当時の感覚を言葉にしていえば(どう表現しても誤解を避けることはできそうもありませんが)、次のような感じになります。
「私が信じていることを学校の教師や友人の前で口に出しても絶対に理解してもらえないことは、分かっている。けんかと暴力は大嫌いだし、トラブルに巻き込まれたくないから、黙っていよう。それに、私が教会に通っているということを口にしたばかりに、『なんだ。アーメン、ソーメン、冷ソーメンかよ』とか相手に言わせてしまうのは、そういうことを言っているその人々に神を冒涜させてしまうことになるので、かわいそうだ。しかし私の神が私を応援してくれている。私自身は少しも揺らぐこともぶれることもない。とはいえ、こちらとしては、いつまでも黙っているのも不本意だ。私の心の声、『キリスト者の声』(vox christiani)をどうしたら公の場で自由に述べることができるようになるのか。それを知りたい。」
私が「どうしたら道は開けるか」だ「ブレイクスルー」だ言っていることのすべては今書きとめたばかりの少年時代に抱いた問いの答えの求め方は何なのかにかかっているということに、気づかされます。一般化していえば「信教の自由の要求」です。要するに私は、ほとんど40年前から、同じ一つの問いの前でうろついたままなのだということです。
ここで本当は「愕然と」すべき場面かもしれませんが(おまえの精神年齢は低すぎるという事実を突き付けられたわけですから)、わりと「平然と」しています。事の真相からいえば、たとえばもしこの私が「マイノリティ」でない者になり、良い意味でメジャー化(?)する日には、古い日本はもはや形を失い、ほとんど「革命的」と言いうるほどの変容を遂げているはずです。
なぜなら、私自身は揺らぐこともぶれることもありませんから。
私は動きはしません。もし動くとしたら、この国のほうです。