2009年5月31日日曜日

三十八年も苦しんだ人が癒されたのに


ヨハネによる福音書5・1~18

「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』しかし、その人は、『わたしをいやしてくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです』と答えた。彼らは、『お前に「床を担いで歩きなさい」と言ったのはだれだ』と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはならない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」

今日の個所に記されている話を読むたびに、深く考えさせられてきたことがあります。それは、わたしたちの人生は単純なものではないということです。人生にはいろんな要素が複雑に絡み合っているのです。

あらすじは単純です。エルサレムで祭りが行われていたので、イエスさまがエルサレム神殿まで来られたところから始まります。イエスさまはエルサレム神殿の北東に位置する「羊の門」(神殿祭儀の中で犠牲としてささげられる羊を通らせるための門)の傍らにある「ベトザタ」という池と、その脇にある五つの回廊まで来られました。そしてイエスさまは、そこに横たわっていた大勢の人々をご覧になりました。その人々は「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」であったと記されています。

そして、その中には「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5節)がいました。すると、イエスさまは、その人の前に立ち止まられ、またおそらくはしゃがみこまれて話をお始めになったのです。イエスさまが質問なさったのは「良くなりたいか」(6節)でした。もし皆さんがこの人だったら、どのように答えるでしょうか。あるいは立場を逆にして考えてみることもできます。もしわたしたちの前に三十八年も病気で苦しんできた人がいたら、その人とどのような会話をするでしょうか。そのようなことをいろいろ考えながらお聞きいただくと、この話をより身近なものに感じていただけるでしょう。

それで注目していただきたいのは、この人の答えです。この人が答えたことは、「はい、良くなりたいです」ではありません。「いいえ、良くなりたくありません」でもありません。イエスさまが問われたことは「良くなりたいか」ですから、求められている答えは「はい」か「いいえ」です。しかし、この人はストレートな答え方をしていません。明らかにはぐらかしています。いろんな要素が複雑に絡み合ったような答え方をしています。突然話しかけてきた通りがかりの人に対して、素直な気持ちになれなかったのかもしれません。

この人は次のように言いました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

この人が言っていることをわたしたちは笑ったり批判したりするのではなく、なるべくこの人の立場に立って理解する必要があります。しかし、どうしても言わざるをえないことは、この人はイエスさまの問いかけにきちんと答えていないということです。この人はイエスさまの問いかけに答えていません。彼が口にしたことは、自分の病気が三十八年も治らない原因をこの人なりに考え抜いてきた結論です。

それは、要するにこうです。「あの池の水に触れると、わたしの病気は治るんだそうです。しかし、わたしはその水に触れることができません。だれもあの水にわたしを触れさせてくれません。だから、わたしの病気は治らないのです。つまり、わたしの病気が治らないのは、わたしのせいではないのです」。

イエスさまがこの人に「良くなりたいか」と言われたとき、この人のことを責める意図はなかったと私は思いますが、いかがでしょうか。しかしこの人は、まるで体と心が敏感に反応するように、「わたしは今、この通りがかりの人〔イエスさま〕から責められた!」と感じたのです。実際にこれまで、何度となく責められてきたからではないでしょうか。だから、「わたしの病気が治らないのはわたしのせいではない」ということをイエスさまの前で必死になって語ろうとしました。自分の身を守ろうとしました。

わたしたちはどうでしょうか。病気の話でなくてもいいでしょう。たとえば「今わたしは幸せではない」と感じている方。「このような状態に陥っている原因は、わたしのせいではない」と言いたい方がおられませんでしょうか。

「あなたはいつでもわたしのことを責め立てる。しかし、あなたにわたしの何が分かるのか。あなたはわたしの何を知っているのか。わたしの今の姿はこれまで体験してきた実にさまざまな要素が複雑に絡み合ってきた結果なのである。『良くなりたいか』とか突然聞かれても、『はい』か『いいえ』のどちらかで答えられるような単純な人生を送ってこなかったのである」と。

この人が何か必死になって、自分の身を守ろうとしている姿は、わたしたちにとって、決して理解できないものではないはずです。

しかも、ここにまた、もうひとつの複雑な要素が絡んできます。その要素とは、この人が口にしている「あの池の水に触れると病気が治る」という点は、ある解説によりますと、当時のユダヤ人たちは信じていなかったことであるというものです。

なるほどわたしたちは旧約聖書を読んでおりますときに「神殿の池の水に触れると病気が治る」というような話が出てくるのを見たことがありません。むしろわたしたちはそのような話には非常に違和感を覚えます。「迷信的である」と直感的に分かります。ユダヤ人も同じでした。迷信とか魔術とか占いとか、その種のことをユダヤ人は嫌っていたのです。

この人は自分で言っていることを本当に信じていたのでしょうか。この人がそのことを信じていたか信じていなかったかによって、この個所の理解は全く違うものになっていくでしょう。もし信じていた場合は、この人は自分の病気が治らない原因を、自分をあの池の水に触れさせてくれない周りの人々のせいにしていることになります。そうなりますと、「この人は、大人のくせにひどく甘えた、自立できない人間である。なんとけしからん」という話になっていくでしょう。そのようにして結局わたしたちはこの人を責めはじめることになるでしょう。

しかし、彼自身もそのようなことを本気で信じてはいなかったという場合もありうるというのです。その場合は、別の結論を用意しなければなりません。私が考えた別の結論は次のようなものです。すなわち、この人は自分の病気が治らない原因を周りにいるすべての人のせいにしているようである。しかし、そうすることによって、特定の誰かの責任が問われることを避けていたのではないかということです。

すぐに思い当たるのは、たとえば「この人の親は何をしているのか」というような責め方がありうるということです。ヨハネによる福音書9章に出てくる次の問いかけのように。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9・2)。

また「医者は何をしているのか」です。そして宗教的な次元で「神は何をしているのか」です。この人がこのような状態のままでいることを、親たちや医者たちは、あるいは神は、何もしないで、手をこまねいて放置していたのでしょうか。そうだったかもしれませんが、そうでなかったかもしれないではありませんか。

もしかしたらこの人は、自分の病気が治らない原因を、周りの人々から、それはあなたの親のせいであるとか、医者のせいであるとか、神のせいであると言われることを、最も嫌がっていたかもしれません。しかし、自分のせいでもない、とも言いたい。だからこそ、あの池の水に触れさせてくれない誰かのせいにした。それは、もしかしたら、自分の近くにいる人々をかばう気持ちの表われだったかもしれないではありませんか。

わたしたちの人生は、単純ではなく、複雑なのです。わたしたちがいちばんしてはならないことは、病気の人を責めることです。責めることでその人の病気が治るのなら話は別ですが、そのようなやり方では、おそらく何の解決にもなりません。

この点でイエスさまは違いました。イエスさまが言われたことは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)ということでした。そしてまた「あなたは良くなったのだ」(14節)ということでした。原因を探って責めたりはなさいませんでした。勇気をもって新しい一歩を歩みだすことができるように、励ましてくださったのです。

しかし、「もう、罪を犯してはならない」(14節)とも言われています。これはどういうことでしょうか。ぜひ安心していただきたいことは、イエスさまは、この人の病気の原因はこの人が犯した罪にあると言っておられるわけではない、ということです。そのような結び付け方は間違っていると、この福音書の9章でイエスさまが明言しておられます。

ところが、です。この人がイエスさまによって癒されたこと、床を担いで歩き始めたことを快く思わなかった人々がいました。ユダヤ人たちです。三十八年も苦しんできた人が癒されたのに、です。この人々は、そのことを喜ばず、なぜ安息日なのに床を担いでいるのかとか、お前の病気を治したのは誰なのかと責めるばかりでした。もっとましなことが言えなかったのかと思わずにはいられません。そして、ヨハネが記していることは、この出来事をきっかけにして、ユダヤ人たちのイエスさまへの迫害が始まったということです。

わたしたち教会の者たちは、このユダヤ人のような愚かさに陥るべきではありません。人のあらさがしをすること、他人を責めることは簡単です。また、ずばり原因を分析してみせることは必要かもしれませんが、それで問題が解決するわけではありません。複雑な人生を送っている人々を単純すぎる言葉で傷つけることは間違っています。

この個所を今日、ペンテコステの日に取り上げることができたことを幸いに思います。キリスト教会は、このユダヤ人のように、人を責めるために立てられたのではありません。そんなものは教会ではありません。わたしたちのなすべきことは、イエスさまのように、人を助けること、励ますこと、その人の立場に立って考え抜くことです。そのような慰めと励ましに満ちた教会を築いていくことです。

(2009年5月31日、松戸小金原教会主日礼拝)