2009年5月3日日曜日

くめど尽きせぬ命の泉


ヨハネによる福音書4・1~15

「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。』」

先週学びましたイエス・キリストのみことばは、たいへん抽象的で分かりにくいものでした。私の説明も悪かったと反省しております。

しかし、今日の話はとても具体的で分かりやすいものです。これは自信を持って言えることです。この個所に描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストと一人の女性との出会いの物語です。

これはわたしたちにも分かる話です。わたしたちは地上に生きられた歴史上の人物としてのイエスさまにお目にかかったことはありません。しかし、普通の意味での人と人との出会いの体験ならば、必ずあります。その体験が重要なのです。今日の個所を読みながらわたしたちの日常生活における出会いの体験のあの場面この場面を思い出していただいて結構です。そのような読み方が可能であると思われるのです。

最初の段落に記されていますことは、イエスさまとその女性との出会いが起こるまでの経緯についての事情説明です。しかし、内容的には興味深いことが含まれていますので、少しだけ立ち止まっておきたいと思います。

ここに書かれていることは、イエスさまが宣教活動を開始されましたので、イエスさまのもとに多くの人が集まるようになりましたということです。しかし気になるのは、2節に「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」という断り書きです。この断り書きの意味は、洗礼の儀式はイエスさま御自身ではなくイエスさまの弟子たちが行っていたということであると思われます。

しかし、だからといってその洗礼はイエス・キリストの洗礼ではなく弟子たちの洗礼であったと言わなければならないわけではありません。そもそも、たとえばペトロの洗礼であるとかヤコブの洗礼とかヨハネの洗礼というようなものは存在しません。「何々先生の洗礼」なるものは、そもそも存在しないのです。少なくともそのような洗礼をキリスト教会は行ってきませんでした。「いや、キリスト教にもいろいろある」と言われるかもしれません。少なくとも改革派教会では、洗礼に対するそのような考え方は到底受け入れられないものです。

洗礼の主体はイエス・キリストであり、イエス・キリストの体なる教会です。どれほど間違っても洗礼の主体は教師個人ではありません。儀式を行った教師が誰であれ、それが「イエス・キリストの洗礼」であることには変わりがないのです。この点がぐらつきますと、わたしたちの信仰生活は真の神への信仰によって成り立つものではなく、ただ単なる人間関係だけで成り立つものへと変質してしまうでしょう。

イエスさま御自身が洗礼の儀式を行われなかった理由は、ここには記されていません。しかし、すぐに思い当たります。「私はもろもろの弟子たちからではなく、イエスさまの手から直接洗礼を授けていただいた人間である」というような話が独り歩きし、そのような洗礼が何かある特別な意味を持ち始めるというようなことをイエスさま御自身が最も警戒なさったからに違いありません。そのような信仰のあり方は、本来のキリスト教とは最も遠いものであると言わなければなりません。

さて、イエスさまの弟子が増えてきたことが、ユダヤ教団の人々、とくにファリサイ派に属する人々の耳に入るようになりました。この「ファリサイ派」の人々は、バプテスマのヨハネのもとに遣わされた人々(1・24)の関係者であることは間違いありません。彼らは一種の警察権力であり、ユダヤ社会とユダヤ教団を脅かす存在が出てくることを絶えず警戒していた人々でした。その彼らの目から見れば、イエスさまとその弟子たちの集団は危険な存在に見えたようです。彼らが動き始めたことをイエスさまが察知なさいました。

もちろんイエスさまたちは何も悪いことをしていたわけではありませんので、逃げることも隠れることも必要ないだろうと言われるならば、なるほどそのとおりです。しかし、権力をもつ人々が自分たちに都合が悪い存在を闇から闇へと葬り去ることがありうることは否定できません。そのことをイエスさまはご存知でした。そのため、より安全な場所に身を移すことをお考えになり、ユダヤ教団の本拠地であるエルサレム神殿のある地域からは遠いガリラヤ地方に行くことになさいました。

ところが、です。ユダヤからガリラヤへ行く途中、イエスさまは、サマリアと呼ばれる地域を通らなければなりませんでした。ただし、「通らねばならなかった」(4節)の意味は、その道しかなかったということではないように思われます。道は他にもあります。しかし、イエスさまにとってできるだけ安全な道を選ぶとしたら、このサマリアを通る道が最適であったということでしょう。

なぜこの道が最適だったのでしょうか。それは9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれているとおりです。ユダヤ人はサマリア人を民族的・宗教的に差別していました。自分たちが忌み嫌っている人々が住んでいる町にも近づこうとしませんでした。ですから、サマリアの町を通ることがイエスさまにとってはユダヤ教団の人々の追跡を逃れるために最適な道であったと考えられるのです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。それとは趣旨が異なるかもしれませんが、似たようなところもあります。しかし、わたしたちが考えておきたいことは、嫌いな人の住んでいる町には近づきたくもない、その人の家の前は通りたくもないというような心理状態はどのようなものだろうかということです。

同じ空気を吸いたくもない。その相手が地上に存在していることさえ許せない。そのように敵意や憎悪がエスカレートしていくことがわたしたちにも全くないとは言えないはずです。とはいえ、この場面では、ユダヤ人たちのサマリア人嫌いが結果的にイエスさまの身の安全の確保につながったようであることは、決して良いことであったとは思いませんが、皮肉であるとしか言いようがありません。

そのようにして、イエスさまは、ともかくサマリア地方を通る道を選択なさいました。そしてシカルという町に着きました。この地方は山坂険しいところでもありますので当然お疲れになりました。神の御子もお疲れになるのです。そして、シカルの町の井戸のそばに座りこんでしまわれました。女性がイエスさまと出会ったのは、この場所でした。

それは「正午ごろのことである」(6節)と記されています。なぜ時間のことが記されているかははっきりとは分かりませんが、それはおそらく、真昼間の出来事であったという意味でしょう。

つまり、太陽が真上から容赦なく地上を照らす灼熱地獄。そのときイエスさまは疲れと渇きの絶頂の状態であられたのだということが暗示されているのではないかと思われます。その状態のイエスさまが水を求めて井戸端にへたり込んでおられる様子は、想像すると何とも言えない気持ちにさせられます。「かわいそうだ」という言い方には語弊がありますが、なんとかしてあげたいような気持ちにもなります。

そこに女性が現れました。彼女は井戸に水をくみに来ました。その女性に対してイエスさまが「水を飲ませてください」とお願いなさったのです。「おい、水を飲ませろ」と強盗のように脅したわけではありませんし、上から命令なさったわけでもありません。哀れな姿としか表現のしようがないほど憔悴しきった中で水を求めておられるイエスさまの様子が目に浮かびます。違うでしょうか。

ところが、その女性は、ある意味で当然の、しかし、何となく冷たい感じもする言葉をイエスさまに投げ返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。

これがある意味で当然の言葉であったと申しましたのは、先ほども触れましたように、ユダヤ人はサマリア人を宗教的・民族的に差別していたからです。とくにユダヤ人の側がサマリア人を馬鹿にし、見くだしていました。そのユダヤ人であるイエスさまがサマリア人の女性に頭を下げてお願いする。それは明らかにタブーを破る行為でした。それは彼女の側からすれば、天地がひっくり返るほど驚くべきことであったに違いありません。

しかし、何となく冷たい感じもすると申しましたのは、目の前に現実に疲れきっており渇ききっている人が横たわっているのに、すぐには助けようとしないで、この私にそんなことをどうして頼むのですかと理屈を言って突き放しているようでもあるからです。

わたしたちならどうするだろうかと、ここでも考えておくことが重要です。嫌いな人や憎い人、敵対関係にある人が、目の前で困っている。そして、その相手が自分に対して頭を下げて助けを求めてきた。自分はその人を助けることができる力や技術を持っている。しかし、そこには単純に乗り越えることができない壁や障害がある。助けるべきか、立ち去るべきか。そのようなことで悩むことがわたしたちにもあるのではないでしょうか。

しかし、そのような場面でわたしたちは実際にどのようにするでしょうか。相手の出方次第であるという面があるかもしれません。頭の下げ方がまだ足りない。それこそ地面に這いつくばってでも願うなら、よし分かった、言うことを聞いてやってもよい、となるか。それとも、はいはい、どうぞどうぞ、となるか。

イエスさまは、この場面で何とも不思議なことを語り始められました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)。

「あれれ?イエスさまはお願いしている立場であるはずなのに、逆のことを言っているぞ」と思われても仕方がないようなことをおっしゃっています。しかし、このイエスさまの言葉が、このあと、彼女を救いに導くものになりました。「水を飲ませてください」から始まるなにげない会話をきっかけにして、この女性の人生に根本的な変化が起こりました。本当に渇いているのはイエスさまではなく自分自身であったということに彼女は気づきました。イエスさまがそのことに気づかせてくださったのです。

この続きは来週お話しいたします。

(2009年5月3日、松戸小金原教会主日礼拝)