2009年5月18日月曜日
贅沢な奇跡
ヨハネによる福音書2・1~11
「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
アムステルダム自由大学神学部で長く教義学講座を担当したヘリット・コルネーリス・ベルカウワー教授が1960年に出版したヨハネによる福音書についての説教集が、私の手元にあります。タイトルは『世の光』(Het licht der wereld)といいます。
49年前に出版されたものですので(ベルカウワーは当時57歳)、すでにお読みになった方もおられるのではないでしょうか。私が手に入れたのはつい最近のことです。すらすら読めるわけではありませんので面白そうなところだけを拾い読みしてきました。
その中でいちばん興味をひかれましたのが、ヨハネによる福音書2章のいわゆる「カナの婚礼」でのイエス・キリストの奇跡についての説教でした。今日はその説教のかいつまんだところを紹介させていただき、そのことを通して皆さまに一つのお勧めを申し上げたいと願っております。
説教の冒頭でベルカウワーが指摘していますことは、「カナの婚礼」の出来事は、2・11によるとイエス・キリストにとっての「最初のしるし」であったということです。なかでも「最初の」というこの点が重要な意味を持っているということが、あとで分かります。
ベルカウワーが続けて述べていることは、注目すべき内容をもっています。そのイエス・キリストにとっての「最初のしるし」が、たとえば癒しのわざであるとか、あるいは足の不自由な人を新しい人生の陽の光のもとに生かしめるみわざであるとか、目が不自由な人の目を見えるようにするとか、死者をよみがえらせるというようなことではなかったのだということです。
イエス・キリストが最初になさった奇跡のみわざは、結婚式の場で水をぶどう酒に変えるというようなことであったのだ、これをある注解者は「贅沢な奇跡」(luxe-wonder)と呼んでいるほどのことだったのだ、と述べています。
そしてベルカウワーが言うには、この物語を読む人々がどうしても最初に思い浮かべてしまうことは、これは贅沢な話であるということであり、現実的な享楽であるということであり、豊かさということである。そして実際この箇所で強調されているのはそのようなことではないだろうかと彼は問うています。
つまりベルカウワーは、この箇所を読む人が「なんて贅沢な話なのだろう。けしからん」と思ってしまうことは無理もないことであると考えているのです。そもそもこのテキストの趣旨はそのようなものであると考えているのです。
そして、ベルカウワーは、イエス・キリストの最初のしるしが「贅沢な奇跡」であったということを肯定的に受け入れたうえで、それではその意味は何なのかということをこの説教の聴衆、あるいはこの説教集の読者に考えさせようとするのです。
ベルカウワーがこのようなことを指摘した意図ないし理由は、すぐに分かります。彼はこのように言っています。「教会の周辺部分にいる人々だけが、この最初の奇跡を気難しく考えるのである。それはぶどう酒だとか、豊かさだとか、盛大なお祭り騒ぎのようなものから距離を置いて座る禁欲主義者たちである。」
もっときついことも言っています。「それは、何度でも繰り返し教会の中に現れる、キリスト教信仰を何よりも先に祝いごとの要素のほうへと結びつけるのではなく、喪に服するという要素のほうへと結びつけようとする人々である。それは福音に逆らって立つ人々であり、頑固さや気難しさの要素をキリスト教信仰に結びつけようとする人々である。」
これではっきりとお分かりいただけるでしょう。この説教には明確な意図があります。要するに禁欲主義者への批判です。このテーマがこの説教の全体の中で一貫して扱われています。
「そのような禁欲的な生き方は改革派的ではない」というような言い方をベルカウワーはしていません。しかし、わたしたちはそのような言い方をしてきたと思いますし、私はそのような言い方が嫌いではありません。むしろ私はそのようにはっきり言いたいほうの人間です。本来の改革派信仰は「喜びの信仰」である。改革派教会の信仰にはいささかも禁欲主義的な要素はないと。
祝いの席で気難しい顔や態度をとっている人は、はっきり言って迷惑な存在です。周囲を不愉快にさせるだけであり、嫌がらせ以外の何ものでもありません。
花婿であるイエス・キリストは、すでに来てくださった方です。わたしたちはイエス・キリストによる救いの恵みにすでに与っている者たちであり、救われたことの喜びを前面に出して表わしてよい者たちです。そのわたしたちがなぜ、いつまでも「喪」に服し続けなければならないのでしょうか。それは福音に逆らって立つことであるというベルカウワーの指摘は全く正しいものです。
わたしたちの礼拝は本質的に祝い事ではないでしょうか。礼拝中に気難しい顔で腕組みして座っている人とか、鋭い批判的な目で説教者をにらみつけている人の姿が見えますと、わたしたち説教者の多くは非常に不愉快な気持ちになります。
もちろんそのような雰囲気を説教者自身が作り出してしまっている場合もあります。説教者自身の神学思想の内容が「キリスト教信仰とは喪に服することである」というようなものであるとしたら、この人の語る説教が、礼拝全体、教会全体を暗く落ち込んだものにしていくでしょう。その場合には、「礼拝が、教会が、暗く落ち込んでいます。説教者よ、それはあなたの責任です」と言われても仕方がありません。
ベルカウワーの禁欲主義者に対する批判は徹底しています。次のようにも語っています。「神という方は、豊かな賜物をお与えくださる方なのであって、貧相な方ではない。・・・『わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』(ヨハネ10・10)と語られているとおりである。」
説教の最後の部分で、ベルカウワーは次のように述べています。
「この奇跡、この最初のしるしの物語が教会のなかで持っている影響力は非常に強いものである。教会はいつも必ずというわけではないが時々あるいはしょっちゅう、神の賜物を人間の堕落という点から解釈してきた。・・・しかし、ヨハネによる福音書は、そのような解釈とは別のアプローチの方法をわたしたちに提供している。わたしたちが日常生活の陳腐さや道徳くささを自分自身で乗り越えるのは難しいことである。カナの婚礼の物語を通してヨハネが示しているのは、イエス・キリストからいただける賜物の豊かさであり、失われたものの回復である。それは可能であり、実現することである。」
わたしたちの教会が、とりわけ主の日の礼拝が、豊かであり贅沢であり、明るく楽しい祝いの席であって何が悪いのでしょうか。ベルカウワーが指摘しているとおり、この箇所に描かれている奇跡物語はイエス・キリストにとっての「最初のしるし」なのです。「最初」の出来事は記念すべきです。その内容がなんと、こともあろうに、結婚式の場で飲み尽くされたぶどう酒の追加分を提供してくださるということだったのです。
このお勧めが、イエス・キリストの恵みは豊かなものであり、贅沢なものであるということを覚えていただくきっかけとなればと願っております。
(2009年5月18日、東関東中会・東部中会合同教師会開会礼拝説教、於 花見川キリスト教会)