2009年10月27日火曜日

砂上の楼閣

過去10年間求めてきたもう一つの願いは、我々の神学研究に「経済的裏打ち」が欲しいということでした。「神学、神学、神学」といくら叫び続けても、お金がなければ資料を購入することができないし、パンフレット一冊、自著一冊出版することもできません。資料的裏付けに乏しい本は、出版する価値がありません。紙資源の無駄であり、環境破壊以外の何ものでもありません。神学に関していえば、一冊の本を書くために数百万円規模の基礎資料が必要です。それくらいの費用がかかっていない本は、読む価値がありません。出版費用の問題は「印刷・製本費用」の問題だけではないのです。より深刻な問題は中身のほうです。



しかし他方、「本にならない神学」はいつでも必ず趣味、妄想の扱いです。実際これまで何度となく「関口牧師はなんだかいつもパソコンで遊んでばかりなんですね」と言われて悔しい思いをしてきました。これは私にとって最も言われたくない痛い言葉です。何度も言われてきましたのでいくらか打たれ強くもなりましたが、それでも実はいまだに寝込んでしまいそうなほどきついです。「本にならない字」をどれほどたくさん書こうとも、趣味、妄想のたぐいだと思われてしまうことに変わりはないのです。そういうことは自分自身が一番よく分かっていますので、これを言われると本当につらいです。私の最大の弱点です。



このところ日本のキリスト教出版社が進めている事業のひとつは、絶版となった名著の「オンデマンド化」です。あるいは世界的に見ても、版権の切れた名著の多くがインターネットで全文公開されるようになりました。しかし、我々の場合は、言ってみれば「初めからオンデマンド」です。一度もきちんと印刷・製本されたことがないし、表紙がついたこともない。物笑いの種以上のものになったことがない。



我々の言葉が「本にならない」理由は「お金がないから」です。私が求めてきたことを一言で言えば「改革派神学の日本における地位向上」です。そのために必要なことは「本にすること」です。そして、そのために「神学の研究ならびに出版資金を得るための制度を構築すること」が必要不可欠であると信じ、10年以上頑張ってきたつもりです。



その願いがもしかしたら実現するのではないかと期待できるまで状況が整ったのは、今年の前半のことでした。手が届きそうな距離にやっと近づいたと感じました。



しかし、この願いが、今年の夏頃、無残にも破壊されました。砂上の楼閣はあっという間に崩れ落ちました。そのことが夏以降、私の大きな悩みとなり、物事に取り組む意欲がガクンガクンと減退しています。何のために頑張って来たのかが分からなくなってしまいました。