2009年5月10日日曜日

もちろんそれは容易なことではありえない

しかし、私は決してそれを容易なことと考えているわけではありません。



今に始まったことではないと思いますが、43年ほど生きてきた者がこの国に見てきた比較的新しい動きは、「どんなものであれ一つの『キャラ』(キャラクター)としてとりあえず受け入れ、殺しもしないが生かしもしないで泳がせ、ギャグかお笑いのネタでありうるかぎりにおいて限定つきの役割を果たさせ、稼げなくなった時点で表舞台から引きおろし、市井に戻す」というような《政策》でしょう。「デブキャラ」然り、「大食いキャラ」然り、「毛薄キャラ」然りです。



キリスト者に対する表立った弾圧のようなものは、もはや無いかもしれない。しかし我々はいわば「クリ(クリスチャン)キャラ」扱いです。私などはさしずめ「牧師キャラ」扱いでしょうか。



あるいは、たとえばもしファン・ルーラーの本が本格的に日本で出版される日が来ても、当面は「いろものキャラ」扱いでしょう。「喜びの神学」とか言っているかぎりにおいては、ある程度面白がってくれる。しかしファン・ルーラーその人は「いろもの」扱いなどで済ませられるような存在ではありません。歴史的過去と同時代の世界的巨匠たちを相手に、実に堂々と闘い抜いた人なのです。そのあたりの事情と迫力を我々が日本の社会と教会にどのように伝えるべきかも、悩みどころです。



もちろん!新規チャレンジャーが最初から十分かつ正当な評価を受けられると望んではならないことは分かっているつもりです。たとえサブカル扱いされようと、独自キャラ扱いされようと、全く無視されたり抹殺されたりするよりはまし、という《政治的》判断もありうると思います。



しかし、忸怩たる思いというか、我慢比べというか、どうにも表現しがたい疲労感があることは否定できません。まさに気力との戦い、自分との戦いです。