2009年10月16日金曜日

バルトとハルナックの論争について

以下は本日、ある牧師に送ったメールの内容です(ブログ公開用に若干修正しました)。



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カール・バルトとアドルフ・フォン・ハルナックの論争を初めて知った場所は、東京神学大学2年生(1985年、19歳)のときに受講した大木英夫先生の「教義学講義」ですので、24年前です。当時は日本語版訳者の水垣渉氏なる方の存在を(名前も)知る由も無かった頃です。



1985年当時は新教出版社版『カール・バルト著作集』既刊巻の初版がだいたい完売した頃だったようで、キリスト教書店の本棚には新刊として第八巻と第十巻が並んでいるだけで、後のすべては非常に入手困難であったことを懐かしく思い起こします。



とくに第一巻は人気があったのか、古本屋で見かけることが滅多に無く、たまに見つけると一万円近い値段がついていたりするシロモノでした。私が持っている第一巻もかなり苦労して古本屋で買ったものです。外の箱がついていないものでしたが、九千円くらいしたはずです。



さて内容に関してですが、先生のおっしゃる「バルトとハルナックのどちらが言っていることも正しい」という点は同感です。ただ、結論の部分に今の私の考えと違うところがあるというか、よく考えてみる必要があると思っている点がありますので、ちょっとだけ書かせていただきます。二点あります。



第一点は、「ただし」以下にお書きになったことです。「どちらも結局、『これが学問的だ』『これが聖霊の導きだ』と言いながら、主観的な言葉に陥っていく危険から逃れられないと思いました」とおっしゃるときの「主観的な言葉」はおそらくネガティヴな意味でおっしゃっているはずです。しかし、「主観的な言葉」のどこが悪いのでしょうか。ここに疑問を感じました。



私の長年の問題意識は「(大学の)学問は客観的なるものであるが、(教会の)信仰は主観的なるものである」→「客観的なるものこそ真理であり、主観的なるものは虚妄である」→「したがって、大学教授になることこそ栄誉であり、田舎牧師のままの一生は悲惨である」という図式をこそ問題にしなければならないというものです。この図式を丸呑みするくらいなら首吊って死ぬ方がましです。



現代思想のトレンドを見ても、純粋な意味での「客観性」を言い張る人々は物笑いのネタにされるのが落ちです。少し目が覚めている人々は「相互主観性」(inter subjectivity)ということを必ず言います。私もそのトレンドに同意しています。



現実に可能なことは、すべての人が「主観的なること」を主張し合うことだけであり、それを互いに調整し合うことによってなるべく普遍的な一致点を見いだしていくしかないのです。その意味ではノーベル物理学賞受賞者の学説も「単なる一つの主観的見解」にすぎません。



第二点は、先生に対する疑問ではなく、引用してくださった岡田稔先生の見解に対する疑問です。



なるほど、岡田先生は『改革派教理学教本』(新教出版社、1969年)で、バルトとハルナックの論争の解決の糸口を「キリストの二性一人格論」に求め、問題解決の模範を四世紀のアウグスティヌスに見いだしています。そして、この岡田先生の解決方法を日本キリスト改革派教会が60年間守り続けて来たのだろうということは、容易に想像できることです。



しかし、この道が問題解決になるとは私にはどうしても思えません。そのように言いうる根拠は以下の二つです。



第一の根拠は、バルト自身がハルナックとの論争後、とくに『教会教義学』の中で求めた道がまさに「キリストの二性一人格論」(「キリスト両性論」でも同じ)における解決であったということです。まさにこの解決方法をこそバルト自身は「キリスト論的集中」(Christological concentration)と呼びましたし、同じことをバルト神学に批判的な人々(この中にファン・ルーラーが含まれます)は「キリスト一元論」(Christ monism)と呼んだのです。



すると、どうなるか。バルト研究者たちは、ハルナックと論争した頃のバルトを「初期バルト」というカテゴリーの中に押し込み、『教会教義学』執筆中のバルト(後期バルト)と区別します。その上で、彼らは次のように説明するでしょう。



「ハルナックとの論争を経たバルトは、キリストの二性一人格論(「キリスト両性論」でも同じ)に信仰と学問との(キリスト教的に)正しい関係を構築するための根拠を見出した。それゆえ岡田氏のバルト批判は当たっていない。アウグスティヌスからカルヴァンへと受け継がれたキリスト教の『キリスト論的な』正統路線は、カール・バルトとバルトの後継者にこそ受け継がれた。的外れな言葉でバルトを批判する岡田氏の一派は、『立場はともかく論は稚拙』である」。



これで岡田説はパーです。



キリストの二性一人格論はバルト‐ハルナック論争の解決にならないと私が考えている第二の根拠は、お察しのとおり、ファン・ルーラーの「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」についての議論に依拠しています。



キリストの二性一人格論の構造を考えていくと、その「神性」と「人性」は常に対立関係にあるものとしてしか描きだすことができません。しかもその関係のあり方は「受肉」(assumptio carnis)の関係、つまり「永遠のロゴス(言)がサルクス(肉)を摂取した」というものです。そして、その「サルクス(肉)」には、それ自体で自立した「人格」はありません。サルクスは、肉屋に売っている(焼肉の材料と同じ)あの「肉」と同じ物体にすぎません。



すると、どうなるか。「キリストの二性一人格論」に基礎づけられた信仰と学問の関係性は、最終的にはすべての学問を「教会の御用学問」とみなすしか無くなります。もし我々が「サルクスをまとった永遠のロゴス」こそすべての学問が追い求めるべき普遍的な永遠の真理であると考えるならば、です。「神学は諸学の女王であり、諸学は神学の婢である」というあれです。



この論理を神学が抱え込み続けるかぎり、神学の諸学に対する軽蔑心が半ば必然化し、神学者たちを超然化します。「諸学の徒よ、お前らは何も分かっちゃいねえ。我々神学者こそが万物の全真理の把握者である」とでも言いたいかのよう。一種の独裁者(裸の王さま)が教会内を跋扈し続けるでしょう。ともかくこの道は非常に危険なものです。



我々が追い求めるべき道は、「キリスト論的集中」(キリストの二性一人格論への固執)に基づく神学の諸学に対する侮蔑ないし超然化の道(この点ではバルト神学も岡田神学も行き着く先は同じです)ではなく、むしろファン・ルーラーの提案する「三位一体論的・聖霊論的な解決方法」に基づく神学と諸学の共存ないし共生の道であるだろうと、今の私は信じています。



三位一体論的・聖霊論的に考え抜いて行くならば、「神性」と「人性」の関係は対立的な関係ではなく、「友情」にあふれた関係であるということを明らかにすることが可能です。その関係のあり方は「内住」(inhabitatio Spiritus sancti)、つまり「神が人間の内に居まし、人間と共に住んでくださること」なのですから。「友情」(amicitia アミシティア)は、17世紀のヨハネス・コクツェーユスが用いた概念です。