2013年7月27日土曜日

論文、完成しました


かれこれ一年くらい前から大騒ぎしてきた論文が、今朝やっと完成し、編集の方にお送りしました。

初めての投稿先です。しかし、ぼくからの持ち込み原稿ではなく、先方からオファーをいただきました。

神学部や神学校の紀要ではなく、一般向けの学術誌です。

ひとつ肩の荷がおりて、地味にほっとしています。

2013年7月25日木曜日

目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる


予備校講師の「いつやるの?今でしょ!」もそうですが

他の学習塾・予備校の同種のCMも、その主旨は「逆算」でしたよね。

目標(ゴール)または目的(パーパス)が定まれば

そこから「逆算」して、いまやらねばならないことは何かが分かる。

ぼくの話で恐縮ですけどね、

時々「ぶれないやつだ(良くも悪しくも)」と言ってもらえたりするのは

目標(ゴール)だけは(「だけは」ね)はっきりしているからです。

ぼくの目標(ゴール)は

「○○○・○○○○著作集の出版」、じゃないですよ。それは手段。

でも、抽象的なことではないです。

「抽象的」とか言うと怒られるかもしれませんが

「一千万救霊!」とかいう感じのスローガンやイデオロギーではない。

「どうせ最後は天国だ」みたいな、途中のプロセスをすっとばかした話でもない。

もっと身近で、実現可能なことです。でも、自己目的的なことではない。

目標(ゴール)が定まれば、「逆算」が可能になる。

それは、ほんとのことですよ。「今でしょ!」の兄さんの言うとおりだ。

2013年7月24日水曜日

ぼくの意図の中心は「いかにカネを使わずに政治に関与するか」です

ブログにぼくが

「職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち『よりも』幸せな生き方を提示すること」

と書いたことについて、

「でも、それって政治的無関心を援護し助長しませんか?」

とご質問をいただきましたので、下記のようにお応えしました。

「答えになっていない」と思われるかもしれない内容であることは自覚しておりますが、

“言葉を濁している”結果であると申し上げておきます。

----------------------------------------------------

擁護も助長もしません。

言葉を選びながら書きますが、

「職業的政治家」と「共依存の関係にある資産家たち」とぼくが書いているとき、

今の与党関係者だけのことを考えていません。

与党に対する永遠のアンチであることを「職業」とする人たちのことも含めています。

「不安ビジネス」のようなもので人やカネを集めようとする人たちのことも含めています。

これ以上のことは今は書かないでおきますが、

「政治的関心」を煽るビジネスもあるので、

そういうのにも気をつけなければ丸裸にされてしまうと、ぼくは考えています。

しかし、先生がお書きくださったような疑問は、ぼくも自分で文章を書いているときから、

「出てくるだろうな」と予想していましたので「やっぱり出たか」という気持ちです。

ありがとうございます。

話は飛躍しますが、

ぼくはファン・ルーラーという神学者が語った命題、

「共産主義はキリスト教よりもブルジョア的である」を、

おかしくて腹を抱えながら受け容れているものです。

共産党をことさらに敵視する意図はぼくにはありませんが、

左翼は左翼で「左翼ビジネス」のようなものがあるのだと思っています。

教会は例外だと言いたいのではありません。

教会だってすぐにでも

「不安ビジネス」「救済ビジネス」「結婚式ビジネス」「葬式ビジネス」をやりはじめます。

「何が悪いんだよ」と開き直る向きも少なからずあるのかもしれませんが、

やってることは「彼ら」と同じだという自覚があるかどうかで、

救いようがあるかどうかが決まるのだと思います。

そして、ぼくが言いたかったことの最初からの最も重要なポイントは

「政治のシロウトである者たちは、いかにカネを使わずに政治に関与するか」であり、

「人とカネを使って権力を掌握する『よりも』幸せな生き方があることを、どうしたら提示しうるか」

ということにあります。

「そんなのは無い」と言ってしまった時点で、我々の負けです。

「ある」と言い続けなくちゃ、希望も救いもありません。

2013年7月23日火曜日

職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること


「国民主権」であるとはいえ、ぼくらが政治のシロウトであることは間違いないわけで、

職業的政治家とがっぷり四つに組んだら負ける。

そのために注ぎ込む人とカネの使い方が違うわけですし。

だったら直接対峙したりすべきでない。

職業的政治家と、共依存の関係にある資産家たち「よりも」幸せな生き方を提示すること。

それだけが突破口ではないだろうかと、夜遅い時間に考えこんでいました。

学校が夏休みに入り、デカイ子どもがうちにいることは、親としてはちょっと安心だったりします。

早起きして朝食作ったりしてやらなくて済むし。

そういう精神的余裕からでしょうか、家の中の片付けもわりとできる。

あ、でも、今朝は掃除はりきりすぎて、もう疲れちゃった。すぐバッテリー切れるスマホみたいだ。

ぽんこつ47歳。ぼくはガラケーですけどね。

今日の午後は「東関東中会設立10周年委員会」(於 船橋高根教会)に出席してきました。

伝道の熱情がわき上がりました。

2013年7月22日月曜日

キーワードは「嫉妬」です


パウロっぽい考え方をするとしたら、

「おれの身内」を回心させるために「よそさま」に伝道する、

というわけですよね。

そうすれば、

やがては「おれの身内」が「よそさま」の姿を見る日が来るだろう。

そのとき、「おれの身内」は、自分と「よそさま」を比較するだろう。

そして、必ずや「よそさま」に対して「嫉妬」を抱くだろう。

で。

話は飛躍するし、ぴったり合っている話でもないのですが、

「おれの身内」を本気で回心させたければ、

その人たちの目から見たぼくの姿が、

「嫉妬」をもってしか見られないようなものになっていなきゃね、と思う。

ちっとも幸せそうでないぼくが、だれを回心させることができるんだろ、と思う。

「批判」なんかいくらしても、日本は変わらないですよね。

「嫉妬」させなきゃ。

今夜は「肉にら炒め」を作りました


「肉にら炒め」~\(^o^)/

もやし多めだけど、ナスも入ってるよ。

一人一個ずつコロッケ付き~。

オールスター(主演 大谷翔平くん)と

月9「SUMMER NUDE」(主演 山P)を観ながら

ウトウトしてました。

もう疲れたよパトラッシュ...

ぼくが「日本にキリスト教政党を」と主張しているときに考えていること

ぼくは歴史的な意味での「共産主義者」になることはできません。しかし、だからといって資本主義者であるわけでもありません。

プロテスタントの人はまるで自動的に資本主義者になってしまうかのように描かれた「あの歴史観」は、端的に作り話だと思っていますし、迷惑な話だと思っています。

ぼくが「日本にキリスト教政党を」ということを口にする場合に考えていることは大きく分けて次の二つです。

第一は、対社会的な面において、「神道政治連盟」と「公明党」と「幸福実現どうたら」など諸々の新興宗教政党を拒否するための方便です。

第二は、対教会的な面において、「教会は政治にかかわるべきではない」と言い出す人たちへの牽制と、「教会の理想と共産主義の理想は一致する」と躊躇も葛藤も臆面もなくストレートに結び付けることができる人たちへの牽制です。

字にしてしまうと身も蓋もない話になってしまいますが、まあ、そういうことです。

「クリスチャンなのに、なぜ?」と地味に問われた選挙だった気がします


「長浜博行さん」(選挙区)と「ツルネン・マルテイさん」(比例代表)に投票しましたとTwitterに流したら、さっそくフォロワーが減りはじめました。

いっそ、どんどん減ってほしいです。

宗教と政治(と野球)の話題は、日本では「ビジネスマナー違反」だそうですから、つまりは、ぼくの存在そのものが「ビジネスマナー違反」なわけです(これ既出ネタです)。

一票(まあ二票ですが)の重みというものは「あるのだあるのだ」と自分に言い聞かせながら投票所に行きました。

言っておきますが、ぼくたちの投票は、べつに「宝くじ」とか「馬券」とかじゃありませんからね。自分が支持した候補者が結果として負けたとしても、ぼくらの票が無駄になったわけではありません。

日本には「まだ」キリスト教政党は存在しません。

しかし、そういうのを生み出していく努力は必要だと思っています、たとえ実現は一、二世紀あとになるかもしれないとしても、です。

そしてその場合、ぼくにとっての問題は、

「政党」は既成現実に対するアンチという動機だけでも十分機能しうるものだと思うのですが、

「宗教」というか「キリスト教」はそうは行かない、ということです。

既成現実に対するアンチだけを純粋な動機として立っているような「キリスト教」を、ぼくは想像することすらできません。

その意味では、ぼくは「新カルヴァン主義者」、いえ、「カルヴァン主義者」なのでしょう。

目的のために手段を選ばない、というタイプの賭けごとをすることに対して、非常に慎重な気持ちに「ならざるをえません」。

「連帯」は大事だと思っています。ただ、その「連帯」にしろ「妥協」にしろ「程度問題」であると、ぼくには思えるということです。ぼくが不器用なだけかもしれません。

実はぼく、昨夜から今朝にかけてのネット言論をチラ見しながら、プチギレ(petit-gire)しかかっているんです。

ぼくが見ている範囲が狭いだけかもしれませんが、比較的若い世代の人文系(社会学とか政治学とか)の学者たちが「自民圧勝」の結果に失望して一種の「断筆宣言」まがいのことを書き散らしはじめています。

そういうの見ると、イヤだなあと心底がっかりするわけです。

自分の脳内ででっちあげた「論理」が「現実」に敗れただけのことだろーが、と言いたくなる。

あんたたち(人文系の学者)の仕事は、これからなんじゃないの?と言いたいです。

あと、高見の見物をしていたつもりは全くないですが、

ぼくが興味深く見守っていたのは、

今回の選挙で図らずも浮上してきた(とぼくには見えた)、マスコミが取り上げることはありえないけど、実は非常に深刻な(とぼくには思えた)「二つの問いかけ」です。

その二つに共通していたのは「クリスチャンなのに、なぜ?」という点でした。

書かずもがなかもしれませんが、一応書いておきます。

一方の問いは「石破さんはクリスチャンなのに、なぜあーなの?」で、

他方の問いは「クリスチャンなのに、なぜ共産党支持?」です。

信教の自由が保障されていないなら地下に潜ればいい


えっと、べつに選挙で疲れたわけではなくて、

(だって疲れるようなことやってないもん。紙を二枚、箱に入れただけだし)、

通常の日曜日の仕事で疲れましたので、そろそろ休みたいと思いますが、

最後に一言。

10年くらい前にぼくがあるところに書いた文章に、

ぼくより少し年上の友人が、

愛情をもって「憤怒」してくれたことがあります。

それは、ぼくが

「信教の自由が保障されているから教会活動ができる」という旨を書いたからです。

彼は「そんなことはないよ」と、キレ気味に言いました。

「信教の自由が保障されていないなら地下に潜ればいい。それだけのことだよ。」

正直言えば、当時(10年くらい前)は、彼の言い分にぼくは納得できませんでした。

ですが、今は違いますね。かなり理解できているような気がします。

まあ「地下」って言っても、今、それほどの暗黒の地底でもないですしね(笑)。

グーグルプラス・ハングアウトのビデオ通話って「地下活動」ですかね(笑)。

教会の宣教の課題としての「日本のキリスト教化」という観点からいえば、

今次の選挙で「元の黙阿弥」なんかにはゼッタイなっていませんからね!

それだけは言っておきますよ。

2013年7月21日日曜日

今回ぼくは「妥協」はできませんでした


選挙区のほうは「長浜博行」さんで、

比例代表のほうは「ツルネン・マルテイ」さんと書きました。

まあ、ぼくのネットつながりのお友達にはいろんな方がいてくださるので、

政治に関して「差しさわりのないことを書くのは不可能」な状態なのですが

ぼくは「それでも、いま民主党に倒れてもらったら困る」という線です。

第二次大戦後のオランダで「バルト主義者」と「新カルヴァン主義者」が激突した

状況を想起していました。

ファシズム反対では一致していました。しかし、

「バルト主義者」は労働党(共産党と同等)支持を呼びかけましたが、

「新カルヴァン主義者」はキリスト教政党支持を呼びかけました。

今次の選挙前にブログ等で「妥協」(Kompromiss)云々と書いていたことで

最後まで悩んでいたのは、

「ぼくは共産党を支持しうるか」という問題でした。

結果、「妥協」はできませんでした。

しかし、次回は分かりません。

民主党が消滅したら、共産党に投票「せざるをえない」かもしれません。

戒律ずくめでは息が苦しくなります

ローマの信徒への手紙4・13~17

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」

今日の個所でパウロが語っていることの要点は、人が救われるのは神を信じる信仰による、ということです。そして、そのような信仰による救いの模範を示したのが、わたしたち自身を含むすべての信仰者の父であるアブラハムである、ということです。

初めに申しておきたいことは、パウロあるいは聖書が「人が救われるのは神を信じる信仰による」ということを書いている場合の「信仰」の意味は「信頼」であるということです。その意味は「神を信頼すること」です。ですから、もしそのように言い換えるとしたら、「人が救われるのは神に対する信頼による」ということになるでしょう。

そして、その意味での「信頼」は、肩や体全体から力が抜けています。気楽ですし、のんびりしています。がんばって、気張って、一生懸命、熱心に、というようなことではありません。そのような力の入り方は「信頼」とは正反対の方向を向いています。

私ががんばって、がむしゃらに、猛烈に、食いついて、しがみついて、ではなく、神はいつも私と共にいてくださると安心していられるような関係。それが、パウロが「人が救われるのは神を信じることによる」という場合の「信じる」の意味です。それは「信頼」です。

このことを理解していただくためのたとえとして思い当たるのは、わたしたち人間の親子や夫婦の関係の中で求められる「信頼」です。そのことを考えていただけば、私の意図を理解していただけるのではないかと思います。

ぜひ実際の場面を想像してみていただきたいのです。たとえばの話ですが、子どもが親を信頼するとか、親が子どもを信頼する。そのことを口に出して言う場合に、「子どもが親を熱心に信頼する」とか「親が子どもを一生懸命信頼する」と言うのは、どう考えてもおかしいわけです。

夫婦の関係についても同じです。「夫が妻を熱心に信頼する」とか「妻が夫を一生懸命信頼する」とか言うのは、明らかにおかしい言い方です。

なぜおかしいのでしょうか。そのような場面で「熱心に」とか「一生懸命」とか言えば言うほど、その関係は危機的な状況にあるということを強調しているかのように響いてしまうからです。実は全く信頼しあえない関係になっている。不信感が募るばかりである。それなのに無理やり信頼している。だから「熱心に」信頼するとか、「一生懸命」信頼するとか言っているかのようです。

神と人間との関係について語る場合も同じことが当てはまります。わたしたちは「熱心に信じる」とか「一生懸命信じる」とかいう言葉を必ず使わなければならないかのように、どこかで思いこんでしまっているかもしれません。しかし、考えてみれば、そのようなことを言えば言うほど、かえっておかしいのです。神と人間の関係はそのようなものではありません。握りこぶしも力こぶも要らないのです。

これはよく用いられる比喩なのですが、人間を動物にたとえるのは嫌かもしれませんが、神と人間の関係は猿の親子ではなく、猫の親子であると言われます。猿の子どもは、親猿にしがみつきます。しかし、猫の場合は、親猫が子猫の首根っこをくわえて運びます。猫の子どもはぶらさがっているだけです。パウロが書いている「信仰」とは、そのようなことです。肩からも、体全体からも、力が抜けているのです。

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(13節)とあります。「その約束は律法に基づいてではない」とあるのは、もう少し噛み砕いておく必要があるでしょう。

パウロが書いていることは、神とアブラハム、また神とアブラハムの子孫との間に交わされた約束は、もしアブラハムたちが律法を完璧に守るならば、彼らに世界を受け継がせることにする。しかし、もしそうでないならば、彼らに世界を受け継がせることはしない、という約束ではないということです。律法を完璧に守るかどうかは、その約束を履行するかどうかの条件ではない、ということです。

なぜそれが条件ではないのでしょうか。その答えははっきりしています。そのような条件は、だれもクリアすることができないからです。律法を完璧に守ることができる人は、誰一人いないのです。ですから、完璧な人間でなければ世界を受け継ぐことができないというならば、世界を受け継ぐことができる人は誰もいないと言っているのと同じなのです。

世界を受け継ぐ人がだれもいないとしたら、人間は世界の外に出ていかなければならないと言っているのと同じことになります。しかし、わたしたちは世界の外に出ていくことはできません。それは死ぬことを意味しています。神はわたしたちが死ぬことを望んでおられません。生きることを望んでおられます。わたしたち人間は、だれひとり律法を完璧に守ることはできません。それでも生きろと、神がわたしたちにおっしゃっているとしたら、わたしたちが律法を完璧に守れるかどうかを神は問わないとおっしゃっているのと同じことになるのです。

人間が守ることもできないような律法を、神はなぜ人間に対して教えようとなさるのでしょうか。この問いに対する答えについてお話しする時間はありませんが、ハイデルベルク信仰問答(問115の答え)に書かれていますので、ぜひご参照ください。

「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります」(14節)とパウロは続けています。この「律法に頼る者」とは、自分は律法を完璧に守ることができると思いこんでいる人のことです。実際には不可能なのに、可能であると言い張っている人です。あるいは、実際にはいろんな面で律法を守れていないのに、私は守っている、だれからも、神からも責められたりとがめられたりする筋合いにはないと言い張っている人です。

そのような人が世界を受け継ぐのであれば、なるほど信仰は無意味です。できないことを「できます」と言い張り、できていないことを「できています」と言い張る人がいれば、うそをついているか、勘違いしているか、そのどちらかです。そのようなデタラメが通用するなら、信仰は要らない。パウロはそう言っているのです。

「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(16節)と話は続いています。これがパウロの結論であり、聖書の結論です。ぜひご理解いただきたいのは、この結論はわたしたちの慰めになるということです。なぜ慰めでしょうか。神はわたしたちに、できもしないことを無理やり押しつけられるようなお方ではないということを、わたしたちが百パーセント信じることが許されているということを意味しているからです。

戒律ずくめでは息が苦しくなります。できないことを押しつけられて、できないと罵られ、貶され、見捨てられる。もし神がそういうお方だとしたら、わたしたちの心は決して休まることも安らぐこともありません。そういうのはブラック会社と同じです。しかし、神はブラックなお方ではありません。失敗を許してくださる、完璧さなどはお求めにならない、心の広い寛大なお方なのです。

わたしたちは完璧でなければいけないのでしょうか。一番でなければダメでしょうか。なぜ二番ではいけないでしょうか。そもそもわたしたちは、どんなことでも勝ち負けを決めなくてはならないのでしょうか。競争しなければ気が済まない、競争に勝たなければ気が済まない。そのようにどんどん自分を追い込んで、追い詰めて生きていくことは、つらいでしょうに。

なんでもかんでも勝負事として考えようとする人たちがいます。勝ったときは狂喜乱舞かもしれませんが、負けたら地獄です。まだ若くて元気なときはそれでもよいかもしれません。しかし、肉体的にも精神的にも衰えていく。勝つことはほとんどなく、来る日も来る日も負け続きになる。そうすると、どんどん気持ちが萎えてきて憂うつな日々を過ごさざるをえなくなる。わたしたちの心に喜びも平安も無くなってしまいます。

パウロは続けます。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17節)。

ここで言われている「死者に命を与える」というのは「死者の復活」の意味にもなりますが、旧約聖書の創世記に書かれている、粘土をこねて人間の形にこしらえたその鼻の中に神が息を吹き入れてくださると、その粘土が人間になったというあの話を思い起こさせる言葉でもあります。

問題は、創世記に書かれていることをわたしたちがどのように理解し、受け容れるかです。人間は永遠に存在してきたわけではなく、人間が最初に生み出された瞬間がある。その人間に最初の命を与えてくださったのは神である。そのようなことを聖書は語ろうとしているのです。

「存在しないものを呼び出して存在させる」とは天地創造のことです。わたしたちの神は、そのようなことをなさった偉大な力をお持ちの方です。そもそもわたしたちは元々は存在しませんでした。私は47年前には存在しませんでした。70年、80年生きられた方でも、70年前、80年前は存在しませんでした。わたしたちはまるで、自分が存在しなかったことはいまだかつてなかったかのように思い込んでいるかもしれませんが、それは錯覚です。

わたしたちの命は、わたしたちが一生懸命がんばった結果として与えられたものではありません。わたしたちが努力したから、わたしたちが生まれたわけではありません。それと同様、わたしたちの努力の結果としてわたしたちが救われるというなら、神の恵みは要りません。神は要らないのです。

しかし、そういう話になっていくのは、そもそもの前提が間違っているからです。わたしたちの命も、人生も、そして救いも、すべて神からいただいたものなのです。わたしたちにそれを、感謝して受けとればよいのです。

(2013年7月21日、松戸小金原教会主日礼拝)

死力を尽くして一票を投じるぞ


あ、でも、選挙の前に腹ごしらえだ。

腹が減ってはいくさができぬ。

死力を尽くして一票を投じるぞ。

待ってろよ、投票所。

「不愉快な」投票所にそろそろ行くか


もうずいぶん古い本になってしまった。

選挙のたびに読み返したくなるのは、筑紫哲也編『〈政治参加〉する7つの方法』(講談社現代新書、2001年)だ。

一冊まるまる読み返すわけではない。本書の編者である筑紫さん自身が書いた「プロローグ」の中の、わずか数行の文章を見に行くだけだ。そこにはこう書いている。

「一言で言えば、これ〔=民主主義。ー関口〕は『不愉快な制度』なのである。教育水準が上がり、個人として行動する自由が拡がり、自我が育っていけばいくほど、その自分が投票所に出かけていくと他の有象無象(と、それぞれの「自分」には思える)と同様に『ただの一票』にすぎない、という“屈辱”を覚悟しなくてはならない。しかも、その『一票』は、何十万、何百万もの票の中の一滴でしかない、という自分の『小さな存在』を思い知らされる機会でもある...」(20ページ)。

おお、もう12年前になるのか。本書が発売されてすぐに買い、冒頭の「プロローグ」のこの文章に首肯せざるをえなかった。

「そんなこと知ってらあ」と思わず叫びたくなる、このわたしという存在の耐えられない軽さを否が応でも思い知らされる、不愉快極まりない場所、それが「投票所」ということか。

あー、不愉快だ、不愉快だ。そろそろ選挙いこ。

2013年7月19日金曜日

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て

ついさっき、Twitterで

「日本では政治家がバカにされすぎ」とか

「ネガキャンばかりだと若者が選挙に行かなくなるのも当然だと思える」とか

そんな書き込みを見て、そのとおりだよねと納得しているところです。

でも、じゃあ、日本ではだれが尊敬されるんでしょうか。

宗教関係者でないことだけは確実ですが、じゃあだれ?

テレビに出る人?資産家?CEO?社長?会長?オリンピック出た人?

あ、やっぱりお医者さんですかね。痛いのをたちどころに治してくれるスーパーマン。

あ、だけど、「のどもと過ぎれば熱さ忘るる」って言うくらいですから

お医者さんを尊敬したくなるのは、痛いのを治してもらった直後だけかも、とかね。

やっぱり学校の先生ですかね。有名な大学の。さっぱり分かりません。

だれも尊敬しない・されない社会なんでしょうかね、今の日本て。

それって戦前日本の「反動」のような気がしますが、

ずいぶん長期の反動ですよね。「は~~~~~ん、ど~~~~~」ってくらい長い。

嫉妬と足の引っ張り合いばっかりの、低空飛行社会ですかね。

まあ、それもいいかもしれませんね。

ぼくが尊敬しているのは妻です(対外向けコメント)。

明日は臨時中会です。今日中に終わらせられることを終わらせたくて朝から必死です。

2013年7月17日水曜日

まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないと思うのですが



彼をかばう気持ちとかは無いです。

しかし、「逆説的な」発言ではないだろうかという気がしてならないのです。

ごく普通の日本人(ぼくもです)なら誰でも反発するに違いないことを言ったわけです。

そんなことは、言った本人自身が誰よりもよく分かっているはずです。

「軍法会議」だ「死刑」だと、国民感情を意図的に逆なでしているとしか思えない発言は、

自民党にとっては、一種の自爆テロに近い結果になるのではないでしょうか。

国民感情を敵に回して票をとれるほど選挙は甘くないことくらい、

何十年この国の与党をしてこられたのかという(なんかそのこと、もう忘れられてますよね、笑)

老舗政党が、

分かっていないはずはありえない。

それを、あえて、明らかに意図的に、やっちゃったわけです。

まさか「自民党には票を入れるな」と幹事長が公の場で言うはずはないとは思うのですが、

なにかしら秘められたメッセージがあるのではないでしょうか。

石破さんは愚鈍で軽率な人ではないので(それはよく知られていることです)、

何事か死ぬほど考え抜いた結果の発言であることは間違いないとは思うのですが。

ぼくの考えすぎでしょうか。

ちょっと気になっているのは、

彼の発言を「キリスト教的ではない」と評価しておられる複数の方々の意見です。

もちろんぼくも、結論は全く同じと言ってよいほどですが、

その結論に至るプロセスの点で、もうちょっとだけ様子を見てみたい気がするのです。

ぼくは、石破さんは良い意味で「論理の人」だと思っています。

支離滅裂の人や、ワンフレーズ・ポリティックスの人や、付和雷同・風見鶏の人よりは、

はるかに「信頼」できると思っています。

それは、突然襲い掛かってくるモンスターにはなりそうにない、という意味での「信頼」です。


2013年7月14日日曜日

慰めの声こそ旅路ゆく人の力


ローマの信徒への手紙8・31~39

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

おはようございます。松戸小金原教会の関口です。今日は東関東中会講壇交換です。稲毛海岸教会の朝の礼拝で説教させていただくのは、10年ぶりくらいです。どうかよろしくお願いいたします。

今日開いていただきました聖書の個所は、ローマの信徒への手紙の8章が終わる直前の部分です。文脈がある話ですので、この部分を正しく理解するためには、ローマの信徒への手紙の1章から8章までについて解説する必要があるかもしれませんが、時間の関係で割愛します。しかし、ある程度大づかみのことは申し上げておきたいと思います。

この手紙にパウロがとにかく書いていることは、御子イエス・キリストにおいて父なる神の御心が明らかにされたということです。イエス・キリストを信じるすべての人に神の救いの恵みが与えられ、罪赦され、けがれをきよめられ、永遠の命が与えられます。その人は罪の中から救い出され、新しい人生を始めます。全く自由に生きられるようになります。

しかし、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、洗礼を受けても、罪を犯し続けます。大きな罪、小さな罪を犯します。人間は弱い存在です。そのことをパウロは知っています。そして、その弱いわたしたちを助けてくださるのは「聖霊」であるということを直前の個所で教えています。

「聖霊」について聖書はどのようなことを教えているでしょうか。聖霊は、わたしたちの存在の内側に「注ぎ込まれる」方であると言われます。またわたしたちの内部に「住みこんでくださる」方でもあります。そして、聖霊はわたしたちにとって端的に「神」です。父・子・聖霊なる三位一体の神です。

ですから、わたしたちは次のように語ることができます。

わたしたちは「神に祈る」と言いますが、どこに向かって祈るのでしょうか。父なる神のイメージは、天地万物の創造者です。天地万物よりも巨大で、なおかつ宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。そうすると、宇宙の果てまで届くほど大きな声で祈らなければならないような気がしてきます。

イエス・キリストのイメージも同じです。十字架につけられた方が三日目によみがえられて、その四十日後に天に昇られました。イエス・キリストはどこに行かれたのでしょうか。天の父なる神の右に座っておられると告白します。父なる神と同じ場所におられるなら、やはり宇宙の果てに住んでおられる存在ではないかと思えます。ですから、祈るときは宇宙の果てに届くほど大きな声で祈らなければならないような気がします。

しかし、聖霊なる神は違います。聖霊はこのわたし、そこのあなた、わたしたち一人一人の心と体の中に住んでおられるのです。そして、わたしたちの中に住んでおられるこの聖霊が、端的に「神」なのです。ですから、わたしたちはその神に祈るときは大きな声で祈らなくてもよいのです。むしろ小さな声で、ひそひそ声で、自分の胸に言い聞かせるように祈ってもよいのです。

わたしたちの中に住んでおられるその聖霊なる神が「弱いわたしたちを助けてくださる」(26節)とパウロは書いています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)と続けています。

わたしたちは、自分のこと、個人的なことで苦しみます。家族のことで苦しみます。会社のことや社会のことで苦しみます。そして教会のことで苦しみます。「これからわたしたちの教会はどうなっていくのだろうか」と考えるだけで不安になります。心配になります。涙が出てくることもあります。そのようなとき、わたしたちは「どう祈るべきか」が分からなくなります。

そのような場面で、聖霊なる神御がわたしたちの中で「言葉に表せないうめき」を発してくださるというのです。まるで神が絶句なさっているかのように。まるで神が理路整然とした言葉を語れなくなってしまわれたかのように。

「絶句する神」というのは、理屈の上では明らかにおかしい話です。しかし、わたしたちの神は、そのような方です。わたしたちの神は、悩み苦しみ、深く傷ついている人たちの前で、一方的な正論を押しつけがましく語り続けるような方ではありません。わたしたちが絶句しているときには、神も絶句してくださるのです。わたしたちが泣き叫んでいるときは、神は黙って見守ってくださるのです。

そのような方のことをパウロは「わたしたちの味方」(31節)と呼んでいます。次のように書かれています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」(31~32節)。

「敵」だ「味方」だという字を見ますと、わたしたちはつい争いや戦争の場面を思い起こします。なんとなく物騒でキナ臭い様子を思い浮かべてしまいます。しかし、パウロが言おうとしていることは、戦いの状況に関することだけではありません。戦時だけではなく平時の状況でも当てはまることです。

パウロが言いたいことは、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださる方であるということです。ただし、イエス・キリストによる贖いのみわざは必要です。イエス・キリストを通してわたしたちは神と和解していただいた関係にあります。神と人間とを仲保してくださるイエス・キリストを信じる信仰があるからこそ、神がわたしたちの側に立ってくださることを信じることができる、という事情でもあります。しかし、そのことを踏まえたうえで、とにかく神はわたしたちの側に立ってくださり、わたしたちの味方でいてくださるということをパウロは強く語っています。

そのときに、「だれがわたしたちの敵でありえようか」と続けています。「もし~ならば、だれが~でありえようか」とたしかにパウロは言っていますが、仮定の話をしたいわけではありません。敵はいない、いるわけがない、と言っているのです。我々は無敵だと言いたいだけです。

そういうことを言いますとすぐに批判が出てきます。「わたしたちは無敵だ」などと言い張るパウロは傲慢だとか、クリスチャンは傲慢だとか。すぐにそういう話にされてしまいます。しかしパウロはそういうことを言いたいではありません。

パウロの言いたいことは、35節以下に端的に語られています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」そのどれでもないとパウロは言いたいのです。キリストの愛からわたしたちを引き離すことができる力は何もありません、と言いたいのです。わたしたちが「キリストの愛から」離れることはありえません。いえいえ、わたしたちは「キリストから」離れることはないのです。

38節以下にも同じ趣旨の言葉が出てきます。「いかなるものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(39節)と言っています。どんなことがあっても、わたしたちが神の愛から離れることはありえないと、言っているだけです。離れないのは「神の愛から」でもありますが、それは「神から」離れないと言っているのと同じです。

しかしまた、神の側からのアクションの価値だけを認めて、人間のアクションの価値は認めないということでなくてもよいと思います。信じるのは、わたしたちです。どんな迫害があっても、信仰を捨てることはありえないのです。

そのように言えるのは、パウロが強いからではありませんし、傲慢だからではありません。そうではなくて、パウロは、神によって助けていただかなければならないほどに自分の弱さを自覚していました。パウロは弱いからこそ信仰を捨てることはありえないのです。

神が共にいてくださる、これこそがわたしたちの慰めです。いろんな苦しみの中にあっても、神は傍らにいてくださいます。共に苦しんでくださいます。共に悩んでくださいます。このことがわたしたちの慰めです。

もし神が、わたしたちががんばった分だけ支払ってくださるというお方であるならば、わたしたちは神に雇われた賃金労働者です。もしわたしたちの働きが無くなれば、即刻わたしたちは解雇です。しかし、もしそうだとしたら、わたしたちには慰めがありません。なぜなら、わたしたちは、遅かれ早かれ、働きがなくなるからです。

いつまでも元気でいられると思わないほうがいいのです。私は若い若いと言われます。47歳ですが、最近目が悪くなりました。昔はよく見えていた目が、最近は見えにくくなりました。わたしたちの体は確実に衰えます。みなさんを脅しているのではありません。事実を申し上げているだけです。

わたしたちの働きが無くなるときは必ず来ます。しかし、「働きが無くても、(わたしたちの)信仰を義と認めてくださる神」がわたしたちと一緒にいてくださることが、わたしたちの慰めなのです。

皆さんにとって、教会はどのような存在でしょうか。牧師はどうでしょうか。

金銀財宝がザクザクあふれていて、困った人がいればお金をさっと出して助けてくれるような教会のほうが信頼できるでしょうか。

牧師がムキムキマッチョで怪力のスーパーマンのような人であれば信頼してもらえるでしょうか。

私は違うと思います。むしろわたしたちは、わたしたち自身が怪力のスーパーマンではないということに感謝すべきなのです。

教会の強さ、牧師の強さは、自分がいかに弱いかを知っていること、どれほどまでに神の助け、救い主の助けが必要であるかを自覚し、信頼しているかにかかっているのです。

わたしたちと共にいてくださる神は、わたしたちの弱さをよくご存じです。わたしたちが弱いからこそ、助けてくださり、かばってくださいます。

その方をこれからも信頼し続けていこうではありませんか。

(2013年7月14日、稲毛海岸教会主日礼拝)

2013年7月13日土曜日

白熱教室!

去る2013年7月4日(木)、立教大学(池袋キャンパス)全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み〈宗教改革 その起源と影響〉」でのゲスト講義の第二回目の写真を公開させていただきます。

二回の講義を通じてのテーマは、「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるか」でした。学生さんたちは熱心に聴いてくださいました。ありがとうございました。

当日配布した資料はここにあります。→ レジュメ  付録

大学だけでなく、小学校でも中学校でも高校でも、日曜日以外なら、どこでも行きます。

ぜひぼくを使ってください!よろしくお願いいたします。(怒涛の売り込み)

講義開始前。真面目で熱心な学生さんたちでした
やっと講義が始まりました
なにやら「神学」について話しているようです
おや?笑ってますね、余裕でしょうか(それはないです)
90分は短くもあり、長くもあり。大学の先生たちを尊敬します!
終了後、鈴木昇司先生と。ありがとうございました!
カメラマンは畏友・山本信太郎先生(神奈川大学)。ありがと!



いいぞ、半沢直樹!


「半沢直樹」の第一話。ぼくも見ました。

小説は読んでなくて(たぶん読まないと思う)、初回を見ただけの印象ですが

徒党を組まず、なにも持たず、

単身で敵地に乗り込み、タイマン張りに行くあの感じが痛快ですね。

自分の立場や所属ばかりが気になり、

自ら率先して「口封じ」に応じ、

かつ「口封じ」の片棒を担ぎ、

やがてはその親玉になる。

くっだらねえですよね、そういうの。

そういうんじゃない人を時代が求めているんじゃないでしょうか。

まだ続き、見てませんけどね。ゼンゼン違う方向に進んで行ったりして。

2013年7月12日金曜日

車載CD一覧


ぼくが車の中で聴いている音楽は、こんな感じ。

オムニバス「70’s ディスコ・ヒッツ」
(君の瞳に恋してる、スカイハイ、ジンギスカン...)
スペクトラム「スペクトラム伝説」
倉木麻衣「Wish You The Best」
中島美嘉「NANA」
コブクロ「MUSICMANSHIP」
コブクロ「NAMELESS WORLD」

なかなか新しいものが加わらないのですが、

同じ曲を何百回も聴きこんで来ましたので、

イントロバトル番組に出られるレベルです(笑)

日本にキリスト教主義政党があれば「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに語ることができる

一昨日(2013年7月10日)の記事でぼくが、パネンベルクのトレルチ論まで持ち出して、

「妥協」(Kompromiss)という言葉を、神学的なコンテクストでポジティヴな意味で用いてよいかどうかについて書いたのは、

否定的な意見があることを重々承知しつつの問題提起でした。

これは教義の問題でもありますが、それ以上に生理的嫌悪感を表明する人が出てくる問題になりうることも承知しています。

しかし、現実には「妥協」は避けられないし、打ち消しがたいと言わざるをえない面もあります。

ところが、教会に行くと生理的嫌悪感をもって退けられる。

そうすると、どうなるか。それで教会を去る人もいると思いますが、教会に残る人もいる。

「妥協」は公言すると生理的に嫌悪される。百歩譲ってもらえて「語ることはやむをえなくても、その場合はネガティヴな意味でのみ語れ」と言われる。

そうすると、どうなるか。教会の中で妥協が「地下に潜る」と思うんです。

教会の闇の部分(というのがもしあるとしたら)に「妥協」が隠れる。

「妥協」を禁じれば、教会は、より胡散臭い団体になり下がる可能性が出てくるのではないかと、ぼくには思えるのです。

ぼく自身も、「妥協」の無際限な肯定を推奨ないし是認すべきであると言いたいわけではありません。

「寸分の妥協も許さない」というのは、モットーやスローガンとしては成り立ちえますし、好ましいことでさえあると思える。

しかし、現実には、パーフェクトには不可能。

だとしたら、「妥協」の事実を公開し、公の目で監視・管理すべきではないだろうかと、そういうことを考えているだけです。

「正々堂々と妥協する」というのは、言い方としては明らかにおかしいわけですが、

しかし、これは宗教と政治の関係、教会と国家の関係といったコンテクストの話として、理解してもらう必要があります。

日本の教会が自前のキリスト教主義政党を持っていない以上、

たとえばの話、どこかの政党と「(妥協的に)協力」しなければならない場合が、あるかもしれません。

ドイツのように、キリスト教主義政党があれば、

パネンベルクのように「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに言いうる、かもしれない。

だけど、日本にはそれがない。

「宗教」の団体である教会が「宗教の倫理」としてのキリスト教倫理を政策的に実現するために、

政党は不要であるという理屈が成り立ちうるか。ぼくには「否」と思える。

しかし、我々のパートナーは、自民党なのか、公明党なのか、社民党なのか、みんなの党なのか、共産党なのか、もろもろの党なのか。

政党の支持は各個人の事項なのだから、いかなる意味でも教会は教会員に「呼びかけ」をしてはならない、という話になるのか、ならないのか。

こういう感じの問題群にかかわる問題提起のつもりです。

「胡散臭く」はないと思いますが、「キナ臭く」はなるかもしれません。

2013年7月11日木曜日

ぼくらは日本をあきらめない!(勝手にあきらめないでくれよ、みんな)


その昔、プロデューサー、エディター、ライターといった人たちは

「裏方に徹する」ことを美徳みたいにとらえて、カオバレは嫌がったものだ。

でも、いまは違う。

秋元康、鈴木おさむといった人たちの名前を出すまでもなく、

かつての「裏方」たちは今、等身大の自分自身を大胆に露出し、

だれよりもアクティヴに動き回るようになった。

彼らの批判なんかするなよ。

身も蓋もないこと言わせてもらえば、

批判したければ、彼ら以上に動き回ってから言え。

キリスト教界もそうだ。

ぼくのイチオシのキリスト教系ジャーナリストと、

まさに偶然、出会う機会をえた。

松谷信司(まつたに しんじ)。この名は覚えておけ。

このイケメンはイクメンだ。

ぼくもイクメンだったけどイケメンではない。うるさいわ。

知ってるか。「ペンは剣よりも強い」(Calamvs Gladio Fortior)んだぜ。

あ、知ってるね。

ぼくたちは武器は持ってないけどね、

でもね、書き続けることはやめないよ。

しんどいときは「しんどい」と書けばいいのさ。

抗議するときは「抗議する」と書けばいい。

負けそうなときは「負けそうだ」と書く。

何にも書けないときは「何にも書けない」と書けばいい。

そうすると、何かが変わるよ。その体験あるから保証する。

「世界は変わらない。日本はダメになる。」

そんなことを確信するなよ。

脳内だけででっち上げた三段論法で、世界をあきらめるなよ。

「世界は変わる。日本はダメにならない。」

そう言い続け、書き続けてくれよ。

ぼくらは、そうするから。

少なくとも松谷信司は、世界と日本をあきらめないから。

相方のぼくは、松谷信司を追いかけるだけさ。

彼はグレートだ。ぼくが保証する。

2013年7月11日

関口 康

2013年7月10日水曜日

都心ドライブ 記念写真


グーグルプラス・ハングアウトで行っている「カール・バルト研究会」のメンバーである中井大介先生(日本基督教団千里聖愛教会牧師)とリアルでは初めてお会いしました。都心をドライブしながら、教会のこと、政治のこと、子育てのこと、あといろいろ、大いに語り合いました。

東京駅前
キリスト新聞社 松谷信司氏と
奇跡のスリーショット(笑)
日本基督教団高輪教会(港区高輪3丁目)
高輪教会の中村公一牧師(右端)と
中村先生のお連れ合い(中央)と
実は初対面です
実は腐れ縁です(笑)中村先生はぼくの大先輩です
慶應義塾大学(港区三田2丁目)東門前で
日本基督教団鳥居坂教会(港区六本木5丁目)
鳥居坂教会の塔
鳥居坂教会の中庭
日本基督教団霊南坂教会(港区赤阪1丁目)
東京タワーです(説明不要ですね)
東京タワーです(だから説明不要だって)
レインボーブリッジを渡っています
天気が良くて東京湾周辺の夜景がきれいに見えました
お台場到着
お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ
お台場のガンダムを背にドクターペッパーで寛ぐ
東京駅でお別れ
また会う日まで
東京スカイツリー

問題は「妥協」をどう評価するかです

で、

ぼくにとって、というか、

もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが

最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。

以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。

「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。

この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)

この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」

(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)

ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。

パネンベルクの意図を要約すれば、

「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。

「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。

ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。

「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、

でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。

立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。

こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、

でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。

こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。

「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。

結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。

具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。

いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。

2013年7月9日火曜日

パネンベルクのトレルチ論を読み返している理由

いまごろになって、パネンベルクのトレルチ論(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、107~153ページ)を読み返していることには、理由があります。

読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。

ごくざっくり言えば、

パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、

カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、

ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、

「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、

トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。

で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。

しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。

だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。

でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。

こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。

その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、

基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。

客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。

挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。

これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。

もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。

そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。

分からず屋がいるとね、苦労しますよ。

あ、愚痴っぽくてすいません。

ただ積んでおいただけの本を、これから読む



自慢する思いなどは持っていませんが

ぼくはもう何年になるのか分からないくらい、キリスト教書店に足を運んでいません。

最近の様子が全く分かりません。

それでも全く不自由していないので、それはそれで問題だと認識しています。

その昔に買った本ばかりを読んでいます。20年前とかに買ったものです。

当時はほとんど読む力がなく、ただ積んでおいただけの本を、これから読む。

そういう感じでしょうか。

本て、ある年齢に達するとか、ある経験を経なければ、決して理解できないものって、ありません?

逆に言えば、それを経験した瞬間に、それまで理解できなかったことが急に理解できるようになる、とか。

なんか、いま、ぼくそういう時期なんだと思います。

やっと著者たちと同じくらいの年齢になった、とでも言うのでしょうか。

偉い人と自分を並べて言うのはおこがましいかぎりですが、

今のぼくが47歳ですが、昨年46歳になったときに友人の牧師から

「カール・バルトが『教会教義学』を書き始めた年齢になられたのですね」

とか言われて、どっきりしました。

だからナニと言いたいのではありませんが(ぼくには本は書けません)、

その年齢に達して、やっと「ああそういうことか」と分かるようになった部分が、

たしかにあると言えば、ある。

「新しい本を買って情報をアップデートする」というのとは違うと思うのですが、

「これまで読めなかった本が少しは読めるようになった」というのは、

結局これまでは本を持っていても理解できていなかったということ以外に意味しえないわけだから、

新たに本屋に行くのと大差ないんですよね、実は。

でも、今日は、ダメダメ状態です。

午前中からずっと、パネンベルクの『キリスト教社会倫理』(聖学院大学出版会、1992年)の

「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」という論文を久しぶりに読んでいるのですが、

(トレルチの倫理はぼくの修士論文のテーマでした)

アタマに入ってこないというか、思考停止の感じです。

気が散ってるのかな。きっとそうだな(にがわらい)。

2013年7月7日日曜日

努力や業績の追求では救われません


ローマの信徒への手紙4・1~12

「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」

いまお読みしました個所には、先週までの個所に書かれていることとは“ちょうど正反対”のことが書かれています。そのように申し上げることができます。先週までの個所に書かれていたことは、ユダヤ人と異邦人の違いはどこにあるのか、ということでした。しかし、今日の個所に書かれていることは、その反対です。ユダヤ人と異邦人の共通点はどこにあるのかという問題です。そういう言葉や問いそのものが直接出てくるわけではありませんが、内容をよく考えてみれば、なるほどそういうことが書かれているということを、きっとお分かりいただけると思います。

何度も繰り返して申し上げてきたことですが、また繰り返しておきます。この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と書いているとき、その意味は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人のことであると考えることができます。彼らが幼い頃からそのような教育を受けることができるのは、彼らの親や先祖が同じ信仰を受け継いできたからです。つまり、彼らは先祖代々の信仰者です。

それに対して、パウロが「異邦人」と書いているとき、その意味はユダヤ人とは異なる、ユダヤ人とは反対のタイプの人のことです。それは、幼い頃は聖書や教会に触れる機会がなく、聖書に基づく宗教教育とは無縁の生活を送ってこられたような、そういう人のことです。異邦人の信仰は、先祖代々受け継がれてきた信仰ではなく、その人自身が家族の中ではいちばん最初に与えられた信仰です。

どちらがいいとか悪いとか、どちらが上だとか下だとか、パウロ自身はそんなことを言いたいのではありません。全く違います。それどころかパウロは、両者の違いを明らかにしたうえで両者の共通点を指摘します。それは両方とも罪人であるという共通点です。どちらも罪深いと言っているのですから、ユダヤ人のほうが上だという話であるはずがないのです。神の前ではどちらも罪深いのです。

これで分かることは、どんなに幼い頃からそのような教育を受けていようとも、先祖代々の信仰を受け継いでいようとも、だからと言ってその人には罪がないということは言えないとパウロは考えていたということです。いま私は、教育には効果がないという話をしようとしているのではありません。そうではなく、教育という方法によっては、誰か一人でも、完璧に罪がない、人生で一度も罪を犯すことがありえない、そのような人間を生み出すことは不可能であるという話をしているのです。

しかし、両者の共通点はいま申し上げていることだけではありません。どちらも罪人であるということだけが共通点であるわけではありません。もう一つの共通点があります。それが、今日の個所に書かれていることです。それは、先祖代々の信仰を受け継いできたユダヤ人といえども、彼ら自身の信仰の歴史をいちばん最初までさかのぼれば、信仰を与えられた最初の人は事実上異邦人と同じ状態であった、ということです。

ユダヤ人の信仰の歴史の出発点はアブラハムです。アブラハムは先祖代々の信仰を受け継いだわけではなく、いわば彼が家族の中では初めて真の神を信じる信仰を与えられました。「『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』と書いてあるとおりです」(3節)とパウロが書いています。

アブラハムは、生後まもなく割礼を受けた人ではなく、成人してから割礼を受けた人です。それが意味することは、アブラハムにも割礼を受けていなかったときがあるということです。しかしだからといって、割礼を受けていなかった頃のアブラハムはまだユダヤ人ではなかったということにはなりません。かなり理屈っぽく聞こえてしまう話かもしれませんが、ここでパウロが言っていることは、アブラハムには「割礼を受けていないユダヤ人」だったころと、「割礼を受けたユダヤ人」だった頃とがある、というふうに、彼の人生は二つに分けることができるものである、ということです。

まさにこの点、つまりアブラハムという存在が、過去においては「割礼を受けていないユダヤ人」でもあったというその歴史的事実が、ユダヤ人と異邦人のもう一つの共通点であると言えます。このことを突き詰めて言えば、割礼を受けているかどうかという点こそが、その人がユダヤ人であるか、それとも異邦人であるかということを区別するための唯一の印であると考えることは、必ずしも正確な理解であるとは言えないということになります。そのように言える根拠は、信仰の父アブラハムの人生の中にも「割礼を受けていないユダヤ人」だった頃がある、ということです。

それで、今日の個所でパウロが問題にしていることは、アブラハムが神の義を与えられ、神の救いの恵みによって救われたのは、「割礼を受けてからですか、それとも、割礼を受ける前ですか」(10節)ということです。

この順序は重要です。アブラハムは割礼を受けたから救われたという順序であれば、割礼を受けることは人が救われるための条件であるということになります。しかし実際の順序はそれとは逆でした。アブラハムは神を信じました。だから彼は救われました。そして彼は救われた後に割礼を受けました。つまり、割礼を受けることは人が救われるための条件ではない、ということをアブラハム自身が証明したのだ、ということをパウロは言いたいのです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」(11節)とパウロが書いているとおりです。

そして、パウロはこのことを異邦人の救いという問題に当てはめています。異邦人は割礼を受けていません。しかし、彼らは割礼を受けなくても、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神の義を与えられて、救われるのです。なぜなら、割礼は人が救われるための条件ではないからです。

そしてパウロは、まさにそのことを根拠にして、割礼を受けないまま信仰によって救われた異邦人は、アブラハムのように、あるいはユダヤ人のように、自分が救われたことの証しとして、救われた後に割礼の印を受けるということは、もはやしなくてもよいと主張しました。パウロが主張したのは、人が救われることにとっての条件ではない割礼を、まだそれを受けていない人々があえて受ける必要はないということでした。

ですから、パウロにとっては、ユダヤ人と異邦人の違いは、割礼を受けているかどうかにあるのではない、ということになります。アブラハムとは、ユダヤ人にとっての信仰の父であるだけではなく、異邦人にとっての信仰の父でもあるということになります。いま申し上げたことはパウロが次のように書いているとおりです。「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」(11節)。

だいぶ理屈っぽい話になっているかもしれません。しかしこれは、わたしたちにとって重要な事柄です。アブラハムまでさかのぼれば、ユダヤ人と異邦人の違いはない。少なくとも割礼の有無という点は問題ではなくなる。ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、彼らが救われるために必要なのは信仰だけである。割礼は信仰と救いの付録のようなものだということになります。そして、その付録は絶対に必要なものではなく、無くてもよいものだという話になるのです。

その人がユダヤ人であるか異邦人であるかにかかわらず、つまり、先祖代々の信仰を受け継いできた人であるか、それともその人が家族で初めて信仰を与えられた人であるかにかかわらず、すべての人間にとっての救いの条件は信仰だけであるということになるのです。

しかも、その場合、「信仰」とは何を意味するのかが問題になります。パウロにとって信仰は「信仰」という名がついているだけの、しかし結局それは自分の行いや努力や業績であるというようなものではありません。自分ががんばって信じたとか、信仰という努力を重ねたとか、そういうことがその人を救うという話になるのであれば、結局、すべての人は自分の努力で自分を救うという話になります。神の恵みは不必要です。しかし、パウロの理解はそうではありません。信仰は神の恵みです。自分で手を伸ばして奪い取るものではなく、神から賜物として与えられるものです。それは、がんばった人への報酬ではなく、まだ何一つがんばっていない人へのプレゼントなのです。

そのことをパウロは「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(5節)という言葉で表現しています。

「不信心な者を義とされる方」とは神のことです。パウロが言っていることは、わたしたちの神は、深い信仰をもって生きている真面目な人だけを救ってくださる、そういう方ではない、ということです。順序が逆です。神を信じる信仰など全く持っておらず、信仰に基づく善き生活など全く送っておらず、真面目か不真面目か、どちらなのかと聞かれたら不真面目であると言わざるをえないような生活しか送っていない、そのような人を神は救ってくださるのです。それが正しい順序です。

「ずるい」などと言わないでください。わたしたちが教会に初めて来たときは「異邦人」の姿をしていました。パウロが描く「異邦人」は、わたしたちのことです。

もし「ずるい」と感じるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。しかし、やがて、病気や怪我や加齢等で体力や気力が衰え、「働きがなくなる」ときが来ます。そのとき、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」神の存在は、わたしたちの大きな慰めになるでしょう。

そして、もしそうでないならば、人が神によって変えられたということになるはずがないのです。救われる前に真面目な生き方が既にできているならば、神の力など不必要です。聖書も説教も不必要だし、教会も牧師も必要ありません。教会は真面目な人だけの集まりではありません。順序が逆です。教会の中で、人は神の力によって変えられていくのです。

(2013年7月7日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年7月5日金曜日

ほっと一息、すべては日常に戻る


すべては40代後半に突入してからです。

PTA会長だとか、大学のゲスト講義とか。

目立つことするのイヤ~ンなぼくが。

「遅ればせながら生まれて初めて系の仕事」

もう、死ぬまでこういうのは無い感じです。

ほっと一息、すべては日常に戻る。

幸か不幸か

生まれたときから7日刻みで人生を送ってきました。

何があろうが日曜日は教会。

こういう(単調な)リズム感覚が

骨身を粉砕する碾き臼のように感じたこともありました。

でも、この(単調な)リズム感覚のおかげで、

突発的なことや、非日常のことが襲いかかっても、

実はあんまり動じないで済んでいる。

ああ、これなのか。

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲が

蓄財を生み出す、という理屈の根拠は。

蓄財は、無いけどね。

ぼくに無いのはそれだけだな(ちくざい)(笑)。

2013年7月3日水曜日

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね

何年か前の高橋哲哉氏の本や、

読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、

ファン・ルーラーの論文やで、

「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、

我が意を得たりとぼくは思う。

先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、

「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。

個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。

宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。

どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。

教会を去る人が多いのは何故かとか、

日本の教会が広がらないのは何故かとか、

そういう言説が「流行る」今日この頃。

個別の問題に興味を持ってもらえない。

具体的な問題解決にかかわってもらえない。

不思議な話と不思議な儀式してるだけ。

ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。

牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?

カラダ動かしてるかどうかは無関係。

カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。

そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。

2013年7月2日火曜日

価値観の違い


心晴れない事情や悩みを抱え、かつどこにも持って行く場所が無くなり、いわば最後の最後に「教会」に頼ってくださるという方は、いまでも少なからずおられる。

最近もそういう方(面識ない)からのかなり長時間の電話をいただいた。

まあぼくは、口しか動いてないヒマ人なので、けっこう付き合うことはできる。専門的と言えるレベルではないが、ある程度のカウンセリングの手ほどきは受けた。

当然守秘義務があるので、詳しいことは書けない。家庭内の問題についての悩みだ。はっきりいえば「夫婦」の問題だ。

話を聴いているうちに、両者に明確な価値観の違いがあるようだ、しかし、相談者自身はその違いに気づいていないようだ、と分かった。

そのことを率直に告げた。びっくりされたようだったが、感謝してくださった。

参考までに、個人情報に触れない範囲で書いておこう。

価値観の違いとは、お金の使い道の話だ。

どちらかが贅沢をしている、という話ではない。

なるべくお金を使わずに、あるいは、最小限の支出で済ませる方法を考えようともせずに、まるで脊髄反射のように、口を開けば「だったら病院行けば~?」「だったら薬買えば~?」と言いだすことだ。

「その治療代、その薬代は、誰が稼いでると思ってるの?」と言いたい気持ちを飲み込んでおられるのではないか。

いま何時間働いたらいくらもらえるか、分かってるよね。それを病院だ、薬だに使うくらいなら、小さな子どもと貴方のために使ってもらいたい。そう思えるから働けるのに。

仕事で疲れ果てて帰宅して、家で疲れた顔していると「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」

そりゃ相手も腹立ちますよねと、ぼくには思えた。

もちろん病院や薬局が悪いわけじゃなくて(たぶんね)、不況の世の中が悪いのだろうけれど、

まるで脊髄反射的に「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」と言いさえすれば、相手をいたわる善意の言葉をかけている気になれる、世の中の風潮は、何とかしなくてはならないかもしれない。

「教会」は、病院でも薬局でもないし、会社でも学校でもない。

他の牧師たちは全く違うが、ぼくは口しか動いていないヒマ人なので(関グチなだけにね)、

何の役にも立たないし、悩みを抱える人に具体的な問題解決策を提示することすらできそうもない。

ぼくに言えることといえば、病院と薬局とマッサージ室の営業妨害することくらいだな(笑)。