくなってしまわれたかのように。
「絶句する神」というのは、理屈の上では明らかにおかしい話です。しかし、わたしたちの神は、そのような方です。わたしたちの神は、悩み苦しみ、深く傷ついている人たちの前で、一方的な正論を押しつけがましく語り続けるような方ではありません。わたしたちが絶句しているときには、神も絶句してくださるのです。わたしたちが泣き叫んでいるときは、神は黙って見守ってくださるのです。
そのような方のことをパウロは「わたしたちの味方」(31節)と呼んでいます。次のように書かれています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」(31~32節)。
「敵」だ「味方」だという字を見ますと、わたしたちはつい争いや戦争の場面を思い起こします。なんとなく物騒でキナ臭い様子を思い浮かべてしまいます。しかし、パウロが言おうとしていることは、戦いの状況に関することだけではありません。戦時だけではなく平時の状況でも当てはまることです。
パウロが言いたいことは、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださる方であるということです。ただし、イエス・キリストによる贖いのみわざは必要です。イエス・キリストを通してわたしたちは神と和解していただいた関係にあります。神と人間とを仲保してくださるイエス・キリストを信じる信仰があるからこそ、神がわたしたちの側に立ってくださることを信じることができる、という事情でもあります。しかし、そのことを踏まえたうえで、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださり、わたしたちの味方でいてくださるということをパウロは強く語っています。
そのときに、「だれがわたしたちの敵でありえようか」と続けています。「もし~ならば、だれが~でありえようか」とたしかにパウロは言っていますが、仮定の話をしたいわけではありません。敵はいない、いるわけがない、と言っているのです。我々は無敵だと言いたいだけです。
そういうことを言いますとすぐに批判が出てきます。「わたしたちは無敵だ」などと言い張るパウロは傲慢だとか、クリスチャンは傲慢だとか。すぐにそういう話にされてしまいます。しかしパウロはそういうことを言いたいではありません。
パウロの言いたいことは、35節以下に端的に語られています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」そのどれでもないとパウロは言いたいのです。キリストの愛からわたしたちを引き離すことができる力は何もありません、と言いたいのです。わたしたちが「キリストの愛から」離れることはありえません。いえいえ、わたしたちは「キリストから」離れることはないのです。
38節以下にも同じ趣旨の言葉が出てきます。「いかなるものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(39節)と言っています。どんなことがあっても、わたしたちが神の愛から離れることはありえないと、言っているだけです。離れないのは「神の愛から」でもありますが、それは「神から」離れないと言っているのと同じです。
しかしまた、神の側からのアクションの価値だけを認めて、人間のアクションの価値は認めないということでなくてもよいと思います。信じるのは、わたしたちです。どんな迫害があっても、信仰を捨てることはありえないのです。
そのように言えるのは、パウロが強いからではありませんし、傲慢だからではありません。そうではなくて、パウロは、神によって助けていただかなければならないほどに自分の弱さを自覚していました。パウロは弱いからこそ信仰を捨てることはありえないのです。
神が共にいてくださる、これこそがわたしたちの慰めです。いろんな苦しみの中にあっても、神は傍らにいてくださいます。共に苦しんでくださいます。共に悩んでくださいます。このことがわたしたちの慰めです。
もし神が、わたしたちががんばった分だけ支払ってくださるというお方であるならば、わたしたちは神に雇われた賃金労働者です。もしわたしたちの働きが無くなれば、即刻わたしたちは解雇です。しかし、もしそうだとしたら、わたしたちには慰めがありません。なぜなら、わたしたちは、遅かれ早かれ、働きがなくなるからです。
いつまでも元気でいられると思わないほうがいいのです。私は若い若いと言われます。47歳ですが、最近目が悪くなりました。昔はよく見えていた目が、最近は見えにくくなりました。わたしたちの体は確実に衰えます。みなさんを脅しているのではありません。事実を申し上げているだけです。
わたしたちの働きが無くなるときは必ず来ます。しかし、「働きが無くても、(わたしたちの)信仰を義と認めてくださる神」がわたしたちと一緒にいてくださることが、わたしたちの慰めなのです。
皆さんにとって、教会はどのような存在でしょうか。牧師はどうでしょうか。
金銀財宝がザクザクあふれていて、困った人がいればお金をさっと出して助けてくれるような教会のほうが信頼できるでしょうか。
牧師がムキムキマッチョで怪力のスーパーマンのような人であれば信頼してもらえるでしょうか。
私は違うと思います。むしろわたしたちは、わたしたち自身が怪力のスーパーマンではないということに感謝すべきなのです。
教会の強さ、牧師の強さは、自分がいかに弱いかを知っていること、どれほどまでに神の助け、救い主の助けが必要であるかを自覚し、信頼しているかにかかっているのです。
わたしたちと共にいてくださる神は、わたしたちの弱さをよくご存じです。わたしたちが弱いからこそ、助けてくださり、かばってくださいます。
その方をこれからも信頼し続けていこうではありませんか。
(2013年7月14日、稲毛海岸教会主日礼拝)