2009年5月10日日曜日
ここで本物の礼拝をささげよう
ヨハネによる福音書4・16~30
「イエスが、『行って、あなたの夫を呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」
今日お話ししますのは先週の続きです。イエスさまはエルサレム方面からガリラヤ地方へと行く道の途中に通るシカルという町で立ち往生なさいました。なぜ「立ち往生」なのかと言いますと、「座っておられた」のは真昼の炎天下、喉が渇き、体が動かなくなられた可能性があるからです。一種の脱水症状のような状態になっておられたかもしれません。
そこでイエスさまがなさったことは、井戸に水を汲みに来ていた女性に「水を飲ませてください」と願われることでした。ところが、です。この女性は「はい、分かりました」と二つ返事では了解してくれなかったというのが先週の個所に記されていたことです。
このたび私はイエスさまと女性のやりとりを何度も読み直してみました。それでやっと分かって来たことは、このやりとりは口喧嘩であるということです。女性は明らかに腹を立てています。イエスさまのほうも火に油を注ぐようなことをおっしゃっています。最も悪いパターンです。
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)という女性の問いかけの意図は、イエスさまの申し出をやんわりと断ることです。「あなたに飲ませる水はありません」と言っているのです。
それに対してイエスさまがおっしゃっていること(10節)は、頭を下げてお願いするのは本来ならばあなたのほうですということです。普通の耳で聞けば冗談か脅しのどちらかです。もしこれを(水戸黄門の声で)笑いながら言えば冗談になりますが、(助さん格さんの声で)「ひかえおろう。このわたしを誰と心得る」と言えば脅しです。
女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちでない」(11節)と言っています。子どもでも、遠足の日には水筒ぐらい持っていくでしょう。イエスさまは水筒も持たずに旅をしておられたのでしょうか。もしそうだとしたら致命的な準備不足です。あまりにも子どもじみています。そのような人をこのわたしがなぜ助けなければならないかという思いも、女性のうちにあったかもしれません。
「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この水から水を飲んだのです」(12節)という言葉に至っては、彼女はほとんど激怒しています。彼女が言いたいことは、あなたはこの井戸を馬鹿にしているのですかということです。
イエスさまは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(13~14節)とおっしゃいました。その言葉に彼女は腹を立てているのです。何百年、何千年という歴史を通してこの町の人々を養い育んできた水を供給してきたこの井戸をあなたは馬鹿にするのですか。この井戸を最初に掘り当てた偉大な人ヤコブよりもあなたは偉いのですか。そこまで言うなら、あなたも今すぐ別の井戸を掘ってみなさいと。
これこそが「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)という彼女の言葉の意図です。この言葉はイエスさまへの従順を表しているのではありません。全く逆です。この井戸に来なくてもいいように別の井戸をあなたが今すぐ掘ってください。やれるものならやってみなさいと言っているのです。ほとんど喧嘩腰で、最大限の皮肉ないし嫌味を言っているのです。
そして、このやりとりが、今日の個所につながっていきます。
イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。イエスさまがなぜこのようにおっしゃったのかが、これまではよく分かりませんでした。しかし、これはどうやら口喧嘩であるということがこのたびやっと分かりましたので、夫を呼んで来なさいとおっしゃった意味は何かがようやく分かりました。あなたとわたしがこれ以上言い合っていてもらちがあかないので、話の分かる人を呼んで来なさいという意味です。責任者を呼んで来なさいということです。そのように理解すれば、話がスムーズに流れていくでしょう。
ところが、女性の返事は「わたしには夫はいません」というものでした。それは嘘ではなく事実でした。ただし、単純ではなく複雑なものでした。そうであることをイエスさまが見抜かれました。「『「わたしには夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない』」(17~18節)。
ここでしばしば出される疑問は、イエスさまがなぜ、この女性に五人の夫がいたという事実をご存じだったのかというものです。解決策は大きく分けて三つあります。第一は、イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。第二は、イエスさまはこのシカルの町に初めて来られたわけではなく、何度も来られていたので、女性の事情くらいはあらかじめ町の人々から聞いておられたに違いない。第三は、「五人の夫」は比喩であり、サマリアにある神さまや宗教の数のようなことだったに違いない、です。
私はこの三つともあまりすんなりとは受け入れることができませんが、強いてひとつ選ぶとしたら、第一の見方を選びます。イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。
しかし、このイエスさまのお言葉の中で重要な点は、彼女の夫がかつて何人いたというその数をずばり当てることがおできになったということではないと思います。重要な点はそこではありません。重要なことは「あなたには複数の結婚経験があり、しかも、今連れ添っているのは夫ではない」という点です。
この点がどのような意味で重要なのかということを今ここで私が詳しく説明し始めますと、いろいろと差しさわりが出てくることを覚悟しなければなりません。今の時代の中では単純な家庭環境の中にいる人のほうが少ないと言えます。複雑な家庭環境の中にいる人々のほうが多い。そのような人々を不愉快にさせるようなことを言いたくありません。
しかし、です。かなり公平な目で見ようとしても、結婚を複数回繰り返し今連れ添っているのは夫ではないというこの女性の姿を思い浮かべながら、「このような生き方も彼女の人生だから、他人からとやかく言われる筋合いにない」というようなことだけ言って済ませるわけには行かないものも感じます。
もちろん女性だけの責任にすることはできません。男性の責任も重大です。しかし、どちらが悪いという話は、たいてい水掛け論に陥ります。そして今ここで問題になっているのは、この女性の問題です。彼女の側にも問題があったということです。そのことをイエスさまは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われていることの中で、はっきりと指摘しておられるのです。
イエスさまが指摘しておられるのは、それはあなたの問題だということです。結婚を繰り返すこと、今連れ添っている人とは結婚していないことが良いことなのか悪いことなのか、失敗なのか成功なのか、幸せなのか不幸せなのかという話に直接結びつけることを私はしたくありません。そういうことを私に聞かないでください。答えることができません。
しかし一つだけ言っておきたいことがあります。それは、イエスさまが彼女のいわゆる私生活の問題を指摘なさった直前にイエスさまが「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃったことは、決して無関係ではありえないということです。おそらくこれは別に我が家だけの問題ではなく、おそらくすべての家庭、すべての夫婦にも当てはまることだと思います。わたしたちの家庭そのものは、夫婦の関係そのものは、毎日井戸から水を汲みあげなければ、すぐにでも渇いてしまうような関係なのだということです。しばらく放ったらかしておいても大丈夫、というようなものではありえないのです。
だからこそ、毎日毎日、渇きを覚えるたびに、一人の相手のために、同じ家族のために、水を汲んでこなければならない。それが本来のあり方です。
しかし、この女性がたどって来た道はそれとは違っていたようです。その責任が彼女の側にあったのかそれとも男性側にあったという点はともかく、彼女の生き方は「今の相手に渇きを覚えたら、次の相手を探す」というようなあり方だったのではないでしょうか。ここにこの女性の問題があるのだと、イエスさまは指摘されたのです。
時間が無くなって来ましたので、話を先に進めます。女性は、イエスさまの鋭い指摘に触れて、この方は「預言者」であると考えました。うんと俗っぽく言えば、この人は宗教関係者であると。要するに牧師のような仕事をしている人だと分かりました。そのことが分かった彼女は、ここで話題をくるりと宗教のはなしに切り替えます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
この言い方もまだ、先ほどからの口喧嘩が続いている状態のものだと思ってください。サマリア人とユダヤ人の違いを説明しようとしているのですから。あなたがたの総本山はエルサレム神殿ですよね、わたしたちはゲリジム山ですよと。
しかし、この場面でイエスさまがものすごく重要な言葉をお語りになります。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)。
イエスさまがおっしゃっているのは、次のことです。ユダヤ人とサマリア人の違いなど問題にならない新しい場所で新しい礼拝が始まる。今ここでそれが始まるのだということです。地理的な場所そのものは問題ではありません。エルサレム神殿で行われなければ、ゲリジム山で行われなければ、それは「本物の礼拝」ではないというような話は、今日で終わりである。今あなたの目の前にいるこのわたし、救い主イエス・キリストがいるところならどこでも、本物の礼拝をささげることができるのだ。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と言われたことは、水の話ではなく、これは礼拝の話であるということが、彼女にだんだん分かって来たのです。神の御言葉を告げる説教、賛美と祈り。それが行われるのが礼拝です。礼拝こそが、わたしたちに永遠の命を与える永遠の泉なのです。
(2009年5月10日、松戸小金原教会主日礼拝)