2009年10月11日日曜日

アブラハムが生まれる前から


ヨハネによる福音書8・48~59

「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。』ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある。」』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

今日の個所に記されていますのは、いささか野次馬的な言い方をお許しいただきますなら、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ人たちとの激闘の様子です。両者は激しく言い争っています。論争というよりは口論に近い。ただし、イエスさまはいたって冷静です。ボルテージが上がっているのはユダヤ人のほうです。彼らはついに石を手に取り、暴力に訴えようとしました。しかし、イエスさまは暴力に対して暴力で立ち向かうような方ではありませんので、その場を去って行かれました。

ユダヤ人たちがイエスさまに「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている」と言っている意味については、先週ちょっとだけ触れました。それは、彼らが「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と言い、また「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言っていることに直接関係しています。これは彼らのいわゆる純血思想です。我々ユダヤ人はあの偉大なる信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる民族なのであって、他の民族の血はいささかも混ざっていないのであるということを彼らは固く信じていました。そしてその点にこそ彼らの民族としての誇りを持っていました。そして彼らユダヤ人たちは、そのような純粋な我々と比べて、あのサマリア人たちは他の民族の血が混ざってしまっているという意味で純粋でない人々であるとも信じていました。サマリア人たちの血が不純であるということを指してユダヤ人たちは「姦淫」という言葉で表現したわけです。

ところが、彼らはこのときイエスさまがおっしゃったことに非常に腹を立てました。イエスさまがおっしゃったことは「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(8・44)ということでした。これは、ユダヤ人たちがイエスさまのことを殺そうとしていることを指しておられる言葉です。

この言葉は、逆の方向から考えるとその意味が見えてくるものです。あなたがたは、今まさにこのわたしを殺そうとしている人殺しである。人を殺したいという思いは、神から与えられるものではなく、悪魔からのものである。ところが、あなたがたは、自分たちの父はアブラハムであると言い、アブラハムが信じた神御自身から生まれたものだと主張する。これはおかしい。まるで、あなたがたがこのわたしを殺そうとしているその思いは悪魔から与えられたものではなく、神とアブラハムから与えられたかのようだ。その理屈を突き詰めていけば、神とアブラハムを殺人犯に仕立て上げることになる。それは、あなたがたにとって都合のよい自己正当化の理屈にすぎない。イエスさまの思いを深く汲みとるとしたらこんな感じになるだろうと思われます。

しかし、彼らはイエスさまの言葉に耳を傾けようとしませんでした。それどころか、ますます腹を立てました。そして、悪いのはこのイエスという男のほうであって、我々は悪くないと考えました。この男を我々が殺すのは当然であり、この男が犯した罪に対する正当な裁きを行わなければならないと信じたのです。彼らが石を手にとって投げつけようとしたのは、怒りに任せて衝動的にそうしようとしたのではありません。これが当時の法律に定められた死刑の方法だったから、そうしたのです。

彼らがイエスさまに見出した罪の具体的な内容は、冒瀆罪でした。このイエスという男は神を冒瀆している。そのように彼らは確信するに至りました。彼らの確信の根拠となったイエスさまの言葉が、この個所に二つあります。第一は「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(8・51)です。第二は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8・58)でした。「わたしはある」とはモーセの前で示された神のお名前である(出エジプト記3・14)ということは、既に説明しましたとおりです。

先に申し上げておきたいのはこのイエスさまの御言葉の真の意図です。まことの救い主であられるイエス・キリストのお語りになる御言葉を守る人は、死ぬことがない。アブラハムが生まれる前からイエス・キリストは「わたしはある」という方である。この御言葉の意味は、ただ単なる生物学的な不老長寿の話ではないということをわたしたちは知っています。「イエスさまの年齢は二千歳でした」というような話はただのオカルトです。イエスさま御自身はそのような意味でおっしゃっているわけではないのです。

ここから先、深刻な話だからこそ冗談めかした言い方をするのをお許しください。皆さんとふだんお話ししているときにしょっちゅう出る話は「わたしはあまり長生きしたくない」ということです。自由に動けなくなり、また自由に考えたり喋ったりできなくなることに多くの方々が恐れさえ抱いています。私はそのようなお話を伺うたびに「まあまあ、そんなこと言わないで長生きしてくださいな」と内心では思っているのですが、しかしまた、全く理解できないと感じているわけでもありません。

このことで私が申し上げたいことは、そのような生物学的な意味(というよりはオカルト的な意味)で考えられる「不老長寿」が仮に実現したからといって、それによって我々が幸せになるのだろうかという真剣な問いかけです。そんなことはないと多くの人々が考えています。長寿の方々を不愉快な思いにさせる意図はありません。しかし、です。人生の時間が長ければ長いほどよいと思っている人は多くありません。そこに何か別の要素が加わらないかぎり、時間が長いだけでは幸せにならないと思っています。

それでは「別の要素」とは何でしょうか。そのことを、わたしたちは知っています。それは、神の愛と憐みと赦しの力によってわたしたち人間が罪の中から救い出されるという要素です。神を知らず、救いを知らず、罪の状態のままで過ごす人生には牢獄の中にいるのに近いものがあるとさえ感じます。そのような人生なら一刻も早く終わりにしたいと願わざるをえないと言いたくなることさえあります。しかし、そのようなときにこそ、わたしたちはイエスさまの御言葉を思い起こすことができるのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。

この場合の「決して死ぬことがない」の意味は、神と共に永遠に生きる者となるということです。罪によって破壊された神との関係が修復され、神と人間との間の関係が正常化するのです。対立関係にあった神と人間との関係が永遠の和解に至るのです。永遠に生きておられる神と共に永遠に生きる者となるのです。これこそがこの御言葉の真の意味です。「わたしの言葉を守るなら」、すなわち、神の御子なるイエス・キリストの御言葉を通して父なる神の御心を知り、それに従う人生を始めるならば、「その人は決して死ぬことがない」、すなわち、神との関係が永遠に修復されて和解に至り、神を喜ぶ人生を永遠に続けることができるのです。

しかし、このような次元の話を、そこにいたユダヤ人たちは全く理解できなかったし、理解しようとしなかったのです。彼らは言いました。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。」アブラハムは死んだし、預言者は死んだではないか。あの偉大な人々も死んだのに、お前は、自分の言葉を守るなら、その人は決して死なないと主張する。お前は何様なのか。我々の父アブラハムよりも偉いとでも言いたいのか、ふざけるなと言っているのです。

これで分かることは、ユダヤ人たちが「永遠の命」ということをどのようにとらえていたかです。それは、先ほど申し上げたとおりのただ単なる「不老長寿」です。しかも、それは、彼らにとっては「ありえないこと」としてだけ考えられています。つまり彼らは「永遠の命」と「不老長寿」を同じものと考えたうえで、そういうことはありえないと思っていたわけですから、要するに彼らは「永遠の命」など全く信じていなかったのと同じであるということが分かります。たとえそのようなことが聖書に書いてあろうとも、宗教家たちが何度説教しようとも、彼らはそれを信じていなかったのです。ただの絵空事のように思っていたのです。

繰り返しになりますが、イエスさまがお語りになる場合の「永遠の命」の意味は不老長寿ではありません。ただし、その一方で我々が誤解すべきでないと思いますことは、それでは「永遠の命」とは何なのかと考えたときに、この世から離れた「あの世」、あるいは物質世界から隔絶された精神世界で、ふわふわとした霊のような状態になっていつまでも生き続けることであるというようなイメージを抱くことも間違いであるということです。しかし、この問題に立ち入る時間が今日はもうありません。イエスさまがおっしゃっていることの核心は、「神との関係」というこの一点にあるとだけ申し上げておきます。神との関係が永遠に続くこと、それこそが「永遠の命」の内容です。

イエスさまが「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃったのも同じことです。神の御子は、父なる神と共に永遠に生きておられる方であるゆえに、「アブラハムが生まれる前から」父なる神のもとにおられた方なのです。つまり、イエスさまがおっしゃっていることは、わたしは神であるということなのです。

このことはもちろん信仰の問題です。イエスさまを「わたしはある」と称する方として、すなわち、真の神として、神の御子として、御子なる神として信じることがわたしたちに求められているのです。

(2009年10月11日、松戸小金原教会主日礼拝)