2009年5月5日火曜日

どうしたら道は開けるか(2)

教育と研究の関係を「収入と支出の関係」という観点から見る。これはもちろん、かなり強めの皮肉を込めて書いていることです。この見方が事柄のすべてを物語りえているとも思っていません。



しかし、この観点から言うならば、「研究をサボっている教育者」は支出が少ない分だけ残金が多いわけですから、比較的余裕のある生活をしている可能性があります。逆に「教育職に就くことができない(就職先が見つからない)研究者」はゼロサム(プラマイゼロ)ないし借金生活でしょう。これはおそらく厳粛な事実です。



ここで起こるひとつの問題は、「牧師は教育職なのか」という点です。おそらく多くの人々は「教育職と見てもよさそうな面もあるかもしれませんが、たぶんそれだけではないでしょうね」というような、曖昧だけれど実態に即した答え方をするでしょう。「そもそも牧師は職業の名に値するのか」という問いさえ、日本では繰り返し投げかけられてきたわけでして。田舎の教会で「神学の研究と教育」とか言われてもねえと、あからさまな顰蹙(ひんしゅく)の目を見、つぶやきの声を聞いたこともたびたびあります(しかし、私自身が田舎の教会で「神学の研究と教育」の重要性を主張したわけではありません。間接的に“釘を刺された”のです)。



私が24歳と5ヶ月で伝道の仕事に就いて以来抱いてきたポリシーのようなものは、「牧師は教会の献金のみで生きるべきだ」ということでした。このポリシーが間違っていると言われるならそれまでのことですし、生活に窮する場面は多々ありました(苦しい状態であることは今も全く変わっていません)。しかし、「教会の献金だけで生きる」とは、教会の存在理由である「伝道」の仕事に百パーセント専念できるということですので、私の「自由」が百パーセント確保されている状態であるということです。いわゆる「ひもつき」のお金に振り回されたり悩まされたりせずに済んだことだけは幸いでした。