2009年10月29日木曜日

神学、神学、神学。お金、お金、お金。

前稿は「何のために頑張って来たのかが分からなくなってしまいました」で終わってしまいました。気持ち自体は書いたとおりですが、ここで終わってしまっては、まるで今の私が絶望のどん底にでもいるかのようです。そういうことにしておいて(私が「絶望のどん底にいる」ふりをして)同情者を募るという手を使うというやり方も要検討課題かもしれませんが、そういう姑息っぽいやり方は私のポリシーに反します。



というか、関口という人間は「同情しがいのない人間」であるということが個人的に知っている多くの人に認識されてしまっていますので、同情作戦は完全な無駄骨に終わります。見た目的(みためてき)には私は元気そのものなのです。内心ではどんなに落ち込んでいても、はた目には何事も無かったかのようです。しかし、それはそれは私にとっては突然飛んできたパンチでした。「効いていませんか」と問われれば「いいえ。かなり」とお答えするでしょう。



今年の夏頃のことです。私自身もそのために力を注いできた“小さな神学共同体”が一夜にして崩壊するというひどい目に遭いました。こういうところに個人名を書くわけにはいきませんので詳しいことは何一つ書くことができませんが、どのようなことがあったのかを日本キリスト改革派教会の人たちは知っています。



最愛の妻に言わせると「そんなに簡単に崩れるようなものは、最初から大したものじゃなかったのよ」とのことですので、なるほどそうかもしれないと諦めることにしました。



その意味ではもう諦めたのですから、後ろを振り向きたいとは思いません。まさに「無かったことにする」しかない。しかし、言葉にならない空虚感を抱えて、ひたすらため息とうめき声を吐き出すばかりです。「言葉」が信頼を失ったのです。すると、どうなるか。「あなたがたが何を言っても無駄である。なぜなら、あなたがたの口から発せられる言葉自体がもはや信頼できないのだから」というダッチロール状態に陥り、墜落の一途を辿らざるをえません。



私が求めてきたことは「神学研究の経済的根拠」です。「全額個人負担の神学」が、どうして「教会の学」でありうるのでしょうか。これこそ概念矛盾というのです。



最も理想的にいえば「教会の学(Wissenschaft der Kirche)としての神学」は、中会(presbytery)こそが営むべきです。そして「中会が神学を営む」と私が言う場合の意味は「中会の経常会計から神学研究活動を支出する」ということです。その方法としてともかく思いつくのは、以下の四つの方法です。



■方法1
中会に「改革派神学研究ファンド」(仮称)を設置し、同ファンドを管理・運営する委員会を中会内に設ける。そして神学研究に取り組んでいる人々を同ファンドが(厳正な審査を経て)経済的に支援する。



■方法2
中会に「改革派神学研究委員会」(仮称)を設ける。同委員会は神学研究の場(講演会、シンポジウム、原書講読会など)を自ら提供しつつ、中会内の「神学に関する経済的ニード」(資金不足を理由に頓挫している神学研究者たちのニード)があれば、支援の方法を検討・善処する。



■方法3
改革派神学研修所の「○○教室」を有志で設け、最寄り中会との連携の可能性を模索しながら、自主的な神学活動を続ける。



■方法4
改革派神学研修所または神戸改革派神学校の「エクステンション制度」を利用する。年に数回程度、研修所または神学校から神学教師を派遣してもらい、中会主催の、または自主的な講演会を開く。



ちなみに、これら四つの方法の順序は、上から「お金がより多くかかる順」です。「■方法4」には自己負担的要素はありませんが、自由裁量度は低くなります。



今年崩れ去ったのは、「■方法3」です。いろいろあって、あれよあれよの間に「閉鎖」を余儀なくされました(これが私の憂鬱の原因です)。



しかし、これで終わりではありません。少なくともあと二つの方法が残っていますし、もっと多く残っています。



「お金、お金、お金。」と書きますと、自分がまるで拝金主義者になってしまっているようで本当は嫌なのです。私ほどお金そのものに執着のない人間はいないでしょうに!



しかし、これまで10年間、いえ、19年前に伝道の仕事に就いて以来悩み続けてきたのは、以下の問いです。



「神学研究に真剣に取り組まないかぎり、真の教会は立たない。しかも、神学研究を(非教会的な)大学教授たちの専売特許にさせないためには、とにかく教会の牧師たちが率先して神学に取り組むしかない。しかし、牧師たちには神学研究に必要十分な経済基盤がない。無い袖は振れない。たしかにそうではある。しかし、『無くとも振るべき袖がある』と言わなければならないのも神学である。神学を放棄することは教会を放棄するのと同義語である。ならば、我々はどうすればよいのだろうか」。



これを短く言えば、「神学、神学、神学。お金、お金、お金。」となるわけです。