2009年5月21日木曜日

ブログは「日記」ではありえない

本当にただ鈍い頭なだけなのですが、この「関口 康 日記」を始めて1年4ヶ月とちょっとになりますが、それくらい続けてきてやっと最近飲み込めてきたことは、このブログというのはどう考えても「日記」でありえないということです。



私が「日記」という字を見て思い浮かべるものは、本人死後にならなければ決して開陳されえない、まさに最高機密という名にふさわしい第一級文書資料です。



牧師の場合でいえば、「今日は○○氏と教会の牧師室で面談した。○○という内容であった」「今日は○○氏から電話があり、○○についての打ち合わせをした」「今日は○○教会の○○牧師の任職式があり、感謝会の席上で○○教会の○○長老が○○牧師について批判的なことを述べた。私はそれを聞いて○○と思った」というような記録集です。



もちろん「日記」は学術論文のようなものではありませんので、その中に記される内容に思い込みやうろ覚えなどに基づく事実誤認が散見されることは、ままあることだし、致し方ありません。



しかし、通常の場合、「日記」にウソを書くでしょうか。書かないのではないでしょうか。



他方、「ブログ」はどうでしょうか。逆の問い方をしてみましょう。「ブログ」に事実ないし真実を書くことができるでしょうか。書くことができないのではないでしょうか。



もちろん「日記」についての考え方にも、いろいろあるでしょう。人をだますときは、まずは自分の身内からだます。家族も知らないはずの場所に「日記」を隠しはしたが、万が一見られた場合のために「日記」にウソを書いておく。真実が記された文書は厳重に暗号化されて、第三者が持っている(?)。こんな感じのスパイごっこでもしたい人(または「せざるをえない人」)のことは知る由もありませんが、私はそんな面倒なことはできないし、やってられません。



しかし、ブログにまさか最高機密を書き連ねるバカはいないでしょう。そもそも、本人以外に「ブログの読者」なる存在がいることを前提に書くのがブログではないでしょうか。



もしこの私の定義が正しいとしたら、ここには「誰に知られても構わないようなこと」(情報としての価値はきわめて低いこと)しか書くことができません。あるいは、「多くの人に知ってもらいたいこと」(情報としての価値は高いと少なくとも本人は信じて疑わないようなこと)だけを書くことになります。



その場合、演技や誇張も(当然)混じる。いささかのウソやダマシや暗号(!)も含まれる。



そういうものは、私のカテゴリー表に従えば「日記」ではありません。うんと皮肉っぽく言えば「プロパガンダ」。もう少しオブラートに包んでギリギリ「私小説」かなあ。まあ「雑感」とか「随想」というに近いものでしょうけれど。



というわけで、そろそろ「関口 康 日記」というブログ名称を変えなければならないと考えているところです(これが「日記」であったことは一度もありませんから!)。



「関口 康 プロパガンダ」も自分としてはなかなかの名案だなと思うところもありますが、ただのサディスティックな嫌がらせと見られても仕方がないので自重します。