2009年5月17日日曜日
垂穂は色づき刈り入れを待っている
ヨハネによる福音書4・31~42
「その間に、弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。』さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」
先週までに学びましたことは、わたしたちの救い主イエス・キリストとサマリアの女性との出会いの出来事についてでした。この女性には五人の夫がいましたが、このとき連れ添っていたのは夫ではありませんでした。そのことをイエスさまは見抜かれました。
そのことを見抜いておられたからこそイエスさまはこの女性にあのようにおっしゃったのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。
ここでイエスさまが指摘なさっていることは、水を求めているのはあなたのほうですということです。渇いているのはわたしではなく、あなたのほうであると。もっとも、ここでイエスさまは、彼女が渇いている原因は何であるかを、はっきりと言葉になさっているわけではありません。しかし、このやりとりからそのことははっきりと分かります。
結婚を繰り返すことや今連れ添っているのは夫ではないこと自体があなたの罪である、間違いであるというようなストレートな言い方をイエスさまはしておられません。しかし、そのような生き方や結婚のあり方を続けてきたあなたの心は、今まさに渇ききっているのではないでしょうか、そのあなたこそ生きた水を求めているのではないでしょうかと指摘しておられるのです。
そして、そのやりとりのすぐ後に、礼拝の話が続いています。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)。このこともまた、渇いているのはあなたのほうではないかと指摘しておられることと無関係であるはずはありません。
生きた水をあなたに与えるのは井戸ではなく礼拝なのだと。
複雑な人間関係のなかで人を傷つけたり、自分が傷ついたり、渇きを覚えたりしてきたあなたの心を真に潤すことができるのは井戸の水ではなく、このわたし、救い主イエス・キリストの御言葉なのだと。
そのように話をつなげて理解することが可能であると思われるのです。
ここでわたしたちのことを考えてみることができそうです。五回も結婚を繰り返したことはありませんとおっしゃるかもしれません。しかし、複雑な人間関係に苦しんだり悩んだりして来た方は多いのではないでしょうか。
そのときに、です。わたしたちは、そのような問題をどのような仕方で解決してきたでしょうか。最初の人間関係が崩れました。それによってわたしの心は深い傷を受け、渇きを覚えました。わたしはこの渇きの苦しみから逃れたいです。そのような願いを抱いた人が次にとる行動は、何でしょうか。
わたしの心を潤してくれる次の新しい人間関係を探すこと。それももちろん大事なことです。しかし、おそらくわたしたちの多くが体験的に知っていることは、そのようにしてたどり着いた次の新しい人間関係の中にも別の問題が潜んでいたというようなことです。「前よりはましである」という比較級の考え方はありうるでしょう。しかし、わたしたちの多くがまだそれを体験したことがないゆえに知らない事実は、「前はめちゃくちゃだった。しかし、今は完璧である」ということでしょう。
そう、わたしたちが知っている単純な事実は、完璧な人間関係などどこにも存在しないということです。人間同士の関係の中で完璧主義を要求する人は、どこに行っても居たたまれない思いに苛まれるでしょう。
全く開き直ってしまうなら、そもそも人間同士の関係改善という点だけであらゆる問題を解決しようとすること自体に無理があると言わざるをえないのです。それはなぜなのか。そのようなときに限ってうっかり忘れてしまいそうになることは、他ならぬわたし自身が何ら完璧でないという事実です。
「わたしは人間関係に傷ついている」と考えているあなた自身にも罪があるという事実です。もしかしたら今の人間関係を悪いものにしてしまっている原因は実はあなた自身であるということも考えてみなければなりません。
しかし、です。今わたしが申し上げているような方向で話を進めていくときにしばしば至る結論は、「現状で我慢しましょう」というものだったりします。
相手にも罪があるかもしれないが、あなたにも罪がある。文句を言いたいのはあなたのほうだけではなく、相手も文句を言いたいのだ。だから喧嘩両成敗。お互い様。あいこ。引き分け。
このような解決の仕方は、時と場合によっては知恵深いものでもありますが、非常に抑圧的なものでもあります。現状で我慢しなさい。忍の一字で耐え抜け。人生は修行である。
これをわたしたちは「解決」と呼ぶことができるでしょうか。少なくとも私には、それをそう呼ぶことは無理です。私が申し上げたいことは、そのようなことではありません。
ならば、どういう仕方であればそれを「解決」と呼ぶことができるのでしょうか。一つの人間関係に敗れました。だから別の新しい人間関係を探します。そのようにわたしたちが考えることは当然のことであり大切なことでもあると私は信じています。
しかし、その別の新しい人間関係を探す際に重要なことがあります。ただし、ここで私は、話を大きく飛躍させます。論理的にはつながっていないかもしれません。そうであることを自覚しながら、あえて申します。
新しい人間関係に必要不可欠な要素は「礼拝における、神との関係」という次元です。新しいパートナーとこのわたしとの間に神という方が介在してくださることにおいて成り立つ関係です。
その相手もこのわたしも何ら完璧でないし、罪深い人間であるにもかかわらず、神という完璧な方が真ん中に割って入ってくださり、両者に対して神が恵みと憐れみに満ちた態度をとってくださることによって、両者の関係を正しく健全なものへと導き続けていただける、そのような新しい人間関係です。
その新しい人間関係もまた壊れうるものではある。しかし、そのたびに、神という方がまさに真ん中に介入してくださることによって、割れ目や裂け目を修復し続けていただける、そのような人間関係です。
重要なのはその要素です。短く言えば、「共に礼拝をささげる」という要素です。それがあるかないかで人間関係はがらりと変わります。そのことをわたしたちキリスト者は体験的に知っているのです。
これから申し上げることは、「ぜひ試してみてください」という意味で言うのではありません。むしろ「ぜひ試さないでください」と言っておきます。あくまでも参考までに申し上げることです。
それは、わたしたちもまた、土曜日の夜であろうと、日曜日の朝であろうと、夫婦喧嘩をすることがありうるという話です。「ぜひ試さないでいただきたい」ことは、そのように喧嘩なさったままの状態で、そのお二人で礼拝に出席してみてくださいということです。帰りがけにはけろっと仲良くなっているというケースをわたしたちは何度となく体験してきているのです。
喧嘩はしないほうがいいです。喧嘩しないでください。しかし両者が激突することはありうることです。そのときに礼拝が「解決」をもたらすのです。そのように信じていただきたいのです。
実際にそのような体験を多くの夫婦が味わってきました。もちろん夫婦の話だけに限定すべきではないかもしれません。しかし、これがいちばん分かりやすい話ではあります。なぜなら、結婚とは神の前での約束なのですから。夫婦喧嘩をやめること、仲直りすることの最も良い解決策は、二人で神の前に立ち戻ることです。
今日は夫婦喧嘩の解決法は何かというような話になってしまいました。脱線のようでもありますが、重要なこととしてお聞きいただけましたなら幸いです。
今日の個所でイエスさまは弟子たちに「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)と言われ、また「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)と言われています。何のことだかさっぱり意味が分からない、とお感じになる方はおそらく多いでしょう。しかし前後の文脈から考えれば、イエスさまのおっしゃっていることは明白です。
色づいて刈り入れを待っている畑とは、この女性が住んでいたシカルの町のことであり、またその町を含むサマリア地方全体のことです。そして色づいているのは、この女性自身であり、この町の人々です。この人々がこのわたし、救い主イエス・キリストを信じるようになり、キリストの御言葉が響き渡る、霊と真理をもって行われる、礼拝へと招き入れられること、それが刈り入れであり、収穫です。
イエスさまがサマリアに行かれた目的は、このわたし、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるようになる人々をお探しになることでした。そのためにイエスさまは父なる神から遣わされたのでした。その仕事をなさること、成し遂げられることのためにイエスさまはこの町までいらっしゃったのです。
弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と言ったときにイエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とお答えになった意図として考えられることは、ごく分かりやすく言えば、「わたしは今とても忙しいのだ。食事などとっている場合ではない。わたしが食べたいのはこの町であり、この人々である。ここにいるみんなが神の救いにあずかり、このわたしと一緒に礼拝をささげるようになることだ。そのことが実現すること。それがわたしの満足であり、おなかいっぱい、満腹なのだ」というあたりのことです。
無理やり結びつけるわけではありませんが、先ほどまでお話ししてきました結婚のこと、夫婦のこと、あるいはもう少し広く言って人間関係のことの中でも、満足とか満腹ということがありうるとしたら、それは、食事の内容とかいわゆる金銭的な事柄などの次元だけで語り尽せるようなことではないはずです。そのようなことが重要でないと言っているのではありません。しかし、それだけではないでしょう。
わたしたちには、三度の食事よりも楽しいことがあり、夢中になることができるものがあります。それが教会であり、礼拝であり、信仰なのです。わたしたちにとってはこれが趣味以上であることはもちろんのこと、仕事以上のものでもあるのです。
(2009年5月17日、松戸小金原教会主日礼拝)