2009年5月5日火曜日

どうしたら道は開けるか(3)

しかし、私が抱いているこのポリシーには悪い面もあるということに、繰り返し気づかされてもきました。悪い面とは何でしょうか。それは、私がこのポリシーを保持し続けているかぎり、「牧師職はあくまでも牧師職なのであって、それ自体に固有の職務があるのであって、牧師職自体が研究職ではないし、また牧師職自体が教育職でもない」という見方を自分自身では払拭することができないということです。



私の経験から言わせていただけば、この見方こそが実はかなりのクセモノなのであって、わたしたちを相当悩ませてきたものでもあります。今は詳述するのを控えますが、これこそが「牧師の神学研究」を著しく阻害してきた要因であると断言できます。



別の表現でいろいろと言い換えてみれば、事柄のグロテスクさをよく分かっていただけるはずです。



「牧師職」を「研究職」からも「教育職」からも切り離して扱おうとすることは、「神学を営むこと(doing Theology)をもって生計を立ててもよい権限もしくは資格を有する者は、神学部・神学大学・神学校の教授職に就いている『神学博士』(Theological Doctor)ないしそれに準じる者に限ります」と言っているのと同じです。



「神学校から遠い地域の教会に仕えている、神学校で教える可能性のない(普通の)牧師たちは、今さら神学など学んでも無意味なのだから、そんな無駄でつまらないことを続けるのはおやめなさい」と言っているのと同じです。



当然のことながら、そのように語る人々の心のなかに思い描かれているイメージは、神学部・神学大学・神学校の教授ポストを中心とする“同心円”です。その円の中心(場所および人物)に物理的・距離的に近い教会のメンバーシップを取得することないしその牧師になることが、スゴロクで言うところの「アガリ」。「それ以外の(一般の?)教会員と(一般の?)牧師たちには、残念ながら“神学権”は認められておりません。どうぞお引き取りください」と言っているのと同じです。



「権限も資格もないのに強引に続けたいなら、どうぞご勝手に。ただし、マニア的趣味(「無資格者が営む神学」を指す揶揄)に熱中するのも程々にしてくださいね。それはあなたの現実逃避ですから」と言っているのと同じです。