2009年10月20日火曜日

牧師のブロガー化の行き着く先(2)

かつて親しい友人と議論する中、彼が次のように言いました。



「説教のほうはインターネットで聴くことができるが、聖餐式はそうは行かない。したがって、我々が日曜日に教会に集まる意味を失わないための鍵は聖餐式である」。



しかし、私はそのような解決策に対して半信半疑です。どちらかといえば疑う気持ちのほうが強い。はっきり言えば否定的です。「そんなふうにウマい具合に事が運ぶだろうか」と首を傾げています。



半信半疑である(はっきり言えば否定的である)理由の一つは、今のトレンドとしての「病床聖餐式」の流行です。あのようなことが流行しているかぎり、聖餐式の意義の強調による問題解決の道はきわめて疑わしいものであると判断せざるをえません。



「病床聖餐式とは何か」ということについての説明は省略しますが、「聖餐式が行われるゆえに、日曜日に教会に人が集まる」というシナリオとは、ちょうど正反対の方向にあるものです。なぜならそれは、聖餐のデリバリーサービスなのですから。「集まる・集める」ベクトルではなく「散る・散らす」ベクトルにあるのが「病床聖餐式」です。



これを明かすと多くの人から嫌われるのでできるだけ書くのを避けてきたのですが、実を言うと、私は「病床聖餐式」の確信的な反対者です。今の流行が去っていくことを心待ちにしています。



私の「病床聖餐反対論」の詳細な内容を親しい人たちは知っていますが、激論を起こしかねないのでこういうところには書かないでおきます。もし個人的にお会いする機会があれば(「もしあれば」です)そのときお話しいたします。逃げも隠れもいたしません。



「病床訪問」が教会役員(牧師、長老、執事)の重要な務めであることは確実です。この点に議論の余地はありません。しかし、それが「病床聖餐式」とセットであることの必然性は全くありません。そのあたりが大抵いつもゴチャ混ぜにされるので、冷静な話ができなくなります。