2009年10月14日水曜日

ファン・ルーラー研究会結成四周年記念メッセージ

関口 康 (ファン・ルーラー研究会代表、日本キリスト改革派山梨栄光教会牧師)



ファン・ルーラー研究会の皆さま、こんにちは。本日(2月20日)は、「ファン・ルーラー研究会」結成四周年記念日です。 この良き機会に、代表を仰せつかっている者から一言、日ごろのお礼と四周年を迎えることができた喜びを申し上げたく存じます。



今から四年前の1999年2月20日、「ファン・ルーラー研究会」は、インターネット上のメーリングリストとして結成されました。当時の世界は、マイクロソフト社肝いりの「ウィンドウズ98」の流行に伴い、インターネットの利用者が爆発的に増えようとしていた時期でもありました。パソコンソフト自体もそれ以前のような専門的技能を持った人々だけしか扱えないものではなく、小人から高齢者まで幅広い層の人々にも利用できるパソコンへと生まれ変わろうとしていました。



その頃はまた、キリスト教界でもインターネット利用の是非が盛んに議論されていました。同志社大学神学部ホームページをはじめ、神学関係の情報も、わずかずつではありましたが、インターネットを通して、広く提供されはじめていました。しかし、他方、当時世間を騒がせていた怪しい宗教団体や犯罪に走る少年たちも、みんなインターネットを利用していたことから、こういう(アングラな?)世界そのものが汚らわしい、まして、聖なる教会がインターネットなどという怪しげな道具を利用する、という考えそのものが如何わしい、と感じていた人々も少なくなかったと思います。



しかし、当時、わたしたちは、「こんな便利な文明の利器を、神学の学びのために使わない手は無い」と単純に考えました。そして、とくにそのとき思いついたことが、神学の学びには不可欠である、「翻訳」という作業でした。



ぶっちゃけた話、わたしたちは、その当時から、日本のキリスト教書店に並んでいる多くの「翻訳」に、いろんな意味での疑問や不満を感じていました。翻訳者が心がけるべき最も重要なことは、言うまでもなく、原著者の意図をできるだけ正確に理解し、他言語の思想体系の中で生きている人々の心の中で深く把握でき、納得できる言葉に置き換える作業でしょう。訳者だけに理解できる言葉、訳者自身も理解できない言葉は、端的に言って「異言」です。しかし、そういう「翻訳」があまりにも多すぎる。原著者の名前に魅かれて買ったは良いが、読んでも理解不可能である。



それでも、神学生になり、牧師になった最初の頃は、「この文章を理解できないのは、わたしの頭が悪いからである」と殊勝なことを考えていました。しかし、こういう殊勝な考え方は根本的に誤っている、と思い始めるようになったきっかけは、(名前を挙げて申し訳ございませんが)神戸改革派神学校で牧田吉和先生と市川康則先生の教義学の講義を聴く機会を与えられたことです。



両先生は、少なくとも私にとって「理解可能な言葉」で語ってくださいました。わたしのような足りない頭の持ち主にも、深い納得と感動を与えていただける「日本語」を語ってくださいました。「分からない日本語」を分からないままで放置しておくようなことを決してなさらない方々と出会うことが許されたときに初めて、わたしは、現在のキリスト教書店に立ち並ぶ、多くの「翻訳」を理解できないのは、自分の頭の悪さだけの責任ではないのかもしれないと感じ、それまでわが身を捕らえてきた「呪縛」のようなものから解放されたような思いになりました。



それで、わたしは考えました。「翻訳」において本当に大切なことは「共同作業」ではないだろうか、と。単純に言って、個人よりも複数、少数よりも多数のほうが「翻訳」にはふさわしい、と。また、わたしは、良質の翻訳なしに日本の神学と教会の発展はありえない、と思いました。諸外国にむやみに依存する必要はないかもしれませんが、諸外国から学ばなければならないことは、まだまだたくさんあるはずです。それが事実であるとすれば、「共同翻訳作業」ということもまた、神と教会に仕えることを志す者たちにとっての、一つの大切な奉仕になりうるのではないか、と。



とはいえ、わたしは、(古い言い方ですが)「象牙の塔」の中で、一部の権威者の下で、少人数でなされる翻訳作業の重要さも理解しているつもりです。「翻訳」という重労働を徹底すれば、何かの本業の片手間にできる副業ではありえません。また、情報管理の観点から見て、専門的な知識と労苦を伴って生み出された作品が「流出」することは好ましくないということも理解できます。



しかし、他方、キリスト教書店で買ってきた本を開きながら、深く感じることがあるのです。



この本が出版される「前」に、一度で良いから、専門外の人々、あるいは教会外(キリスト教界外)の人々に読んでもらうべきではなかったのか。「異言」ではない「理解可能な日本語」であるかどうかを、客観的な目を持つ人々に判断してもらうべきではなかったのか。原著者は、この個所、あの個所で、非常に分かりやすく感動的な文章を書いているのに、訳者がそれを全く台無しにしてしまっている、ということに、どうして気づかないのか!



日本の神学研究者たちの中には、独特の「秘密主義」があるのではないか。「どうせ分かりっこないのだから」という投げやりな態度、マイノリティコンプレックスのような卑屈さ、「難しいことを教えてやってんだ」というような相手を見下げる態度、などなど。こういうことが、わたしの単なる「邪推」であることを、心から願うばかりです。



ともかく、わたし個人は、やや傲慢な理想と現状打破の闘志に燃えて、本研究会の結成メンバーの一人として名を連ねた責任を感じつつ、四年を経た今、現実の力不足と多忙さに押しつぶされつつ、いつも追い詰められたような気分で毎日を過ごしております。現実と理想の恐ろしいまでの乖離に苦しんでおります。



しかし、これは本当に幸いなことだなあ、と実感できるのは、この研究会に参加してくださっている皆様が、たとえ「無言」でも、応援してくださっていることが分かるときです。わたしはこの四年間ずっとメーリングリストの管理人を務めてきた者として感謝のうちにご報告できますことは、現在メーリングリストに登録されている82名のメールアドレスは、四年前の結成から、ほとんど誰もいなくなられないで、ずっと登録し続けてくださった方々のご好意の集積である、ということです。これは特筆すべきことであると思います。



また、多くの他のメーリングリストにおいて見られるような「荒れ」(他の登録者を故意に怒らせたり、傷つけたりするような投稿をめぐって対立・乱戦が起こることの総称)も、これまでに一度も起こったことがありませんでした。管理人であるわたしが、最も過激で、陳腐で、意味不明で、間違いだらけの文章を書いているという自覚がありますのに、見捨てないで、付き合ってくださいました。



もちろんそれは、この研究会の趣旨がもっぱら「ファン・ルーラー研究」にあり、「ファン・ルーラー」という神学者への関心と敬意から来るものであるのだ、とわたしは信じております。わたしの書くような、どうでもよい部分については、どうか適当に読み流すなり、即刻削除してくださるなりして、今後とも本研究会を応援してくださいますなら幸甚に存じます。皆様に心から感謝いたします。



最後になりましたが、毎年、結成記念日である2月20日には同じようなことを書いてまいりましたが、今年もこの機会をお借りして、ふだんお礼を申し上げることの少ない世話人の方々に、謝辞を述べさせていただきます。



顧問として常にわたしたちの活動を、学的責任をもって見守ってくださっている牧田吉和先生(神戸改革派神学校校長)、また本研究会の結成当初から関わってくださっている書記の清弘剛生先生(日本キリスト教団大阪のぞみ教会牧師)、会計の石原知弘先生(日本キリスト改革派北神戸キリスト教会伝道者)、さらに朝岡勝先生(日本同盟キリスト教団徳丸町キリスト教会牧師)、栗田英昭先生(日本キリスト教会多摩ニュータウン永山教会牧師)、そして最後になりましたが、牧師たちの身内意識で固まりがちのところを、教会の長老として、学的権威をもって厳しく見守ってくださっている田上雅徳長老(日本キリスト改革派千城台教会長老、慶應義塾大学法学部助教授)に、特別な感謝をささげます。



また、(言葉の壁により)メーリングリストの参加者になっていただくことができませんが、常に応援してくださっているオランダ、南アフリカ、アメリカなどのファン・ルーラー研究者の皆様にも、この場をお借りして感謝を申し上げます。



いつもながら、たいへん長々しい文章となり、申し訳ございません。一年後に迎える五周年記念日のあたりで、そろそろ代表者を変えていただくほうがよいのではないかと感じていますので、その件も今後ご検討いただきたく願っております。今後ともよろしくお願いいたします。どなたもお元気でお過ごしくださいませ。



(2003年2月20日)