2009年10月4日日曜日

神に属する者は神の言葉を聞く


ヨハネによる福音書8・31~47

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。』彼らが答えて、『わたしたちの父はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。』そこで彼らが、『わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。』」

先週の個所の最後に記されていた言葉は、わたしたちにとって慰めを感じるものでした。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(8・30)。イエスさまが御言葉を一生懸命語っておられるのに、なかなか聞く耳を持つ人がいない。聞く耳を持つどころか、あることないこと、やいのやいの言われる。そもそもイエスさまの命を虎視眈々とつけ狙っている人々が見張っている中でもある。イエスさまの説教を妨害したい人々が言いたい放題のことを言い出す。しかし、そのような中でイエスさまの御言葉に耳を傾け、信じる人々がやっと現れた。これは本当に素晴らしいことだと、ほっと胸をなでおろしたくなるようなことが書かれていました。

ところが、です。そのようにして御自身の言葉にやっと耳を傾け始めた人々に対して今日の個所でイエスさまがおっしゃっていることは、かなり厳しい内容であるということが、読むとすぐに分かります。イエスさまのなさることに文句を言うことは慎まなければなりませんが、物事の進め方としては、かなり勿体ない感じもします。せっかく仲間になってくれそうな人々が見つかったのに、その人々に対してイエスさまが痛烈な批判を述べておられるわけです。このようなやり方は、人々を集めようとするやり方であるというよりも、散らそうとするやり方ではないかとさえ感じられます。

しかし、ここでやはりわたしたちが考えなければならないことは、このようなイエスさまのなさり方が間違っているわけではないということです。大雑把な言い方ですが、イエスさまは単なる人集めや政治的な票集めをなさっているのではないということです。イエスさまが父なる神さまのもとから遣わされてきた目的は「真理を語ること」であると自覚しておられました。真理とはしばしば耳触りの悪いものでもあるということを、わたしたちは考えざるをえません。

御自分を信じたユダヤ人たちにイエスさまがおっしゃった言葉は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というものでした。これがさっそくユダヤ人たちの気に障るものになりました。「真理があなたたちを自由にする」と言われると、今の我々は不自由であると言われているかのようだ。まるで奴隷扱いだと感じて反発したのです。我々は奴隷になど一度もなったことはないと。

それに対してイエスさまが言われたのが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(8・34)という御言葉でした。そして、彼らユダヤ人がいかに罪深い存在であるかを示している動かぬ証拠は、このわたし、イエス・キリストを殺そうとしていることであるということを語られはじめたのです。次のように語られています。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(8・37)。

イエスさま、ちょっとお待ちくださいと言いたくなる場面です。「多くの人々がイエスを信じた」(8・30)と書かれているではありませんか。信じた人々がせっかくたくさん与えられたのに、その人々に「あなたたちはわたしの言葉を受け入れない」とおっしゃるのはひどいではありませんかと。しかし、イエスさまは、彼らの信仰は本心ではなく、うわべだけであると見ておられたに違いありません。

さて、この個所で説明が必要であると思われる部分は、ユダヤ人たちがイエスさまの前で繰り返し「わたしたちはアブラハムの子孫です」(8・33)「わたしたちの父はアブラハムです」(8・39)と主張し、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(8・41)と言い張っていることの意味は何だろうかということです。とくに「姦淫」とは何を意味するのかを考えておく必要があるでしょう。

彼らが言っていることを簡単に言い直せば、我々はいわゆる混血ではないということです。混血、これは今では全くひどい差別用語ですので、口にするのも嫌な表現ではあるのですが、要するに複数の民族の血が混ざっている状態を指して言うものです。ユダヤ人はそうではないと言いたいのです。我々は信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継いでいる者たちであると。我々だけがそうであって、我々以外の民族、とりわけサマリア人には異邦人たちの血が混ざっている。アブラハムの血を純粋に保とうとしない彼らは「姦淫」の罪を犯したのであると言いたいのです。全くうんざりさせられます。

もう一つ考えてみたいのは、「信仰の父アブラハムの血を純粋に受け継ぐ」とは彼らユダヤ人たちにとって何を意味するのかという点です。その内容ははっきりしています。それは、我々ユダヤ人こそがアブラハムが信じた神から生まれた神の子であるということです。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」(8・41)と彼ら自身が言っているとおりです。

この理屈がわたしたちにとっては非常に分かりにくいものになるはずです。なぜ分かりにくいかと言いますと、彼らが言っていることを突き詰めると、まるで信仰とは血から血へと(自動的に!?)遺伝するものであると言っているかのようになってしまうからです。この点は、わたしたちには全く受け入れられません。理屈の上でも体験的にも受け入れられません。信仰者の子どもたちが自動的に信仰者になったという例を、わたしたちはいまだかつて一度も見たことがありません。そんなふうになるくらいならば、わたしたちが自分の子どもの信仰のことで苦労することなどは全くありません。これほど苦労して毎週教会に通う必要もない。これほど苦労して子どもたちを教会に通わせる必要もない。そもそも地上の教会など不要です。伝道集会など行う意味がありません。もしわたしたちが何もしなくても、自動的に血から血へと信仰が遺伝するならば、です。そのようなことはありえないと信じているからこそ、わたしたちは自分の子どもたちを教会に通わせてきたのです。信仰の継承には血のにじむような努力が必要であるということを、わたしたちは痛いほど知っているのです。

しかし、彼らユダヤ人たちが、自分たちの血が偉大なる信仰者アブラハムの血を純粋に受け継ぐものであるということに民族としての誇りを持つこと自体が間違っているとか、迷信であるなどと言う必要はありません。しかし彼らはやはり致命的な過ちを犯しています。その自分たちの純血性を強調するあまり、自分たち以外の人々をひどく見くだし、毛嫌いし、退けるところに罪があると言わなければなりません。「わたしは誰々の子孫である」ということを誇りにすること自体については「どうぞご自由に」と言う他はありません。しかし、そのようなことを言う人々が勢い余って、自分たちと比べて他の人々の血は汚いだの醜いだの罪深いだの言いだしはじめるときには「どうぞご自由に」などと言っている場合ではなくなります。全力を尽くして反対しなければならなくなります。そのような馬鹿げた考えは今すぐに捨てるべきであると、強く激しく戒めなければならなくなります。

ところが、この個所でイエスさまがユダヤ人の言動について問題にしておられることは、いま私が申し上げた点ではありません。問題にしておられるのは、あなたたちユダヤ人は差別主義者であるということではありません。問題にしておられるのは「あなたたちはわたしの言葉を聞こうとしない」という点です。「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(8・47)とおっしゃっているとおりです。

先ほど申し上げました、ユダヤ人たちが言っていることが、まるで信仰というものが血から血へと自動的に遺伝するものであるかのように聞こえてしまうこと(読めてしまうこと)に彼らの間違いがあるという点を、イエスさま御自身が(この個所で)指摘しておられるわけではありません。しかしこのことも全く無関係とは思えません。もし信仰というものが血から血へと遺伝するものであるならば、教会に通う必要はないし、説教を聞く必要はないからです。このことを逆に考えてみれば、信仰とは遺伝によって(生物学的に?)受け継がれるものであると思い込んでいたユダヤ人たちがイエスさまの説教どころか、だれの説教をも真面目に聞こうとしなかったとしても、当然すぎるほどであるということに気づかされます。

ましてそのような人々が、イエスさまがお語りになる「真理」などというものに興味を持つはずがありませんでした。真理とはしばしば耳触りの悪いものだからです。彼らにとって耳触りのよい話は、自分のグループに属する人々が他のグループの人々に比べていかに純粋であるかということであり、他の人々はいかに醜く、汚らわしいかということだったことでしょう。そのような悪魔的な話題には食指を動かし、イエス・キリストの語る「真理」は無視する。それが当時のユダヤ人の姿でした。

わたしたちはこのような過ちには決して陥るべきではありません。くどいようですが、信仰は血によって遺伝しません。信仰は、神の御言葉の説教によって、教会生活を通して受け継がれるものです。イエスさまの言葉をお借りすれば、御言葉を聞かない人々は「神に属していない」のです。

(2009年10月4日、松戸小金原教会主日礼拝)