2009年10月19日月曜日

牧師のブロガー化の行き着く先(1)

「新しい時代の宣教」と題するサイトは、深く広く展開していける自信を持てなくなりましたので廃止しました。



ただ、「インターネット時代の宣教」という点の問題意識を失ったと言っているのではありません。“書かざるをえない衝動”のようなものを感じるときに、随時、この日記に書いていくことにします。



ともかくしきりと考えさせられていることは、言うならば、バランスのとり方のようなことです。



今の「若い人」(※)は、情報のほとんどの部分をインターネットから得ていると言っても過言ではないほどなのです。その人たちにとっては、インターネット内の「公の場」(ブログ、SNSなど)に何も書かないとしたら「何も言っていない」のと同義語なのです。



※日本の教会では70歳くらいの方まで「若い人」と呼ばれることがありますので慎重に言葉を選ぶ必要がありますが、ここでは一応40台くらいまでの人たちのことを言おうとしています。その中には私自身も含めています。



しかし、そのときにこそ考えさせられることは、「教会をブログ化してしまうことができない理由は何か」です。もしそれが何もないとしたら、いわゆる「教会」は不要になります。ブログの書き手と読み手だけで、すべてが成立してしまいます。日曜日に教会堂またはどこかの建物に集まることの意味がもしあるとしても、それはいわゆるインターネット用語で言うところのただの「オフ会」になってしまいます。教会は「情報を得る場」ではなく、純粋に「視認と親睦の場」となります。



しかし、日本の教会の中で昔から(少なくとも私が子どもの頃から)繰り返し使われてきた(が、私は嫌いな)表現は「聞きに行く」です。何のことかといえば、「日曜日に教会の礼拝に出席すること」です。何を「聞きに行く」のかといえば、「牧師の説教」です。つまり、礼拝に出席するとは「牧師の説教を聞きに行くこと」を意味していたというわけです。礼拝の他の要素に関心が無かったのです。賛美歌も祈りも奉仕も交わりも。そういうのはウザいと。今でも「聞きに行く」という言葉をたまに耳にすることがありますので、同じ見方が教会の中で思わず知らず伝承され、再生産されているのだなと感じます。



事実、再生産されているのだと思います。「聞きに行くこと」こそキリスト者が日曜日にすることであると考えてきた人々にとっては、いまは「教会」の存在は不要になってしまっているはずです。なぜなら、パソコンを開きさえすれば、日曜日の朝の数時間を用いて教会堂まで(苦労して)移動して得られるよりもはるかに膨大かつ「正確な」キリスト教に関する情報を得られるからです。賛美歌も祈りも奉仕も交わりも、そのような“ウザい”要素は一切抜きにして、自宅の快適な環境で、ひとりコーヒーでもすすりながら、あるいはベッドに寝そべりながら、「聞きに行くこと」が、インターネットによって可能になってしまったのです。



この趨勢は止められません。止められないからこそ、上記のとおり「バランスのとり方」を考えざるをえなくなります。



私の問いは、「この趨勢の中で牧師は何をすべきか」です。繰り返しいえば、今の「若い人」にとっては、自分のブログを持たない牧師は「何も言っていない」のと同じです。実際たとえば、私がブログやメールを書けない期間が続いたりでもすると「病気にかかられたのですか」と本気で心配していただくことがあるほどです。



だから、牧師もブログを始めざるをえないし、始めた以上続けざるをえない。私がブログを続けているのは、これ、別に、私のひまつぶしではありません。私の言葉を伝えるためにはこの方法以外にはありえない人々が大勢いることが分かっているので、続けているのです。



しかし「牧師のブロガー化」の行き着く先は、日曜日に集まる意味の喪失です。そのことも痛いほど分かっているつもりです。



実際「日曜日に集まる意味など何もない」と考えている人が多いからこそ、日曜日の教会堂はどこも閑散としているのです。日曜日の教会堂が閑散としているのを寂しいと思っているのは牧師も同じです。



このように書くと「別に我々は、牧師に会いに行くために教会に通っているわけではないし、まして牧師を喜ばせるためなどではありえない」という反発を招くだけかもしれませんが(そのような反発を期待したいくらいですが)、もしその要素が完全に否定されるべきなら、牧師は要らないのです。「牧師がいない」という問題で悩み苦しんでいる(いわゆる無牧の)教会の労苦はむなしいものだということになります。



それほど遠くない将来には、パソコンの前に座ってブログを書くだけの牧師(かどうかも分からない人)だけが存在意義を持つようになるでしょう。そのようになって(して)しまってはならないと私自身は(いまだに)信じているので「パソコンの前に座ってブログを書きながら」悩んでいるのです。