2009年10月1日木曜日

嫌いな言葉(2)

それにしても、「なんとか的」という教会用語が多すぎることを恥ずかしく思っています。こういうのを、まさに悪い意味で「翻訳調」と言うのです。翻訳家の山岡洋一氏が常に痛烈に批判しておられる点です。横のものを縦にして「なんとか的」といいさえすれば何かを言い終えた気持ちになるのは、我々の悪い癖です。



もう廃れたのでしょうか、つい最近まで流行っていた「テーキーナー」「ミーターイーナー」と大声で叫ぶ漫才を思い出します。



「聖書的な」という言い回しも、かなり嫌いです。異端審問官的な感じで脅迫的に突き付けてくる「聖書的か否か」は、私に言わせていただくと、ほとんどの場合、意味不明です。



その問いを突き付けることで何をおっしゃりたいのかがこちらで理解できないという意味で「意味不明」です。



また、おそらくは、そのようにおっしゃっているご本人がそれによってご自分で何を言いたいのか分かっておられないようでもあるという意味でも「意味不明」です。



「日本人的な」という言葉を悪い意味でしか使わない日本人の説教者もたくさんいます。アホかと言いたくなります。「だったら、てめえはナニジンなんだよー」と。



「聖書的でない」や「改革派的でない」という言葉も、黙って聞いていると、「人間的である」というのとほとんど同じ意味で使っていることに気づかされます。どうやら根っこは同じです。



しかし、このテーマは、考えれば考えるほど、非常に深刻なものです。十分に博士論文のテーマになります。



日本の(とりわけプロテスタントの)教会の中に「神中心主義」の衣をかぶった「ヒューマニズム嫌い」ないし「人間嫌い」が色濃く見受けられます。私はこれを「羊の衣を着た狼」であると見ています。非常に邪悪極まりない何かです。