2009年9月30日水曜日

嫌いな言葉(1)

「嫌いな人」について書きましたので、「嫌いなシリーズ」をもう少しだけ続けてみようかと思いました。



大の字をつけたいほどの「嫌いな言葉」があります(「大嫌いな言葉」だということです)。それは否定的なニュアンスで用いられる「人間的な」という形容詞です。



この形容詞が用いられて繰り出されるトークは、「教会」という枠組みの外側に(生まれてこのかた一度も)出たことのない人間としては、数えきれない頻度で聞いてきたものです。「教会用語」と呼んでもよさそうなものです。



それは教会の公の発言や文書(語られた説教や書かれた説教を含む)の中だけではなく、ごくさりげない日常会話の中にも頻繁に用いられます。



たとえば、



「そのような考え方は、はなはだ人間的な考え方なのであります。しかしながら、神の御心とはそのようなものではないのであります」というふうに語られます。



あるいは、



「前々からのぞいてみたいと思っていたあの教会に、このあいだ機会あってやっと行ってみたけど、雰囲気が人間的で嫌だった。もう二度と行きたくない」というふうに語られます。



まるで、そういうふうに語っている人自身は「人間」ではないかのようです!



教会の理想形は、そこに一人も「人間」なる存在がいなくなることであるかのようです!



「救われる」とはすなわち「人間でなくなること」「人間をやめること」であると言われているかのようです!



「人間が人間的である」とは、字面を見れば疑いなく「人間=(イコール)人間」と言っているだけのことです。いわば人間の自己同一性(アイデンティティ)を表現しているだけのことです。それ以上でも、それ以下でもありません。



しかし私は、「それは人間的な○○である」という言葉を否定的・糾弾的なニュアンスで用いる人々の言葉を、ほとんどの場合、黙って聞いています。



「ちぇ人間で悪かったね!」と苛立ちますし、「人間が『人間的』であってどこが悪いのさ?」と内心で毒づいていますし、「またか」と閉口しますが、まさに「閉口」するのであって、面倒くさいことになるということがあらかじめ分かっていますので、あえて反論はしないことにしています。



なぜなら、その人々の多くは「熱心な」信仰の持ち主だからです(私自身の信仰も「熱心」であるとは思っていますが)。



その人々の場合「人間的な」という形容詞がなぜ否定的なニュアンスになってしまうのかというと、常に必ず「神との比較」という観点が持ち込まれているからです。



基本の部分に「パーフェクトな神と比べて人間はアンパーフェクトである」という《比較》のロジックがしっかりと埋め込まれているので、その人々の口から出てくる「人間的な」を否定的に発音するあの言葉づかいは、まるでバッティングセンターのピッチングマシーンのように同じ場所から・同じ球速で・同じ角度で、何度でも繰り出されることになるのです。



あるいは、「金太郎飴」と言ってもよいわけですが・・・金太郎飴って最近見たことがないのですが、まだ売っているのでしょうか。



しかし、そもそも「神」と「人間」は《比較》してよい関係なのでしょうかね(?)という点に根本的な疑問を感じます。我々にとって「比較にならない」存在のことを「神」とお呼びするのではないでしょうか。



「神と比べて人間は・・・」なんて言われても、何か説得力ありますかね(?)と首をかしげるばかりです。