2009年5月31日日曜日

三十八年も苦しんだ人が癒されたのに


ヨハネによる福音書5・1~18

「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』しかし、その人は、『わたしをいやしてくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです』と答えた。彼らは、『お前に「床を担いで歩きなさい」と言ったのはだれだ』と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはならない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」

今日の個所に記されている話を読むたびに、深く考えさせられてきたことがあります。それは、わたしたちの人生は単純なものではないということです。人生にはいろんな要素が複雑に絡み合っているのです。

あらすじは単純です。エルサレムで祭りが行われていたので、イエスさまがエルサレム神殿まで来られたところから始まります。イエスさまはエルサレム神殿の北東に位置する「羊の門」(神殿祭儀の中で犠牲としてささげられる羊を通らせるための門)の傍らにある「ベトザタ」という池と、その脇にある五つの回廊まで来られました。そしてイエスさまは、そこに横たわっていた大勢の人々をご覧になりました。その人々は「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」であったと記されています。

そして、その中には「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5節)がいました。すると、イエスさまは、その人の前に立ち止まられ、またおそらくはしゃがみこまれて話をお始めになったのです。イエスさまが質問なさったのは「良くなりたいか」(6節)でした。もし皆さんがこの人だったら、どのように答えるでしょうか。あるいは立場を逆にして考えてみることもできます。もしわたしたちの前に三十八年も病気で苦しんできた人がいたら、その人とどのような会話をするでしょうか。そのようなことをいろいろ考えながらお聞きいただくと、この話をより身近なものに感じていただけるでしょう。

それで注目していただきたいのは、この人の答えです。この人が答えたことは、「はい、良くなりたいです」ではありません。「いいえ、良くなりたくありません」でもありません。イエスさまが問われたことは「良くなりたいか」ですから、求められている答えは「はい」か「いいえ」です。しかし、この人はストレートな答え方をしていません。明らかにはぐらかしています。いろんな要素が複雑に絡み合ったような答え方をしています。突然話しかけてきた通りがかりの人に対して、素直な気持ちになれなかったのかもしれません。

この人は次のように言いました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

この人が言っていることをわたしたちは笑ったり批判したりするのではなく、なるべくこの人の立場に立って理解する必要があります。しかし、どうしても言わざるをえないことは、この人はイエスさまの問いかけにきちんと答えていないということです。この人はイエスさまの問いかけに答えていません。彼が口にしたことは、自分の病気が三十八年も治らない原因をこの人なりに考え抜いてきた結論です。

それは、要するにこうです。「あの池の水に触れると、わたしの病気は治るんだそうです。しかし、わたしはその水に触れることができません。だれもあの水にわたしを触れさせてくれません。だから、わたしの病気は治らないのです。つまり、わたしの病気が治らないのは、わたしのせいではないのです」。

イエスさまがこの人に「良くなりたいか」と言われたとき、この人のことを責める意図はなかったと私は思いますが、いかがでしょうか。しかしこの人は、まるで体と心が敏感に反応するように、「わたしは今、この通りがかりの人〔イエスさま〕から責められた!」と感じたのです。実際にこれまで、何度となく責められてきたからではないでしょうか。だから、「わたしの病気が治らないのはわたしのせいではない」ということをイエスさまの前で必死になって語ろうとしました。自分の身を守ろうとしました。

わたしたちはどうでしょうか。病気の話でなくてもいいでしょう。たとえば「今わたしは幸せではない」と感じている方。「このような状態に陥っている原因は、わたしのせいではない」と言いたい方がおられませんでしょうか。

「あなたはいつでもわたしのことを責め立てる。しかし、あなたにわたしの何が分かるのか。あなたはわたしの何を知っているのか。わたしの今の姿はこれまで体験してきた実にさまざまな要素が複雑に絡み合ってきた結果なのである。『良くなりたいか』とか突然聞かれても、『はい』か『いいえ』のどちらかで答えられるような単純な人生を送ってこなかったのである」と。

この人が何か必死になって、自分の身を守ろうとしている姿は、わたしたちにとって、決して理解できないものではないはずです。

しかも、ここにまた、もうひとつの複雑な要素が絡んできます。その要素とは、この人が口にしている「あの池の水に触れると病気が治る」という点は、ある解説によりますと、当時のユダヤ人たちは信じていなかったことであるというものです。

なるほどわたしたちは旧約聖書を読んでおりますときに「神殿の池の水に触れると病気が治る」というような話が出てくるのを見たことがありません。むしろわたしたちはそのような話には非常に違和感を覚えます。「迷信的である」と直感的に分かります。ユダヤ人も同じでした。迷信とか魔術とか占いとか、その種のことをユダヤ人は嫌っていたのです。

この人は自分で言っていることを本当に信じていたのでしょうか。この人がそのことを信じていたか信じていなかったかによって、この個所の理解は全く違うものになっていくでしょう。もし信じていた場合は、この人は自分の病気が治らない原因を、自分をあの池の水に触れさせてくれない周りの人々のせいにしていることになります。そうなりますと、「この人は、大人のくせにひどく甘えた、自立できない人間である。なんとけしからん」という話になっていくでしょう。そのようにして結局わたしたちはこの人を責めはじめることになるでしょう。

しかし、彼自身もそのようなことを本気で信じてはいなかったという場合もありうるというのです。その場合は、別の結論を用意しなければなりません。私が考えた別の結論は次のようなものです。すなわち、この人は自分の病気が治らない原因を周りにいるすべての人のせいにしているようである。しかし、そうすることによって、特定の誰かの責任が問われることを避けていたのではないかということです。

すぐに思い当たるのは、たとえば「この人の親は何をしているのか」というような責め方がありうるということです。ヨハネによる福音書9章に出てくる次の問いかけのように。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9・2)。

また「医者は何をしているのか」です。そして宗教的な次元で「神は何をしているのか」です。この人がこのような状態のままでいることを、親たちや医者たちは、あるいは神は、何もしないで、手をこまねいて放置していたのでしょうか。そうだったかもしれませんが、そうでなかったかもしれないではありませんか。

もしかしたらこの人は、自分の病気が治らない原因を、周りの人々から、それはあなたの親のせいであるとか、医者のせいであるとか、神のせいであると言われることを、最も嫌がっていたかもしれません。しかし、自分のせいでもない、とも言いたい。だからこそ、あの池の水に触れさせてくれない誰かのせいにした。それは、もしかしたら、自分の近くにいる人々をかばう気持ちの表われだったかもしれないではありませんか。

わたしたちの人生は、単純ではなく、複雑なのです。わたしたちがいちばんしてはならないことは、病気の人を責めることです。責めることでその人の病気が治るのなら話は別ですが、そのようなやり方では、おそらく何の解決にもなりません。

この点でイエスさまは違いました。イエスさまが言われたことは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)ということでした。そしてまた「あなたは良くなったのだ」(14節)ということでした。原因を探って責めたりはなさいませんでした。勇気をもって新しい一歩を歩みだすことができるように、励ましてくださったのです。

しかし、「もう、罪を犯してはならない」(14節)とも言われています。これはどういうことでしょうか。ぜひ安心していただきたいことは、イエスさまは、この人の病気の原因はこの人が犯した罪にあると言っておられるわけではない、ということです。そのような結び付け方は間違っていると、この福音書の9章でイエスさまが明言しておられます。

ところが、です。この人がイエスさまによって癒されたこと、床を担いで歩き始めたことを快く思わなかった人々がいました。ユダヤ人たちです。三十八年も苦しんできた人が癒されたのに、です。この人々は、そのことを喜ばず、なぜ安息日なのに床を担いでいるのかとか、お前の病気を治したのは誰なのかと責めるばかりでした。もっとましなことが言えなかったのかと思わずにはいられません。そして、ヨハネが記していることは、この出来事をきっかけにして、ユダヤ人たちのイエスさまへの迫害が始まったということです。

わたしたち教会の者たちは、このユダヤ人のような愚かさに陥るべきではありません。人のあらさがしをすること、他人を責めることは簡単です。また、ずばり原因を分析してみせることは必要かもしれませんが、それで問題が解決するわけではありません。複雑な人生を送っている人々を単純すぎる言葉で傷つけることは間違っています。

この個所を今日、ペンテコステの日に取り上げることができたことを幸いに思います。キリスト教会は、このユダヤ人のように、人を責めるために立てられたのではありません。そんなものは教会ではありません。わたしたちのなすべきことは、イエスさまのように、人を助けること、励ますこと、その人の立場に立って考え抜くことです。そのような慰めと励ましに満ちた教会を築いていくことです。

(2009年5月31日、松戸小金原教会主日礼拝)

いわば「距離感と影響力の関係」のようなこと(5)

しかし、です。これまで書いてきたことには大きな穴があるということを知らずにいるわけではありません。



厳然たる歴史的な事実は、あの新約聖書のパウロ書簡こそは、まさに典型的に、私が最下位に置いた「10.私信メール」に分類されるべきものであるということです。



しかし、しかし。そのパウロ書簡がもちえた「永続的影響力」たるや!(以下省略)



パウロ書簡は、今でいえば、たとえば「ローマの信徒へのメール」さながらであり、「コリントの信徒へのメール」さながらです。



複数教会の間で回覧されていたという点からいえば純粋に「私信」とまでは呼べないかもしれませんが、ほぼ確言できることは、それは「狭い範囲におけるメディアによるコミュニケーション」というに限りなく近いものであるということです。



すなわち、いうならば、「同質の宗教的確信ないし明文化された・または不文律である信仰箇条(信仰告白)において一致した(狭い)宗教的コミュニティ内部の回覧文書としてのパウロ書簡」です。



もしそういうものであるとパウロ自身が認識していなかったとしたら、「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい(アソコを全部ちょんぎっちまえ!)」(ガラ5・12)のようなブッチャケ下ネタまでは、たぶん書かなかったでしょう。



とはいえ、このことと同時に考えさせられたこともあります。



それは、パウロ書簡の「永続的影響力」が発生したのは、歴史的に見れば、少なくとも「パウロ死後」のことでしょうし(パウロ個人に対するキリスト教的偉人としての評価の発生)、何より教会による「正典化」が決定的な意義をもったでしょうし(新約諸文書に対する崇敬の発生)、キリスト教のローマにおける「国教化」も大きいでしょう(キリスト教宗教の政治的影響力の確立)ということです。



それは結果論かもしれませんが、我々現代人が知っているのは、まさに結果です。「そもそもパウロ書簡には、これが書かれた当初から永続的影響力があったのだ」と自信をもって堂々と語ることができるのは、歴史と現在における聖書の不動の地位を知っているからです。



問題にするほどもないかもしれないことは、我々自身が書いたメール(≒はがき、手紙)が今から二千年後には、現在のパウロ書簡と同等の地位を有していることがありうるかどうか、です。



199X年、A牧師がB長老にメールを送りました。そのA牧師が200X年には、その教会(教団)の大会議長(教団議長)になりました。201X年、その教会(教団)は、新党「日本キリスト教民主党」の支持母体となり、A牧師は衆議院議員になりました。202X年、同党党首であるA元牧師は、日本国総理大臣になりました、とさ。



たとえば、こんなふうなことが起こったとしたら、199X年にA牧師がB長老に送ったメールには国宝級の価値が発生する、かもしれません。



2009年5月30日土曜日

いわば「距離感と影響力の関係」のようなこと(4)

そして、ここに特に書いておきたいことは、このような「紙媒体へとつなげていきたい」とする明確な戦略的意図(ストラテジー)を有するという意味で「トータルな」観点から見たインターネットのあり方です。



「影響力の永続性」という観点から見れば、(個人レベルの)インターネットメディアとしては、おそらくブログが最高位ではないでしょうか。というか、ブログはほとんど飽和点に近いものであるような気がしています。そして(もちろん異論はありえますが)メールマガジン、SNS(mixi等)、メーリングリスト、私信メールと続くでしょう。これはちょうど人間関係の「距離感」において遠いほうからだんだん近づいてくる順序であると私には思われますが、どうでしょうか。逆からいえば、人間関係が「ベタなもの」、つまり、濃密であるが狭い範囲にとどまるもの(影響力は小さい)をより下位のほうに置き、そこから次第に「公共的なるもの」(影響力は大きい)を獲得していく順序を辿ってみたつもりでもあります。「このような観点や問題の立て方自体が間違っている」という意見があれば、それを尊重すること、やぶさかではありません。



この中に「匿名掲示板」を含めない(含めたくない)理由は、まさに「匿名」だからです。匿名であることが悪いと言いたいわけではなく、匿名の文筆活動を「わたしの言葉」の中にカウントすることは難しいと思っているだけです。



また、(ブログとは区別される)「ホームページ」というのは、どのように評価すればよいかが、よく分かりません。イベント情報などの告知板としては十分すぎるほどの効果を発しうると思いますが、宗教的・歴史的・社会的・文化的な意味での「永続的な影響力」なるものを「ホームページ」に期待できるでしょうか。無理ではないかと感じられてなりません。



いわば「距離感と影響力の関係」のようなこと(3)

そして、ここから先はやや脱線気味のことですが、私の狭い範囲の体験から言いうることは、前記ランキング表(案)のうち4(定期刊行物での発表)から10(私信メール)までは、執筆者は無給ないしマイナス(自費持ち出し)であるということです。ぎりぎり4(定期刊行物での発表)には謝礼程度のものがつく可能性がありますが、よほど著名な雑誌や紀要ならばともかく、多くの現実はほとんど無給に等しいと言ってよいでしょう。



この点が重大な意味を持ちはじめるのは、「それによってお金(給料ないし謝礼)を受け取っている働きは『仕事』であるが、そうでないもの(お金にならない働き)は『遊び』である」ということを悪い意味で確信している人々に出会うときです。



その人々にとっては、4から10までは(悪い意味での)「遊び」なのです。1から3までが「仕事」です。私に言わせていただけば、これから先の時代においては、4から10までのことに真剣に(仕事同然に)取り組んだことがない人は、1から3までに進んでいくことができません。そのように断言してよいと思っています。



しかしまた、1(著作集)は別格扱いですが、2(文庫・新書)と3(単行本)の場合であっても「売れる」または「当たる」まではマイナス(持ち出し)であるということは明白です。私自身は、1から3までの体験がまだありません。上記の価値観を持つ人々からみれば、すべて「遊び」でした(ごめんなさい)。つまり、私は、文筆活動によって儲けたという経験(=研究活動費を得たこと)が、まだ一度もないのです。しかし、だからこそ、「売れない」または「当たらない」執筆者の気持ちがよく分かるつもりでいます。



1(著作集)の実現は、「売れた」または「当たった」ことがある文筆家だけに許されている特権でしょうし、すでに十分な支持者(読者)を得ている人の王冠でしょう。もちろん、なかにはその作家自身の持ち出しで作られる「著作集」もあるかもしれませんが、支持者によって結成された「著作集刊行会」などが資金面を支えるのではないでしょうか。



しかしお金の問題は一瞥するだけにして横に置きます。前記ランキング表(案)に電気信号媒体のもの(ブログ、メールマガジン、SNS、メーリングリスト、私信メール)と紙媒体のもの(著作集、文庫・新書、単行本、定期刊行物、私家版)とをわざわざ混在させている意図は、どちらであってもそれらの媒体によって出回るものは我々自身が発するコトバであり、我々が書くモジであることに変わりはないという点を明らかにしたいからです。



異なるのは、書き手の側からいえば「見せ方」(プレゼンテーション)、読み手の側からいえば「見え方」(外観、外見、見てくれ)だけです。いかなる媒体を用いるにせよ、紛れもなくそれは、わたしが発したコトバであり、わたしが書いたモジであり、すなわち「わたしの言葉」であることに変わりはないのです。



ところが、この「見せ方」ないし「見え方」によって「影響力」という点が全く変わってくるわけです(ここに「お金のかけ方」という点も重要な要素として加わってくるでしょう)。



「わたしの言葉」に確信を抱いており、それに大きな(そして「永続的な」)影響力を期待したい人は、「見せ方」に力を注がなければならない。そのように、改めて思うのです。





いわば「距離感と影響力の関係」のようなこと(2)

コトバの持つ「影響力」の中には、一時的・瞬間的なものと永続的なものとがあるわけです。前者は、たとえば経済効果(一時的な景気回復など)のようなことには役立つと思います。しかし、私の関心はそちらのほうではなく、後者の面です。すなわち、宗教的・歴史的・社会的・文化的な永続性を持つ「影響力」です。



また、個人のレベルで取り組むことができるものに限って考えています。テレビやラジオや映画などのような数億、数十億、数百億といったお金をかけて営まれているマスメディアの話は、別世界の話です。



文筆活動というものを以上の意味での「永続的影響力」が高い順に並べていくとしたら、こんなふうになるのではないでしょうか。ただし、これはまだ何ら厳密な話ではなく、ただの思いつきです。



■ 個人レベルで取り組める文筆活動ランキング―「永続的影響力」が高い順―(案)



1.著作集(ハードカバー、ケース付)
2.文庫・新書(ソフトカバー付)
3.単行本(ハードカバー付、またはペーパーバック)
4.定期刊行物(雑誌、紀要、新聞など)で発表された文書(論文、随想など)
5.ブログ(画像やPDF版やMP3音声などを含めてよい)
6.メールマガジン
7.SNS(mixi等)
8.メーリングリスト
9.私家版の印刷物(コピー、リソグラフなど)
10.私信メール(手書きのハガキや手紙も含めてよい)



立場や見方によって異なる順位がありうると思います。しかし、いずれにせよ、このように並べるとほぼ明白に見えてくることは、(当たり前の話ですが!)この意味での「影響力」と上記の意味での「距離感」とはちょうど反比例の関係にあるようだ、ということです。



いわば「距離感と影響力の関係」のようなこと(1)

mixi(ミクシィ)というのを始めたのが昨年8月ですから、あと二ヶ月で丸一年も続けて来てしまった格好になります。関口康日記(ブログ)を始めたのは昨年1月ですから、こちらはまもなく一年半。メールは、「パソコン通信」(PC-VAN)を始めた1996年夏から数えると十三年。



ついでに言えば、メーリングリストの管理は「ファン・ルーラー研究会」を始めた1999年2月から数えれば、まもなく十年半。メールマガジンは「今週の説教メールマガジン」を発行し始めたのが2004年9月ですから今秋で五年になります。



最初は慣れないことや馴染めないことだらけでしたが、私なりの目標を定めて続けているうちに、これらを使うコツというか、ツボというか、落としどころというか、もっとはっきりいえば「ビジネスモデル」のようなことが、まだ何となくぼんやりとではありますが、少しずつ見えてきたような気がしています。もちろんすべてのことに当てはまることではありますが、体験してみなければ分からないことの典型的な一つがこれ(インターネット!)ではないかと思わされています。



最近とくに腹におさまるものが出てきたのは「距離感と影響力の関係」とでも言いうるようなことです。思いついてみれば、こんなこと誰でも分かる当たり前の話であると気づくのですが、実際に体験してみるまでは思いつきもしませんでした。



「距離感」というのは人間関係のことです。近く感じる人と遠く感じる人。相手のすべてとは言えなくても相手の多くを知ることができる関係と、知ることができない、または知る必要がない、あるいは知るべきではない関係。



「影響力」ということで言いたいのは、ある人が発するコトバが、主として肯定的(ポジティヴ)な意味での感化を及ぼし、共鳴を引き起こす力と、その範囲。ただし、私が考える「影響力」には永続性という点が含まれます。



遊び人の発想(2)

前にも書きましたとおり、ノートパソコンに入っていたデータのほとんどは会議録とか名簿のようなものではありません。そのような教会関係のデータのほとんどは、それをプリントアウトして教会役員なり教会員なりに配布します。そして最終的には記録誌にして製本します。その時点でデジタルデータそのものは、役割を終えるのです。



それが時代遅れなのかどうかの判断は難しいものですが、教会の世界は依然として、なんらペーパーレス社会ではありません。ペーパーにしてなんぼの世界なのです。



もちろん、データファイルとしてパソコン内に保存しておくほうが便利だと思えるものもあります。毎年行っている行事などの場合は、前年に行ったことが「ひな型」になりますので、前年のデータファイルが残っていれば、ゼロから作り直す必要がなくなる。



しかし逆にいえば、それらのファイルは「ひな型」としての価値しかないものです。ゼロから作り直す必要がないので便利、というだけのことです。上記のとおり、データの内容は、プリントして配布し、さらに記録誌を作成した時点で役割を終えます。後生大事に保存しておく必要は何もありません。しかし、このたび復旧しえた95%のデータは、この部分です。





遊び人の発想(3)

失った5%の中身は何だったか。それは、説教や論文や翻訳などの「下書き」(未発表文書)です。それらのうちで「下書き以上、ペーパー化未満」のものの多くはブログ上にさらしてきましたので(つまりそれはデジタルデータが(ウェブ上にであれ)存在するということですので)、すべてセーフです。



しかし、未発表文書の中には、最近のものだけではなく、十二、三年前から「下書き」のままのものも含まれています。古くからの「下書き」の中にはペーパーとしてプリントアウトしてファイリングしてあるものも結構あるのですが、プリントアウトした後にもちょこちょこと(数行分とか数単語分とかの程度を繰り返し)書き直していますので、「最新版」は常にパソコン内にあるという状態になっています。



そのような微妙な書き直し(いわゆるマイナーチェンジというやつです)は、「あ!」とひらめくものがあるたびに行ってきたものですが、そのたびにバックアップ用の外付けハードディスクがブンブン回りはじめますとパソコン全体がフリーズしそうになったり、動きが遅くなります。私のパソコンは会社に備え付けられているような立派なものではなく、自費で買える程度の性能の低いものですから。そのため、ふだんはバックアップ用の外付けハードディスクは外しているのです。



「大切だと思っているのなら、なぜバックアップしていなかったのか」と詰問されると答えに窮するものがあるのですが、その理由は大体ここに書いたようなことです。





遊び人の発想(1)

パソコン関連については、ほぼ復旧いたしました。クラッシュしたノートパソコンがとてもお気に入りのものだったこともあり、壊れて(壊して)しばらくは脳内がフリーズしていた面があります。しかし、落ち着いてからいろいろ考えているうちに、ここにもあそこにもデータをバックアップしていたことを思い出し、それらを手繰り寄せていくうちに、ほぼ95%はデータを復旧できました。ありがたいことだと思っています。



ところで、「データのバックアップ」という問題については、この機会にいろいろ考えさせられました。「バックアップするのが当然。していない人間は愚か」という意見を聞くことができたからです。



しかし、私は、このような意見をこのたび何度となく聞かされるに及んで、なにかとても深い違和感にとらわれてしまったのです。それで考えさせられたのは、「この違和感の正体は何なのだろうか」ということです。



それで、やっと少し分かってきたのです。



ああ、牧師ってやっぱり基本が「遊び人」なのだと(私だけかもしれませんが)。



会社勤めをしておられる方々とは、パソコンの使い方が根本的に違うようだと。



2009年5月26日火曜日

今年の「生誕祭」ベスト20

どなたが調べてくださったのかは分かりませんが、「2009年 記念 生誕」の検索語でgoogle検索してみると、興味深い順位で表示されることを知りました。われらがカルヴァン先生の大健闘を見よ!(ファン・ルーラー先生は昨年2008年が「生誕100年」でした)



○今年の「生誕祭」ベスト20(重複記事は除く、2009年5月25日現在)



第1位 「松本清張 生誕100年」(小説家、まつもとせいちょう)



第2位 「カルヴァン生誕500年」(拍手!パチパチ)



第3位 「スズキアルト生誕30年」(自動車)



第4位 「赤坂小梅 生誕100年」(民謡歌手、あかさかこうめ)



第5位 「ダーウィン生誕200年」(科学者)



第6位 「手塚 治 生誕80年」(漫画家、てづかおさむ)



第7位 「太宰 治 生誕100年」(小説家、だざいおさむ)



第8位 「加藤清正 生誕450年」(熊本大名、かとうきよまさ)



第9位 「ゲームボーイ生誕20年」(ゲーム機)



第10位 「吉澤儀造 生誕140年」(洋画家、よしざわぎぞう)



第11位 「小泉信三 生誕120年」(慶応義塾塾長、こいずみしんぞう)



第12位 「楊洲周延 生誕170年」(浮世絵師、ようしゅうちかのぶ)



第13位 「バート・バカラック生誕80年」(歌手)



第14位 「横山隆一 生誕100年」(漫画家、よこやまりゅういち)



第15位 「メンデルスゾーン生誕200年」(作曲家)



第16位 「向田邦子 生誕80年」(脚本家、むこうだくにこ)



第17位 「オリヴィエ・メシアン生誕100年」(作曲家)



第18位 「土門 拳 生誕100年」(写真家、どもんけん)



第19位 「リンカーン生誕200年」(政治家)



第20位 「伊藤真乗 生誕100年」(真如苑開祖の方だそうです。いとうしんじょう)



2009年5月24日日曜日

人生における飛躍の要素


ヨハネによる福音書4・43~54

「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下っていく途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」

今日の個所に記されていますのは、ヨハネによりますと、わたしたちの救い主イエス・キリストが行ってくださった「二回目のしるし」です。

これが二回目であるということは、当然、これより前に一回目があったということです。「最初のしるし」の内容は、カナの婚礼において水をぶどう酒にお変えになるというものでした。それは驚くべき奇跡的なみわざでした。「二回目のしるし」もまさに驚くべき奇跡的なみわざでした。それはどのようなものであったのかを、これから見ていきたいと思います。

その際、今日、皆さんに注目していただきたいと願っており、私自身もこだわりたいと思っている問題は、この「二回目のしるし」が行われた場所はどこだったのかということです。後ほど詳しく申し上げますが、この点はこの個所全体を理解するためにとても重要な意味を持っているからです。

考えられる可能性は二つです。第一は、「二回目のしるし」はガリラヤのカナで行われた可能性です。「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた」(46節)と記されていることを重んじ、そこからの移動はないと考えることです。

しかし、第二の可能性があります。それは、今日の個所に登場する「カファルナウムの役人」は、マタイによる福音書(8・5~13)とルカによる福音書(7・1~10)に出てくるあの「百人隊長」のことであると考えることです。

マタイもルカも、百人隊長の子供が癒されたとき、イエスさまがカファルナウムの百人隊長の自宅近くまで来られたことを明らかにしています。もしわたしたちがマタイとルカが紹介しているのと同一の出来事をヨハネも別の視点ないし角度から紹介しているに違いないと理解するとしたら、イエスさまはカナからカファルナウムへと移動なさったのだと、ヨハネが書いていない部分を読み込んだり補ったりしながらではありますが、考えることもできるわけです。ですから、この第二の可能性も否定することはできません。

さて、私はなぜこのようなことを問題にしているのでしょうか。先ほどから問うているのは、イエスさまが「二回目のしるし」を行ってくださった場所はどこなのかということです。この問題が持つ「重要な意味」とは何でしょうか。これから申し上げることがその答えです。

そこで、注目していただきたいことは、第一の可能性と第二の可能性の決定的な違いは、カファルナウムからイエスさまのもとに「わたしの息子を助けてほしい」と依頼する声が届いたときに、イエスさまがカナからカファルナウムへと移動なさったか、それとも移動なさらなかったかであるということです。移動なさったと見るのが、第二の可能性です。移動なさらなかったと見るのが、第一の可能性です。

私の見方は、ヨハネが記しているのはどうやら第一の可能性である、というものです。つまりイエスさまは全く移動なさいませんでした。そのように私はこの個所を理解します。確実に語りうる事実は、ヨハネ自身は、イエスさまがカナからカファルナウムへと「移動なさった」というふうにはどこにも記していないということです。この点を尊重しなければならないと思っているのです。

第一の可能性か、それとも第二の可能性か。つまり、イエスさまは移動なさらなかったのか、それとも移動なさったのか。おそらくこの違いは、わたしたちの感情ないし感覚のレベルからいえば、非常に重大なものです。おそらく皆さんにはすぐにご理解いただけるでしょう。「わたしの息子が死にそうだ」と言って嘆き悲しむ人の声をお聞きになったときに、イエスさまは一歩も動かれなかったのか、それともすぐにかけつけてくださったのかでは話が全く違うということに。

この役人がイエスさまに願ったことは、「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように」(47節)でした。しかし「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(49節)とも言っています。彼の願いの要点は、とにかくイエスさまに来ていただきたいということでした。

とにかくわたしの家まで来てくださった。この子が癒されるようにと、とにかく祈ってくださった。その結果としてその子が死んでしまったとしても、それはそれで受け入れるしかない。そのことは分かっている。

医師の場合はもちろんこと、牧師の場合でも、今すぐにも死にそうな苦しみを味わっている人がいれば、とにかく現場にかけつける。手の施しようがあるうちは全力を尽くして何とか手助けをする。その結果として間に合わなかった、あるいは助けらなかったという場合ならば、お赦しいただける面があるはずです。

しかし、どんなに助けを求めても何もしてくれなかったし、一歩も動いてくれなかったということになりますと、話は大きく変わってくるでしょう。感情を著しく逆なでされるものがあるでしょう。

ここに決定的な違いがあると思われるのです。マタイとルカが描いているイエスさまの姿と、ヨハネの描いているイエスさまの姿は、明らかに違います。前者は、困っている人のところに一目散にかけつけてくださる、腰の軽いイエスさまです。後者は、どこかしら人を突き放しているようにも感じられる、なんとなく動きの鈍いイエスさまの姿です。

しかし、誤解がありませぬように。私は、ヨハネの描いているイエスさまの姿は間違いであるとか、冷たい印象であるなどと言いたいわけではありません。ヨハネによりますと、イエスさまはこの人に向かって「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)とお語りになりました。この言葉に含まれているものは、確かに厳しいものではありますが、決して冷たいものではなく、むしろ強い励ましであると考えることができます。

この人はイエスさまのおっしゃったこの言葉を聞いて、それを信じて自分の家に帰って行きました。このイエスさまの言葉は「息子が死なないうちに、カファルナウムまで来てください」というこの人の願いごとに対するお返事として言っておられることですので、イエスさまはこの人の願いを事実上断っておられるのです。「来てください」をいう願いを聞いて「はい分かりました。一緒に行きましょう」と言われたのではなく、「わたしは行きません。あなたが一人で帰りなさい」と言っておられるのです。

ぜひ誤解しないでいただきたいことがあります。イエスさまがこの人の願いを(事実上)断っておられる理由は、「わたしは他の仕事で忙しいのだから、あなたの息子がどうなろうが知ったことではない。さっさと一人でお帰りなさい」というようなことではありえないということです。もしそんな話だとしたら、イエスさまは救い主失格です。救い主の風上にも置けない!

それでは、どういうことでしょうか。わたしたちが信頼してよいことは、イエスさまがこの人を一見突き放しておられるように見えるやりとりの中にも、深い愛と憐みの御心があるということです。

一目散にかけつける、近くに寄り添う、目を見る、手を握る、顔と顔を合わせて温かい言葉をかける。そういうふうにすることだけが愛であり、憐みであり、救い主のみわざであり、教会の牧会的なわざであるということであるならば、イエスさまのなさったことはすべてそれに反しています。しかし、イエスさまがこの人にお求めになったのは、一言でいえば「信仰」です。あなたは神さまを信じていますか。あなたの息子さんの命を支えておられる神さまを信じていますか。この問いかけがあると言えます。

イエスさまはこの人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と言われています。困ったときに、何かをしてもらった。助けてもらった。人間離れした不思議なわざを見た。そのようなことでもなければ神など信じないし、教会に通わない。そのようなあり方を、イエスさまは厳しく問いかけておられます。

「帰りなさい」というイエスさまのお言葉の意図は「信じなさい」です。あなたの息子は生きると信じなさい。神さまがあなたの息子を生かしてくださると信じなさい。しるしを見たから信じるとか、イエスさまがかけつけてくださったから信じるというのではなく、何は無くとも信じなさい。そのように勧められているのです。

何かをしてもらったから信じる。たとえば自分の息子をいやしていただいたから信じる。もちろんそのような信じ方はありうるものです。しかし問題は、わたしたちは本当にそれだけでよいのでしょうかということです。その息子がまた病気になるということは、当然ありうることです。わたしたち人間は、いつかは必ず亡くなります。そのとき同時に信仰の根拠まで失われてしまうことになるでしょう。

教会が何かをしてくれた。だからわたしは信じます、というような信じ方にも同じようなことが当てはまります。わたしたちの長い人生のなかでは引っ越しや転勤などで教会を変わることがありえますし、牧師も交代していきます。しかし、通う教会が変わり、牧師が代われば、同時に信仰の根拠もなくなってしまうということでは、やはり困るのです。教会と牧師が困るのではなく、あなた自身が困るのです。

マタイやルカとは違い、ヨハネがあたかもイエスさまが移動なさらなかったかのように描いていることによって強調していると思われる点は(事実、イエスさまは移動なさらなかった可能性があります)、まさにこの「あなたの信仰が問われている」という面であると考えることができます。

イエスさまのほうから来てくださり、わたしのために何かをしてくださったので信じるという信じ方は、ある意味で合理的な信仰です。しかし、まだ何もしてもらっておらず、目の前の事態は何も変わっていないときに信じるという信じ方には、明らかに「飛躍」があります。その飛躍を、イエスさまはこの人にお求めになったのです。

(2009年5月24日、松戸小金原教会主日礼拝)

新体制発足

22日(金)に新しいパソコンを購入しました。熟考の末、ノートパソコンとデスクトップパソコンを同時に。



ノートは懲りずにVAIOです(ソニーさん、悪口言ってごめんなさい)。デスクトップはパソコンショップのオリジナル品です。価格は、両方合わせても、かつてのぞっとするほどと較べては、べらぼうなものではありません。良い時代になったものです。



ノートは教会の牧師室に(できるだけ持ち運ばないようにと思っています)、デスクトップは自宅(牧師館)に置くことにしました。



二台ともCORE2DUOになりました。OSはVISTAですがメモリ4ギガとなりましたので、動作の速さは私には申し分ありません。イライラが解消しました。データの再整理を急いでいるところです。



自作パソコンには後ろ髪引かれるものがありますが、じっくり取り組む時間がありません。パソコンクラッシュでもたもたしている間にもまさに次から次に仕事依頼が舞い込み、大渋滞状況でした。一刻の猶予もありませんでした。いろいろお待たせしてご迷惑をかけてしまった方々にお詫びしなければなりません。



また、自作パソコンには無くてメーカー品にあるもの、それは何といっても美しい外観です。VAIOのスタイルには圧倒され、魅了されるものがあります。「それはあなたの小児性の表われだ」と妻には言われますが、私はいまだに(現在43歳です)女性とパソコンに美しさを求めてしまいます(ごめんなさい)。



デスクトップのほうは「外見なんてどーでもいい、ストレスなく仕事してくれりゃーいい」という基準で選びましたが、なかなかどうして大したものです。



おそらくこれで、これから数年はパソコンのハード面で苦しむことはなさそうです。手を滑らせさえしなければ(がくっ!)。





2009年5月22日金曜日

立て直し!

VAIOくんは亡くなりました。データどころか本体のハード面が致命傷を負っていました。死なせてしまった私の責任は重大です。なんだかかわいそうなことをしました。



データのうち主だったものは、教会のパソコンやわが家のいくつかのパソコンに分散されて保存されていますので、どのみち近日中に購入せざるをえない新しいパソコンにそれらを集めさえすればよいことは分かっています。しかし、ここ数日間から一ヶ月ほど以内の書き物(いずれも未完成・未公表)は、死んだVAIOの中にしかありませんでした。こういうのが痛い。



ハードディスクからのデータレスキューが全く不可能だった原因として思い当たるのは、床に落下した瞬間も電源が入っていてハードディスクが稼働中だったことです。もしあのとき回っていなかったら違う結果だったかもしれません。落下直後、ハードディスクだけを取り出して少し振ってみたところ、カラカラと嫌な音がしました。何かが外れたかディスクが割れたかしたようでした。



私のパソコンの使い方は別に特殊なものでも何でもなく、多くの人がしておられるに違いないように、自分にとって使いやすいようにいじっている部分がけっこうあります。とくに私の場合、神学の面でいちおう専攻としてきた分野が「組織神学」(システマティック・セオロジー)である関係もあって、システム(体系ないし系統)の問題をいつも考えているようなところがありまして、それがパソコンの使い方(フォルダの立て方や並べ方など)にもけっこう反映していたりします。



つまり、やや大げさに言い直せば、パソコンの中身を私の脳みその中身(思惟構造)に近づけようとしてきたところがあるということです。



実は、このあたりの工夫については、いつも自分の手元にあるパソコンだけに施していたことでした。したがって、パソコンを新しく購入して分散されたデータをかき集めて来ても、それで即、仕事のペースが元通りに戻るわけではなく、まさにシステムの立て直しが必要だということ。これも痛いです。



ちなみにこの文章を書いているのは、昨年12月のオランダ旅行のために「旅先で壊れてもかまわないもの」として購入を思い立ち、ヤフオクで一万円ほどで落札した古いXPノートパソコンです(celeronプロセッサ)。しかし、動作の鈍さたるや、それはそれは今となっては本当にひどいシロモノで、これでは仕事になりません。



でも、考えてみれば、こんなひどいものが数年前には「最新鋭のテクノロジー」とか騒がれ、企業現場の最前線で実際に使用されていたのかと思うと、今の我々が扱っている仕事の作業速度のほうが異常なのかもしれないと、ちょっとだけ疑ってみたくなりました。



ともかく、気落ちしている余裕は私にはありません。すべて立て直しです!




2009年5月21日木曜日

ブログは「日記」ではありえない

本当にただ鈍い頭なだけなのですが、この「関口 康 日記」を始めて1年4ヶ月とちょっとになりますが、それくらい続けてきてやっと最近飲み込めてきたことは、このブログというのはどう考えても「日記」でありえないということです。



私が「日記」という字を見て思い浮かべるものは、本人死後にならなければ決して開陳されえない、まさに最高機密という名にふさわしい第一級文書資料です。



牧師の場合でいえば、「今日は○○氏と教会の牧師室で面談した。○○という内容であった」「今日は○○氏から電話があり、○○についての打ち合わせをした」「今日は○○教会の○○牧師の任職式があり、感謝会の席上で○○教会の○○長老が○○牧師について批判的なことを述べた。私はそれを聞いて○○と思った」というような記録集です。



もちろん「日記」は学術論文のようなものではありませんので、その中に記される内容に思い込みやうろ覚えなどに基づく事実誤認が散見されることは、ままあることだし、致し方ありません。



しかし、通常の場合、「日記」にウソを書くでしょうか。書かないのではないでしょうか。



他方、「ブログ」はどうでしょうか。逆の問い方をしてみましょう。「ブログ」に事実ないし真実を書くことができるでしょうか。書くことができないのではないでしょうか。



もちろん「日記」についての考え方にも、いろいろあるでしょう。人をだますときは、まずは自分の身内からだます。家族も知らないはずの場所に「日記」を隠しはしたが、万が一見られた場合のために「日記」にウソを書いておく。真実が記された文書は厳重に暗号化されて、第三者が持っている(?)。こんな感じのスパイごっこでもしたい人(または「せざるをえない人」)のことは知る由もありませんが、私はそんな面倒なことはできないし、やってられません。



しかし、ブログにまさか最高機密を書き連ねるバカはいないでしょう。そもそも、本人以外に「ブログの読者」なる存在がいることを前提に書くのがブログではないでしょうか。



もしこの私の定義が正しいとしたら、ここには「誰に知られても構わないようなこと」(情報としての価値はきわめて低いこと)しか書くことができません。あるいは、「多くの人に知ってもらいたいこと」(情報としての価値は高いと少なくとも本人は信じて疑わないようなこと)だけを書くことになります。



その場合、演技や誇張も(当然)混じる。いささかのウソやダマシや暗号(!)も含まれる。



そういうものは、私のカテゴリー表に従えば「日記」ではありません。うんと皮肉っぽく言えば「プロパガンダ」。もう少しオブラートに包んでギリギリ「私小説」かなあ。まあ「雑感」とか「随想」というに近いものでしょうけれど。



というわけで、そろそろ「関口 康 日記」というブログ名称を変えなければならないと考えているところです(これが「日記」であったことは一度もありませんから!)。



「関口 康 プロパガンダ」も自分としてはなかなかの名案だなと思うところもありますが、ただのサディスティックな嫌がらせと見られても仕方がないので自重します。



2009年5月20日水曜日

贅沢な奇跡

今週5月18日(月)東関東中会・東部中会合同教師会(会場 日本キリスト改革派花見川キリスト教会)の開会礼拝での説教を、ブログ「今週の説教」にアップしました。牧師は牧師会でどのような説教をするのでしょうか。その一つのご参考になれば幸いです。説教のタイトルは「贅沢な奇跡」です。

ブログ「今週の説教」
http://sermon.reformed.jp/

ノートパソコンは依然入院中です。明日見舞いに行って様子をみてきます。退院までは代用パソコンを使わざるを得ませんが、不便極まりない毎日を過ごしております。よりによっていちばん性能の良いものが壊れてしまったので、代用品の動作の遅さや重さにストレスを募らせています。

自作パソコンのすすめ」を書きました。書いたことを後悔はしていませんが、別の角度から考え直してみているところです。

自作パソコンのいわば唯一の難点は、(まるで言葉遊びのようなことを申しますが)、「パソコンを自作しようと思い立つことができるほどの、またパソコンが壊れたときには自分で直そうと取り組むことができるほどの、《心の余裕》を確保できるかどうか」にあると言えます。

実は、その《心の余裕》が今ありません。それを確保できる見込みは(なんと光栄なことに)当分ありません。

「ブログを書くひまはあるようだがね」とけっこう胸をえぐられるようなコトを言われることもありますが、あまりむきになって反論せず、ニコニコ笑って受け流そうと心がけています(「ブログを書くほどのほんのわずかな《心の余裕》も失われてしまったら、その日にオレはたぶん死んでるし」と内心で思いながら)。

「やっぱりメーカー品を買うしかないのかな」と、半分以上あきらめかけています。

えーい、このイライラパソコンめ!(今これを書いているパソコンのこと―筆者注)

「水」が「ぶどう酒」に変わらないものかとニンニンと念じていますが、残念、私にはその力はありません。




2009年5月18日月曜日

贅沢な奇跡


ヨハネによる福音書2・1~11

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

アムステルダム自由大学神学部で長く教義学講座を担当したヘリット・コルネーリス・ベルカウワー教授が1960年に出版したヨハネによる福音書についての説教集が、私の手元にあります。タイトルは『世の光』(Het licht der wereld)といいます。

49年前に出版されたものですので(ベルカウワーは当時57歳)、すでにお読みになった方もおられるのではないでしょうか。私が手に入れたのはつい最近のことです。すらすら読めるわけではありませんので面白そうなところだけを拾い読みしてきました。

その中でいちばん興味をひかれましたのが、ヨハネによる福音書2章のいわゆる「カナの婚礼」でのイエス・キリストの奇跡についての説教でした。今日はその説教のかいつまんだところを紹介させていただき、そのことを通して皆さまに一つのお勧めを申し上げたいと願っております。

説教の冒頭でベルカウワーが指摘していますことは、「カナの婚礼」の出来事は、2・11によるとイエス・キリストにとっての「最初のしるし」であったということです。なかでも「最初の」というこの点が重要な意味を持っているということが、あとで分かります。

ベルカウワーが続けて述べていることは、注目すべき内容をもっています。そのイエス・キリストにとっての「最初のしるし」が、たとえば癒しのわざであるとか、あるいは足の不自由な人を新しい人生の陽の光のもとに生かしめるみわざであるとか、目が不自由な人の目を見えるようにするとか、死者をよみがえらせるというようなことではなかったのだということです。

イエス・キリストが最初になさった奇跡のみわざは、結婚式の場で水をぶどう酒に変えるというようなことであったのだ、これをある注解者は「贅沢な奇跡」(luxe-wonder)と呼んでいるほどのことだったのだ、と述べています。

そしてベルカウワーが言うには、この物語を読む人々がどうしても最初に思い浮かべてしまうことは、これは贅沢な話であるということであり、現実的な享楽であるということであり、豊かさということである。そして実際この箇所で強調されているのはそのようなことではないだろうかと彼は問うています。

つまりベルカウワーは、この箇所を読む人が「なんて贅沢な話なのだろう。けしからん」と思ってしまうことは無理もないことであると考えているのです。そもそもこのテキストの趣旨はそのようなものであると考えているのです。

そして、ベルカウワーは、イエス・キリストの最初のしるしが「贅沢な奇跡」であったということを肯定的に受け入れたうえで、それではその意味は何なのかということをこの説教の聴衆、あるいはこの説教集の読者に考えさせようとするのです。

ベルカウワーがこのようなことを指摘した意図ないし理由は、すぐに分かります。彼はこのように言っています。「教会の周辺部分にいる人々だけが、この最初の奇跡を気難しく考えるのである。それはぶどう酒だとか、豊かさだとか、盛大なお祭り騒ぎのようなものから距離を置いて座る禁欲主義者たちである。」

もっときついことも言っています。「それは、何度でも繰り返し教会の中に現れる、キリスト教信仰を何よりも先に祝いごとの要素のほうへと結びつけるのではなく、喪に服するという要素のほうへと結びつけようとする人々である。それは福音に逆らって立つ人々であり、頑固さや気難しさの要素をキリスト教信仰に結びつけようとする人々である。」

これではっきりとお分かりいただけるでしょう。この説教には明確な意図があります。要するに禁欲主義者への批判です。このテーマがこの説教の全体の中で一貫して扱われています。

「そのような禁欲的な生き方は改革派的ではない」というような言い方をベルカウワーはしていません。しかし、わたしたちはそのような言い方をしてきたと思いますし、私はそのような言い方が嫌いではありません。むしろ私はそのようにはっきり言いたいほうの人間です。本来の改革派信仰は「喜びの信仰」である。改革派教会の信仰にはいささかも禁欲主義的な要素はないと。

祝いの席で気難しい顔や態度をとっている人は、はっきり言って迷惑な存在です。周囲を不愉快にさせるだけであり、嫌がらせ以外の何ものでもありません。

花婿であるイエス・キリストは、すでに来てくださった方です。わたしたちはイエス・キリストによる救いの恵みにすでに与っている者たちであり、救われたことの喜びを前面に出して表わしてよい者たちです。そのわたしたちがなぜ、いつまでも「喪」に服し続けなければならないのでしょうか。それは福音に逆らって立つことであるというベルカウワーの指摘は全く正しいものです。

わたしたちの礼拝は本質的に祝い事ではないでしょうか。礼拝中に気難しい顔で腕組みして座っている人とか、鋭い批判的な目で説教者をにらみつけている人の姿が見えますと、わたしたち説教者の多くは非常に不愉快な気持ちになります。

もちろんそのような雰囲気を説教者自身が作り出してしまっている場合もあります。説教者自身の神学思想の内容が「キリスト教信仰とは喪に服することである」というようなものであるとしたら、この人の語る説教が、礼拝全体、教会全体を暗く落ち込んだものにしていくでしょう。その場合には、「礼拝が、教会が、暗く落ち込んでいます。説教者よ、それはあなたの責任です」と言われても仕方がありません。

ベルカウワーの禁欲主義者に対する批判は徹底しています。次のようにも語っています。「神という方は、豊かな賜物をお与えくださる方なのであって、貧相な方ではない。・・・『わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』(ヨハネ10・10)と語られているとおりである。」

説教の最後の部分で、ベルカウワーは次のように述べています。

「この奇跡、この最初のしるしの物語が教会のなかで持っている影響力は非常に強いものである。教会はいつも必ずというわけではないが時々あるいはしょっちゅう、神の賜物を人間の堕落という点から解釈してきた。・・・しかし、ヨハネによる福音書は、そのような解釈とは別のアプローチの方法をわたしたちに提供している。わたしたちが日常生活の陳腐さや道徳くささを自分自身で乗り越えるのは難しいことである。カナの婚礼の物語を通してヨハネが示しているのは、イエス・キリストからいただける賜物の豊かさであり、失われたものの回復である。それは可能であり、実現することである。」

わたしたちの教会が、とりわけ主の日の礼拝が、豊かであり贅沢であり、明るく楽しい祝いの席であって何が悪いのでしょうか。ベルカウワーが指摘しているとおり、この箇所に描かれている奇跡物語はイエス・キリストにとっての「最初のしるし」なのです。「最初」の出来事は記念すべきです。その内容がなんと、こともあろうに、結婚式の場で飲み尽くされたぶどう酒の追加分を提供してくださるということだったのです。

このお勧めが、イエス・キリストの恵みは豊かなものであり、贅沢なものであるということを覚えていただくきっかけとなればと願っております。

(2009年5月18日、東関東中会・東部中会合同教師会開会礼拝説教、於 花見川キリスト教会)

2009年5月17日日曜日

垂穂は色づき刈り入れを待っている


ヨハネによる福音書4・31~42

「その間に、弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。』さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」

先週までに学びましたことは、わたしたちの救い主イエス・キリストとサマリアの女性との出会いの出来事についてでした。この女性には五人の夫がいましたが、このとき連れ添っていたのは夫ではありませんでした。そのことをイエスさまは見抜かれました。

そのことを見抜いておられたからこそイエスさまはこの女性にあのようにおっしゃったのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。

ここでイエスさまが指摘なさっていることは、水を求めているのはあなたのほうですということです。渇いているのはわたしではなく、あなたのほうであると。もっとも、ここでイエスさまは、彼女が渇いている原因は何であるかを、はっきりと言葉になさっているわけではありません。しかし、このやりとりからそのことははっきりと分かります。

結婚を繰り返すことや今連れ添っているのは夫ではないこと自体があなたの罪である、間違いであるというようなストレートな言い方をイエスさまはしておられません。しかし、そのような生き方や結婚のあり方を続けてきたあなたの心は、今まさに渇ききっているのではないでしょうか、そのあなたこそ生きた水を求めているのではないでしょうかと指摘しておられるのです。

そして、そのやりとりのすぐ後に、礼拝の話が続いています。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)。このこともまた、渇いているのはあなたのほうではないかと指摘しておられることと無関係であるはずはありません。

生きた水をあなたに与えるのは井戸ではなく礼拝なのだと。

複雑な人間関係のなかで人を傷つけたり、自分が傷ついたり、渇きを覚えたりしてきたあなたの心を真に潤すことができるのは井戸の水ではなく、このわたし、救い主イエス・キリストの御言葉なのだと。

そのように話をつなげて理解することが可能であると思われるのです。

ここでわたしたちのことを考えてみることができそうです。五回も結婚を繰り返したことはありませんとおっしゃるかもしれません。しかし、複雑な人間関係に苦しんだり悩んだりして来た方は多いのではないでしょうか。

そのときに、です。わたしたちは、そのような問題をどのような仕方で解決してきたでしょうか。最初の人間関係が崩れました。それによってわたしの心は深い傷を受け、渇きを覚えました。わたしはこの渇きの苦しみから逃れたいです。そのような願いを抱いた人が次にとる行動は、何でしょうか。

わたしの心を潤してくれる次の新しい人間関係を探すこと。それももちろん大事なことです。しかし、おそらくわたしたちの多くが体験的に知っていることは、そのようにしてたどり着いた次の新しい人間関係の中にも別の問題が潜んでいたというようなことです。「前よりはましである」という比較級の考え方はありうるでしょう。しかし、わたしたちの多くがまだそれを体験したことがないゆえに知らない事実は、「前はめちゃくちゃだった。しかし、今は完璧である」ということでしょう。

そう、わたしたちが知っている単純な事実は、完璧な人間関係などどこにも存在しないということです。人間同士の関係の中で完璧主義を要求する人は、どこに行っても居たたまれない思いに苛まれるでしょう。

全く開き直ってしまうなら、そもそも人間同士の関係改善という点だけであらゆる問題を解決しようとすること自体に無理があると言わざるをえないのです。それはなぜなのか。そのようなときに限ってうっかり忘れてしまいそうになることは、他ならぬわたし自身が何ら完璧でないという事実です。

「わたしは人間関係に傷ついている」と考えているあなた自身にも罪があるという事実です。もしかしたら今の人間関係を悪いものにしてしまっている原因は実はあなた自身であるということも考えてみなければなりません。

しかし、です。今わたしが申し上げているような方向で話を進めていくときにしばしば至る結論は、「現状で我慢しましょう」というものだったりします。

相手にも罪があるかもしれないが、あなたにも罪がある。文句を言いたいのはあなたのほうだけではなく、相手も文句を言いたいのだ。だから喧嘩両成敗。お互い様。あいこ。引き分け。

このような解決の仕方は、時と場合によっては知恵深いものでもありますが、非常に抑圧的なものでもあります。現状で我慢しなさい。忍の一字で耐え抜け。人生は修行である。

これをわたしたちは「解決」と呼ぶことができるでしょうか。少なくとも私には、それをそう呼ぶことは無理です。私が申し上げたいことは、そのようなことではありません。

ならば、どういう仕方であればそれを「解決」と呼ぶことができるのでしょうか。一つの人間関係に敗れました。だから別の新しい人間関係を探します。そのようにわたしたちが考えることは当然のことであり大切なことでもあると私は信じています。

しかし、その別の新しい人間関係を探す際に重要なことがあります。ただし、ここで私は、話を大きく飛躍させます。論理的にはつながっていないかもしれません。そうであることを自覚しながら、あえて申します。

新しい人間関係に必要不可欠な要素は「礼拝における、神との関係」という次元です。新しいパートナーとこのわたしとの間に神という方が介在してくださることにおいて成り立つ関係です。

その相手もこのわたしも何ら完璧でないし、罪深い人間であるにもかかわらず、神という完璧な方が真ん中に割って入ってくださり、両者に対して神が恵みと憐れみに満ちた態度をとってくださることによって、両者の関係を正しく健全なものへと導き続けていただける、そのような新しい人間関係です。

その新しい人間関係もまた壊れうるものではある。しかし、そのたびに、神という方がまさに真ん中に介入してくださることによって、割れ目や裂け目を修復し続けていただける、そのような人間関係です。

重要なのはその要素です。短く言えば、「共に礼拝をささげる」という要素です。それがあるかないかで人間関係はがらりと変わります。そのことをわたしたちキリスト者は体験的に知っているのです。

これから申し上げることは、「ぜひ試してみてください」という意味で言うのではありません。むしろ「ぜひ試さないでください」と言っておきます。あくまでも参考までに申し上げることです。

それは、わたしたちもまた、土曜日の夜であろうと、日曜日の朝であろうと、夫婦喧嘩をすることがありうるという話です。「ぜひ試さないでいただきたい」ことは、そのように喧嘩なさったままの状態で、そのお二人で礼拝に出席してみてくださいということです。帰りがけにはけろっと仲良くなっているというケースをわたしたちは何度となく体験してきているのです。

喧嘩はしないほうがいいです。喧嘩しないでください。しかし両者が激突することはありうることです。そのときに礼拝が「解決」をもたらすのです。そのように信じていただきたいのです。

実際にそのような体験を多くの夫婦が味わってきました。もちろん夫婦の話だけに限定すべきではないかもしれません。しかし、これがいちばん分かりやすい話ではあります。なぜなら、結婚とは神の前での約束なのですから。夫婦喧嘩をやめること、仲直りすることの最も良い解決策は、二人で神の前に立ち戻ることです。

今日は夫婦喧嘩の解決法は何かというような話になってしまいました。脱線のようでもありますが、重要なこととしてお聞きいただけましたなら幸いです。

今日の個所でイエスさまは弟子たちに「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)と言われ、また「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)と言われています。何のことだかさっぱり意味が分からない、とお感じになる方はおそらく多いでしょう。しかし前後の文脈から考えれば、イエスさまのおっしゃっていることは明白です。

色づいて刈り入れを待っている畑とは、この女性が住んでいたシカルの町のことであり、またその町を含むサマリア地方全体のことです。そして色づいているのは、この女性自身であり、この町の人々です。この人々がこのわたし、救い主イエス・キリストを信じるようになり、キリストの御言葉が響き渡る、霊と真理をもって行われる、礼拝へと招き入れられること、それが刈り入れであり、収穫です。

イエスさまがサマリアに行かれた目的は、このわたし、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きるようになる人々をお探しになることでした。そのためにイエスさまは父なる神から遣わされたのでした。その仕事をなさること、成し遂げられることのためにイエスさまはこの町までいらっしゃったのです。

弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と言ったときにイエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とお答えになった意図として考えられることは、ごく分かりやすく言えば、「わたしは今とても忙しいのだ。食事などとっている場合ではない。わたしが食べたいのはこの町であり、この人々である。ここにいるみんなが神の救いにあずかり、このわたしと一緒に礼拝をささげるようになることだ。そのことが実現すること。それがわたしの満足であり、おなかいっぱい、満腹なのだ」というあたりのことです。

無理やり結びつけるわけではありませんが、先ほどまでお話ししてきました結婚のこと、夫婦のこと、あるいはもう少し広く言って人間関係のことの中でも、満足とか満腹ということがありうるとしたら、それは、食事の内容とかいわゆる金銭的な事柄などの次元だけで語り尽せるようなことではないはずです。そのようなことが重要でないと言っているのではありません。しかし、それだけではないでしょう。

わたしたちには、三度の食事よりも楽しいことがあり、夢中になることができるものがあります。それが教会であり、礼拝であり、信仰なのです。わたしたちにとってはこれが趣味以上であることはもちろんのこと、仕事以上のものでもあるのです。

(2009年5月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年5月16日土曜日

自作パソコンのすすめ

パソコンが壊れて(<~を壊してみて)改めて思うことは、メーカー品のパソコンを使うのはもうやめた、ということです。



メーカー品のパソコンの「セコさ」については、何台かバラした経験があるので、ほぼ確信をもって言えます。とくに典型的にソニーのVAIOには、「素人に中身をいじくらせてなるものか」というたぐいの企業防衛思想が徹底している様子で、自分で直そうとする人間を妨害する仕掛けが至るところに散りばめられています。



より具体的に言えば、至るところで金属とプラスチックが絶妙に噛み合わせてあって、素人が中身を見ようとして蓋を開けようとしても、プラスチック部分を破壊しないかぎり侵入できないようになっています。つまり、自分で蓋を開けると、確実に「破損品」になる仕掛けです。



また、詳しくは分かりませんが、OSやアプリケーションなども自分ではいじくれないように、いろいろと仕掛けを潜ませているように感じられます。あるところ以上に進もうとすると「素人お断り」とシャットアウトされるようなところがあります。



そういうことが分かってきましたので、私はもう、これからは「自作パソコン」一筋で生きることにしようと思うに至りました。



パソコンにトラブルはつきものなのですから、トラブルが起きたときに自分で直せる仕組みを作っておかないかぎり、企業のボッタクリに遭うだけです。



今や、パソコンなんてプラモデルを作るのよりも簡単ですから。



客観的に見ればガラクタ置き場なので

パソコンクラッシュの件で、バックアップをしていたのかとご心配くださった方が複数おられますので、追記の必要を感じました。



松戸小金原教会の公的文書類(週報、月報など)や中会関係のデータにつきましては教会のパソコンのほうに記録していますし、すでに終了した説教や講演などの原稿につきましては基本的にすべてブログにアップしてきましたので、このあたりのことは全く問題ありません。

つまり、このたびの自損事故によってたとえすべてのデータが消失したとしても、何らかの責任問題のようなことへと発展する可能性はゼロです。このあたりのことはご安心(?)ください。

私にとっての大問題は、まだ表に出していない、書きかけの原稿とか、日本語になりつつある訳稿のたぐいの行方です。

こういうのが私の場合、山ほどあります。たぶんそれは私だけの特殊事情ではなく、多くの牧師たちも似たような事情ではないでしょうか。

善く言えば、それを磨けばもしかしたら光り輝く宝石になるかもしれない(ならないかもしれない)原石を掘り出していく石切り場のような場所、それが私のノートパソコンです。

悪く言えば(というか事実をそのまま言えば)ガラクタ置き場であり、ゴミの山です。

ですから、一つの考え方からすれば、「消えたのではない。最初から無かったのだ」と思えば済むようなものでもあるわけです。

それは、言ってみれば、私の思索のプロセスを断片的に(しかし私なりに精密な検証をしながら)書き留めているだけのものですので、いずれにせよ私の死後には不要になるものです。

気楽といえば気楽。こんなに呑気なことを言っていてよいのだろうかと思わなくはありません。



ちなみにこの文章は長男のパソコンを借りて書いています。これは本体2万円とちょっとの費用で私が自作したデスクトップパソコンですが、性能はびっくりするほど優れています(「Intel Atom プロセッサを使用したMini-ITX機です」と書けば、分かる人には分かっていただけるでしょう)。



もしノートパソコン(VAIO)本体の修復が不可能と判明した場合は、同じようなのをもう一台、自作しようかと思っています。部品を揃えさえすれば、組み立てそのものは一時間足らずで終了します。



2009年5月15日金曜日

日記「ついに犠牲者(人ではないので同情無用)」

要点を申せば、私のノートパソコンVAIOが、ill in bedです。

いびきかいてねています。というのはウソで、ぶっ壊れてしまいました(ぶっ壊してしまったのは私です)。昨日の朝のことです。

その前の夜に松戸小金原教会で行われた東関東中会伝道委員会のとき、手元にノートパソコンを置きました。

委員会終了時刻が午後9時半すぎ。遅い夕食をお腹におさめたのは午後11時半すぎ。布団にもぐったのがいつだったかは憶えていません。

これが悪かったのだと深く反省していることは、とにかくひどく疲れたので、ノートパソコンを伝道委員会終了後もそのまま置きっぱなしだったことです。

で、その翌朝(それが昨日の朝)、午前10時半からその同じ部屋で祈祷会が行われるため、前の夜から置きっぱなしだったそれを片付けようとしたとき、「あ!」と手からすべり落ち、約1メートル下の床に落下。フローリングのすぐ下はコンクリートという固い床に激突。鈍い音が聞こえました。

その瞬間は、まさにスローモーション。ノートパソコンは開いたまま、横向きに落ちていきました。それが置かれていた事務机をはさんで私が立っているのとは反対側のほうに落ちたので、机より下は私の視野の外。視界から消えていくとき、オカルトには全く興味がない私の前で、そいつのモニターに悲しそうな人の顔が現われ、私に「さようなら」と別れを告げた気がしました。私の顔が一瞬映ったのかもしれません。

その後は松本零士的な音がするは(いわゆるドテポキグシャというやつですね)、DVDのディスクドライブは「バキョッ!」と上向きに飛び出るは、モニターのフレームは歪んで外れるは、ネジ類のいくつかは飛び散るは、43年間の人生が走馬灯のように脳裏をかけめぐるは。

手を滑らしてしまった原因は分かっております。3週間くらい前から右の肩・腕・手首あたりに激痛があり、また右手の人差し指に強い痺れまであって、現在整形外科に通っており、毎日痛み止めの薬や筋弛緩剤などを大量に(医師に言われたとおりに)服用しております。その右手でパソコンを持ってしまいました。握る手にうまく力が入りませんでした。

本日修理に出したところ、最悪の場合、データレスキューもままならず、本体は廃棄となるかもしれないことが判明しました。私にとっては結構高い買い物だったので二年ローンで購入し、先月やっと払い終わってほっとした矢先の惨事。

データレスキューだけで3万5千円なり。結果の判明は来週の木曜日です。店員さんからは「全部取り出せるかどうかは分かりません。一つも取り出せなかった場合は3万円をお返しします。5千円はハードディスク調査費です」と言われましたが、「お金など返していただかなくて結構ですから、データを助けてください。汗と涙の結晶なんです!」と半泣き状態でお願いしました(半泣き状態はウソ。セリフはほぼ事実)。

この文章をしたためているパソコンは教会の執事室用のものを借用しています。パソコンそのものは、昨年12月のオランダ旅行のために「壊れてもいいようなもの」としてヤフオクで1万円で落札したものも持っていますが、あまりにも遅くて重いものですし、何よりデータが入っていない「空箱」です。空箱がいくらあっても、仕事という観点からいえば、何の役にも立ちません。

今夜もひとり、自分にむかって弱音ばかり吐いております。この文章を入力している最中も、人差し指の痺れがひどく、思うように打つことができません。

おい、人差し指くん、ちゃんと仕事してくださいな。このクソ忙しいときに痺れてんじゃねえよ。

パソコンは買い替えりゃ済むけど(高いけど)、キミはお金じゃ買えないんだから。


2009年5月11日月曜日

リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー

他に思いつきませんでしたので、かなり大げさな表現になってしまいました。実態を表しえているかどうかは不明です。私が管理している二つのウェブドメイン(reformed.jpとprotestant.jp)のもとにあるすべてのブログの「トップページ」を作りました。そのトップページに「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」(Reformed / Protestant Web Library)と命名しました。以下の四つのアドレス(URL)のいずれからでもアクセスできるように設定しました。表示内容は同じです。無料のブログサービスを利用していますので広告がついてしまいますが、さほど気にならない程度です。



http://reformed.jp/
http://www.reformed.jp/
http://protestant.jp/
http://www.protestant.jp/



ひそかに願っていることは、「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」のアドレス(URL)を「ホームページ」(※ブラウザを立ち上げたときに最初に表示されるページ)としてご利用いただけるようになることです。



私は長らく、プロバイダ会社のホームページを自分のブラウザの「ホームページ」にしてきましたが、それがだんだん嫌になってきました。読みたくも知りたくもないようなありとあらゆる情報がわんさか詰め込まれ、「読め!知れ!」と押しつけてくるからです。パソコンにスイッチを入れるときのほとんどは「さあこれから仕事だ」という場面なのですから、そういうときに、気が散って仕方がないような画面はなるべく見たくないものです。しかし、「自作トップページ」みたいなのが毎回立ち上がるのも何となく恥ずかしい(マニア的すぎるというか)。



パソコンにスイッチを入れてブラウザを立ち上げるとまず最初に開くページは、できるだけ公共性があって、なおかつ心の落ち着くものが良い。そのような思いを込めて作った「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」です。



「このページをホームページにする」ためには(Internet Explorer 8の場合):



コマンドバーの「ツール(O)」→「インターネットオプション(O)」→「全般」タブの「ホームページ」の空白に上記四つのアドレスのいずれかを記入する→「OK」ボタンを押す。



2009年5月10日日曜日

ここで本物の礼拝をささげよう


ヨハネによる福音書4・16~30

「イエスが、『行って、あなたの夫を呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」

今日お話ししますのは先週の続きです。イエスさまはエルサレム方面からガリラヤ地方へと行く道の途中に通るシカルという町で立ち往生なさいました。なぜ「立ち往生」なのかと言いますと、「座っておられた」のは真昼の炎天下、喉が渇き、体が動かなくなられた可能性があるからです。一種の脱水症状のような状態になっておられたかもしれません。

そこでイエスさまがなさったことは、井戸に水を汲みに来ていた女性に「水を飲ませてください」と願われることでした。ところが、です。この女性は「はい、分かりました」と二つ返事では了解してくれなかったというのが先週の個所に記されていたことです。

このたび私はイエスさまと女性のやりとりを何度も読み直してみました。それでやっと分かって来たことは、このやりとりは口喧嘩であるということです。女性は明らかに腹を立てています。イエスさまのほうも火に油を注ぐようなことをおっしゃっています。最も悪いパターンです。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)という女性の問いかけの意図は、イエスさまの申し出をやんわりと断ることです。「あなたに飲ませる水はありません」と言っているのです。

それに対してイエスさまがおっしゃっていること(10節)は、頭を下げてお願いするのは本来ならばあなたのほうですということです。普通の耳で聞けば冗談か脅しのどちらかです。もしこれを(水戸黄門の声で)笑いながら言えば冗談になりますが、(助さん格さんの声で)「ひかえおろう。このわたしを誰と心得る」と言えば脅しです。

女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちでない」(11節)と言っています。子どもでも、遠足の日には水筒ぐらい持っていくでしょう。イエスさまは水筒も持たずに旅をしておられたのでしょうか。もしそうだとしたら致命的な準備不足です。あまりにも子どもじみています。そのような人をこのわたしがなぜ助けなければならないかという思いも、女性のうちにあったかもしれません。

「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この水から水を飲んだのです」(12節)という言葉に至っては、彼女はほとんど激怒しています。彼女が言いたいことは、あなたはこの井戸を馬鹿にしているのですかということです。

イエスさまは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(13~14節)とおっしゃいました。その言葉に彼女は腹を立てているのです。何百年、何千年という歴史を通してこの町の人々を養い育んできた水を供給してきたこの井戸をあなたは馬鹿にするのですか。この井戸を最初に掘り当てた偉大な人ヤコブよりもあなたは偉いのですか。そこまで言うなら、あなたも今すぐ別の井戸を掘ってみなさいと。

これこそが「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)という彼女の言葉の意図です。この言葉はイエスさまへの従順を表しているのではありません。全く逆です。この井戸に来なくてもいいように別の井戸をあなたが今すぐ掘ってください。やれるものならやってみなさいと言っているのです。ほとんど喧嘩腰で、最大限の皮肉ないし嫌味を言っているのです。

そして、このやりとりが、今日の個所につながっていきます。

イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。イエスさまがなぜこのようにおっしゃったのかが、これまではよく分かりませんでした。しかし、これはどうやら口喧嘩であるということがこのたびやっと分かりましたので、夫を呼んで来なさいとおっしゃった意味は何かがようやく分かりました。あなたとわたしがこれ以上言い合っていてもらちがあかないので、話の分かる人を呼んで来なさいという意味です。責任者を呼んで来なさいということです。そのように理解すれば、話がスムーズに流れていくでしょう。

ところが、女性の返事は「わたしには夫はいません」というものでした。それは嘘ではなく事実でした。ただし、単純ではなく複雑なものでした。そうであることをイエスさまが見抜かれました。「『「わたしには夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない』」(17~18節)。

ここでしばしば出される疑問は、イエスさまがなぜ、この女性に五人の夫がいたという事実をご存じだったのかというものです。解決策は大きく分けて三つあります。第一は、イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。第二は、イエスさまはこのシカルの町に初めて来られたわけではなく、何度も来られていたので、女性の事情くらいはあらかじめ町の人々から聞いておられたに違いない。第三は、「五人の夫」は比喩であり、サマリアにある神さまや宗教の数のようなことだったに違いない、です。

私はこの三つともあまりすんなりとは受け入れることができませんが、強いてひとつ選ぶとしたら、第一の見方を選びます。イエスさまは神の御子なのだから何でもご存じだったに違いない。

しかし、このイエスさまのお言葉の中で重要な点は、彼女の夫がかつて何人いたというその数をずばり当てることがおできになったということではないと思います。重要な点はそこではありません。重要なことは「あなたには複数の結婚経験があり、しかも、今連れ添っているのは夫ではない」という点です。

この点がどのような意味で重要なのかということを今ここで私が詳しく説明し始めますと、いろいろと差しさわりが出てくることを覚悟しなければなりません。今の時代の中では単純な家庭環境の中にいる人のほうが少ないと言えます。複雑な家庭環境の中にいる人々のほうが多い。そのような人々を不愉快にさせるようなことを言いたくありません。

しかし、です。かなり公平な目で見ようとしても、結婚を複数回繰り返し今連れ添っているのは夫ではないというこの女性の姿を思い浮かべながら、「このような生き方も彼女の人生だから、他人からとやかく言われる筋合いにない」というようなことだけ言って済ませるわけには行かないものも感じます。

もちろん女性だけの責任にすることはできません。男性の責任も重大です。しかし、どちらが悪いという話は、たいてい水掛け論に陥ります。そして今ここで問題になっているのは、この女性の問題です。彼女の側にも問題があったということです。そのことをイエスさまは「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われていることの中で、はっきりと指摘しておられるのです。

イエスさまが指摘しておられるのは、それはあなたの問題だということです。結婚を繰り返すこと、今連れ添っている人とは結婚していないことが良いことなのか悪いことなのか、失敗なのか成功なのか、幸せなのか不幸せなのかという話に直接結びつけることを私はしたくありません。そういうことを私に聞かないでください。答えることができません。

しかし一つだけ言っておきたいことがあります。それは、イエスさまが彼女のいわゆる私生活の問題を指摘なさった直前にイエスさまが「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃったことは、決して無関係ではありえないということです。おそらくこれは別に我が家だけの問題ではなく、おそらくすべての家庭、すべての夫婦にも当てはまることだと思います。わたしたちの家庭そのものは、夫婦の関係そのものは、毎日井戸から水を汲みあげなければ、すぐにでも渇いてしまうような関係なのだということです。しばらく放ったらかしておいても大丈夫、というようなものではありえないのです。

だからこそ、毎日毎日、渇きを覚えるたびに、一人の相手のために、同じ家族のために、水を汲んでこなければならない。それが本来のあり方です。

しかし、この女性がたどって来た道はそれとは違っていたようです。その責任が彼女の側にあったのかそれとも男性側にあったという点はともかく、彼女の生き方は「今の相手に渇きを覚えたら、次の相手を探す」というようなあり方だったのではないでしょうか。ここにこの女性の問題があるのだと、イエスさまは指摘されたのです。

時間が無くなって来ましたので、話を先に進めます。女性は、イエスさまの鋭い指摘に触れて、この方は「預言者」であると考えました。うんと俗っぽく言えば、この人は宗教関係者であると。要するに牧師のような仕事をしている人だと分かりました。そのことが分かった彼女は、ここで話題をくるりと宗教のはなしに切り替えます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

この言い方もまだ、先ほどからの口喧嘩が続いている状態のものだと思ってください。サマリア人とユダヤ人の違いを説明しようとしているのですから。あなたがたの総本山はエルサレム神殿ですよね、わたしたちはゲリジム山ですよと。

しかし、この場面でイエスさまがものすごく重要な言葉をお語りになります。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)。

イエスさまがおっしゃっているのは、次のことです。ユダヤ人とサマリア人の違いなど問題にならない新しい場所で新しい礼拝が始まる。今ここでそれが始まるのだということです。地理的な場所そのものは問題ではありません。エルサレム神殿で行われなければ、ゲリジム山で行われなければ、それは「本物の礼拝」ではないというような話は、今日で終わりである。今あなたの目の前にいるこのわたし、救い主イエス・キリストがいるところならどこでも、本物の礼拝をささげることができるのだ。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)と言われたことは、水の話ではなく、これは礼拝の話であるということが、彼女にだんだん分かって来たのです。神の御言葉を告げる説教、賛美と祈り。それが行われるのが礼拝です。礼拝こそが、わたしたちに永遠の命を与える永遠の泉なのです。

(2009年5月10日、松戸小金原教会主日礼拝)

もちろんそれは容易なことではありえない

しかし、私は決してそれを容易なことと考えているわけではありません。



今に始まったことではないと思いますが、43年ほど生きてきた者がこの国に見てきた比較的新しい動きは、「どんなものであれ一つの『キャラ』(キャラクター)としてとりあえず受け入れ、殺しもしないが生かしもしないで泳がせ、ギャグかお笑いのネタでありうるかぎりにおいて限定つきの役割を果たさせ、稼げなくなった時点で表舞台から引きおろし、市井に戻す」というような《政策》でしょう。「デブキャラ」然り、「大食いキャラ」然り、「毛薄キャラ」然りです。



キリスト者に対する表立った弾圧のようなものは、もはや無いかもしれない。しかし我々はいわば「クリ(クリスチャン)キャラ」扱いです。私などはさしずめ「牧師キャラ」扱いでしょうか。



あるいは、たとえばもしファン・ルーラーの本が本格的に日本で出版される日が来ても、当面は「いろものキャラ」扱いでしょう。「喜びの神学」とか言っているかぎりにおいては、ある程度面白がってくれる。しかしファン・ルーラーその人は「いろもの」扱いなどで済ませられるような存在ではありません。歴史的過去と同時代の世界的巨匠たちを相手に、実に堂々と闘い抜いた人なのです。そのあたりの事情と迫力を我々が日本の社会と教会にどのように伝えるべきかも、悩みどころです。



もちろん!新規チャレンジャーが最初から十分かつ正当な評価を受けられると望んではならないことは分かっているつもりです。たとえサブカル扱いされようと、独自キャラ扱いされようと、全く無視されたり抹殺されたりするよりはまし、という《政治的》判断もありうると思います。



しかし、忸怩たる思いというか、我慢比べというか、どうにも表現しがたい疲労感があることは否定できません。まさに気力との戦い、自分との戦いです。



2009年5月8日金曜日

どうしたら道は開けるか(7)

当時の感覚を言葉にしていえば(どう表現しても誤解を避けることはできそうもありませんが)、次のような感じになります。



「私が信じていることを学校の教師や友人の前で口に出しても絶対に理解してもらえないことは、分かっている。けんかと暴力は大嫌いだし、トラブルに巻き込まれたくないから、黙っていよう。それに、私が教会に通っているということを口にしたばかりに、『なんだ。アーメン、ソーメン、冷ソーメンかよ』とか相手に言わせてしまうのは、そういうことを言っているその人々に神を冒涜させてしまうことになるので、かわいそうだ。しかし私の神が私を応援してくれている。私自身は少しも揺らぐこともぶれることもない。とはいえ、こちらとしては、いつまでも黙っているのも不本意だ。私の心の声、『キリスト者の声』(vox christiani)をどうしたら公の場で自由に述べることができるようになるのか。それを知りたい。」



私が「どうしたら道は開けるか」だ「ブレイクスルー」だ言っていることのすべては今書きとめたばかりの少年時代に抱いた問いの答えの求め方は何なのかにかかっているということに、気づかされます。一般化していえば「信教の自由の要求」です。要するに私は、ほとんど40年前から、同じ一つの問いの前でうろついたままなのだということです。



ここで本当は「愕然と」すべき場面かもしれませんが(おまえの精神年齢は低すぎるという事実を突き付けられたわけですから)、わりと「平然と」しています。事の真相からいえば、たとえばもしこの私が「マイノリティ」でない者になり、良い意味でメジャー化(?)する日には、古い日本はもはや形を失い、ほとんど「革命的」と言いうるほどの変容を遂げているはずです。



なぜなら、私自身は揺らぐこともぶれることもありませんから。



私は動きはしません。もし動くとしたら、この国のほうです。



どうしたら道は開けるか(6)

たしか5歳のときです(1970年!)。私の目の前を聖餐のパンと杯が通過していく。まるで逃げていくとんぼを追いかけるかのような目でそれを見た日のことを、今でもまざまざと思い起こすことができます。「おい、こら、おれを無視するな!おれは毎週教会に通っているのだし、この聖書の神を信じることはやぶさかではないと思っている。そのおれに、この集団のメンバーである以外の何でありうると言わせたいのか」という感覚を抱きました。



もちろん当時はまだこのような説明表現を用いることができませんでしたが、とにかく非常にむかっ腹が立ちました(あの小さなパンそれ自体が欲しかったわけではありません)。そして居ても立ってもいられなくなって牧師のところに行き、もしかしたら相当強い抗議めいた口調で(内心の意図は間違いなく「抗議」でした)「洗礼というのを受けさせてください」と申し出、小学校入学前のクリスマス(1971年12月26日)に洗礼を受けました。



しかし、言うまでもないことですが、当時の私に「キリスト教が何であるか」を十分な意味で理解できるはずはない。実感としては、この私は「教会」なるもののメンバーであるということだけであって、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。自分の所属する「教会」とは何なのかを言葉で説明することはできません。しかし、「教会」とは何なのかということは、感覚的実体としてははっきり分かっていました。ラテン語表現で言い直せば、教会の壁(muros ecclesiae)の「外」(extra)と「内」(intra)の違いが肌感覚のレベルで分かる。しかし、このようなことは別に、私の特殊能力のようなものではありえず、この国でキリスト者の家庭に生まれ育った人々の多くが知っている感覚なのだと思います。



しかし、です。少年時代の私がまさに肌感覚レベルで理解していたことは、「教会」はこの国の中で「マイノリティ」であるということでした。そして「教会」は、その中にいるかぎりにおいてはとても居心地の良い場所でした。良い意味での矜持をもつことができました。教会の「人間関係」に居心地の良さを感じたことはありませんでした(たぶん一度も)。牧師の説教は、むしろ居たたまれない気持ちにさせられるものでした(説明省略)。



どうしたら道は開けるか(5)

「どうしたら道は開けるか」と書いてきましたが、自分の中ではだんだん馬鹿らしくなってきたところもあって困っています。「道は開いていない」などとは実は少しも感じていないもう一人の私がいたりしますし、ブレイクスルーの手段はインターネットであるなどと実は全く思っていない私がいたりする。



私が受けたと自称する「底値教育」は(もちろんこの表現は100%冗談ですが)事実ですし、「教団離脱者」であることも「普通の牧師」であることも事実です。しかしそのすべては間違いなく自分の強い意思で選んだものでした。これまでの自分を振り返ってみて改めて気づかされることは、私が歩んできた道のすべては誰かに決めてもらったものではないと言えるということです。



しかしそうは言いましても、自分では決めることができない要素も、人生には当然あります。たとえば、「1965年に生まれたこと」などは典型的なそれです(この文脈では「昭和40年」と言いたい)。



戦後20年。日本の歴史の中の「古いもの」と「新しいもの」が渾然としていた時代でした(自宅の前の道に初めてアスファルトがひかれたときのことを記憶しています)。その中で「古い日本」にとってはまさしく《対極》の位置に立つ空間・時間・思想・行動をもつ集団の中にどうやらこの私は所属しているらしいと、もちろんそのような説明表現を用いてではありませんでしたが、感づいたのは、まだ幼い頃のことでした。



2009年5月5日火曜日

どうしたら道が開けるか(4)

さて、ひどくネガティヴなことを書き連ねて来ましたが、私自身は絶望しているわけではないということも書いておきます。ブレイクスルーの鍵は、やはりインターネットではないでしょうか。つい最近、茂木健一郎氏の「ブログ論」みたいなのを読み、ちょっとした興奮を覚えました。



ここ(↓)で読めます。



前編 http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2007/03/post_4ad8.html



後編 http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2007/03/post_c73c.html



これを読むまで知らずにいたために吃驚仰天したことは、「え?茂木氏ほどの人がブログなんてやってたの?」ということでした。この驚きの意味はお察しのとおり、この方、語ったり書いたりする言葉のすべてが有料化しうるほどの有名人であるのに、無料で読める文章を公開しちゃったりしてたんだー(へえ)ということです。



なかでも、「そーそー」と肯きながら読んだ茂木氏の言葉は、「そんなに甘いもんじゃないですよ、ブログというものは」 とか「読者を獲得するプロセスというものは、すごく長い時間がかかるわけです」というあたり。



私の当面の(「当面の」です)目標は、要するに、どうしたら日本語版『ファン・ルーラー著作集』を出版できるかです。



(1)そのために、まずは「ファン・ルーラー」の名前を売ること。すなわち、「んな人、知らん」と言わせないほど、ファン・ルーラーを日本の中で有名人にすること。



(2)それと同時に、「ファン・ルーラーの訳者」として立候補してきた「関口 康」を信頼していただくこと。すなわち、「底値教育」を受けてきた「教団離脱者」でもある「普通の牧師」の私のしている仕事に対して「こいつの訳なら金を払ってやってもいいかな」と思ってもらえるようになること。



以上の二点を達成するためにブログが役に立つのではないかと、私は茂木氏のブログ論を読む前から考えてきました。そして、この方の文章を読んで、我が意を得たりと満足感を味わっているところです。



ただし、ここで問題が二つ。第一は、現在の日本のキリスト教出版社が茂木氏のような発想を受け入れてくださるかどうかです。第二は、私がブログにこれまで書いてきたことは「信頼を得ること」にとっては逆効果なことばかりだったかもしれないよーということです。



今の私が考えはじめていることは、まず最初にブログ版『ファン・ルーラー著作集』(もちろん無料公開)を仕上げ、それを多くの方々に「立ち読み」していただいた後、それを本にして有料で売るという、いわゆる「ブログ本」の方式です。しかし、このやり方が神学書に通用するものかどうかは全く未知数です。



それでも、たしか渡辺信夫先生の『プロテスタント教理史』(キリスト新聞社、2006年)は、ブログではなかったはずですがどこかの教会のホームページで公開されていた文章をまとめたものだと聞いたことがあります。



つまり、前例はあるということです。しかし冒険的要素が強いやり方であることは認めます。渡辺信夫先生との決定的な違いは、「ファン・ルーラー」は(そしてもちろん「関口 康」も)日本では依然として「だれそれ?」な存在である、ということにあるのですから。



どうしたら道は開けるか(3)

しかし、私が抱いているこのポリシーには悪い面もあるということに、繰り返し気づかされてもきました。悪い面とは何でしょうか。それは、私がこのポリシーを保持し続けているかぎり、「牧師職はあくまでも牧師職なのであって、それ自体に固有の職務があるのであって、牧師職自体が研究職ではないし、また牧師職自体が教育職でもない」という見方を自分自身では払拭することができないということです。



私の経験から言わせていただけば、この見方こそが実はかなりのクセモノなのであって、わたしたちを相当悩ませてきたものでもあります。今は詳述するのを控えますが、これこそが「牧師の神学研究」を著しく阻害してきた要因であると断言できます。



別の表現でいろいろと言い換えてみれば、事柄のグロテスクさをよく分かっていただけるはずです。



「牧師職」を「研究職」からも「教育職」からも切り離して扱おうとすることは、「神学を営むこと(doing Theology)をもって生計を立ててもよい権限もしくは資格を有する者は、神学部・神学大学・神学校の教授職に就いている『神学博士』(Theological Doctor)ないしそれに準じる者に限ります」と言っているのと同じです。



「神学校から遠い地域の教会に仕えている、神学校で教える可能性のない(普通の)牧師たちは、今さら神学など学んでも無意味なのだから、そんな無駄でつまらないことを続けるのはおやめなさい」と言っているのと同じです。



当然のことながら、そのように語る人々の心のなかに思い描かれているイメージは、神学部・神学大学・神学校の教授ポストを中心とする“同心円”です。その円の中心(場所および人物)に物理的・距離的に近い教会のメンバーシップを取得することないしその牧師になることが、スゴロクで言うところの「アガリ」。「それ以外の(一般の?)教会員と(一般の?)牧師たちには、残念ながら“神学権”は認められておりません。どうぞお引き取りください」と言っているのと同じです。



「権限も資格もないのに強引に続けたいなら、どうぞご勝手に。ただし、マニア的趣味(「無資格者が営む神学」を指す揶揄)に熱中するのも程々にしてくださいね。それはあなたの現実逃避ですから」と言っているのと同じです。



どうしたら道は開けるか(2)

教育と研究の関係を「収入と支出の関係」という観点から見る。これはもちろん、かなり強めの皮肉を込めて書いていることです。この見方が事柄のすべてを物語りえているとも思っていません。



しかし、この観点から言うならば、「研究をサボっている教育者」は支出が少ない分だけ残金が多いわけですから、比較的余裕のある生活をしている可能性があります。逆に「教育職に就くことができない(就職先が見つからない)研究者」はゼロサム(プラマイゼロ)ないし借金生活でしょう。これはおそらく厳粛な事実です。



ここで起こるひとつの問題は、「牧師は教育職なのか」という点です。おそらく多くの人々は「教育職と見てもよさそうな面もあるかもしれませんが、たぶんそれだけではないでしょうね」というような、曖昧だけれど実態に即した答え方をするでしょう。「そもそも牧師は職業の名に値するのか」という問いさえ、日本では繰り返し投げかけられてきたわけでして。田舎の教会で「神学の研究と教育」とか言われてもねえと、あからさまな顰蹙(ひんしゅく)の目を見、つぶやきの声を聞いたこともたびたびあります(しかし、私自身が田舎の教会で「神学の研究と教育」の重要性を主張したわけではありません。間接的に“釘を刺された”のです)。



私が24歳と5ヶ月で伝道の仕事に就いて以来抱いてきたポリシーのようなものは、「牧師は教会の献金のみで生きるべきだ」ということでした。このポリシーが間違っていると言われるならそれまでのことですし、生活に窮する場面は多々ありました(苦しい状態であることは今も全く変わっていません)。しかし、「教会の献金だけで生きる」とは、教会の存在理由である「伝道」の仕事に百パーセント専念できるということですので、私の「自由」が百パーセント確保されている状態であるということです。いわゆる「ひもつき」のお金に振り回されたり悩まされたりせずに済んだことだけは幸いでした。



2009年5月4日月曜日

どうしたら道は開けるか(1)

「教育の場は自分の研究のはけ口」は確かにダメな発想ですね。学生たちが迷惑します。



ただ、今ふと考えさせられたことは、うんと世知辛くなりますが、教育と研究の関係は、その教育者≒研究者の「生計」という観点からみれば、収入と支出の関係のようなものではないだろうかということだったりもします。



今の世の中、研究だけで「食える」という人は、(スーパーエリートのような人のことは知る由もありませんが)ほぼ皆無でしょう。それどころか、ほとんどすべてが私費持ち出しです。



しかし、教育者には(多寡はともかく)支払いがあるでしょう。



教育職に就かないで研究を続けることの限界はお金です。ここですべてが足止めされます。ファン・ルーラー研究会の10年間の悩みも、結局「お金の問題」に集約されるものでした。



これを、これを、ブレイクスルーしなければ。



今の心境は、ほとんどマテリアリストです。



2009年5月3日日曜日

くめど尽きせぬ命の泉


ヨハネによる福音書4・1~15

「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくていいように、その水をください。』」

先週学びましたイエス・キリストのみことばは、たいへん抽象的で分かりにくいものでした。私の説明も悪かったと反省しております。

しかし、今日の話はとても具体的で分かりやすいものです。これは自信を持って言えることです。この個所に描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストと一人の女性との出会いの物語です。

これはわたしたちにも分かる話です。わたしたちは地上に生きられた歴史上の人物としてのイエスさまにお目にかかったことはありません。しかし、普通の意味での人と人との出会いの体験ならば、必ずあります。その体験が重要なのです。今日の個所を読みながらわたしたちの日常生活における出会いの体験のあの場面この場面を思い出していただいて結構です。そのような読み方が可能であると思われるのです。

最初の段落に記されていますことは、イエスさまとその女性との出会いが起こるまでの経緯についての事情説明です。しかし、内容的には興味深いことが含まれていますので、少しだけ立ち止まっておきたいと思います。

ここに書かれていることは、イエスさまが宣教活動を開始されましたので、イエスさまのもとに多くの人が集まるようになりましたということです。しかし気になるのは、2節に「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」という断り書きです。この断り書きの意味は、洗礼の儀式はイエスさま御自身ではなくイエスさまの弟子たちが行っていたということであると思われます。

しかし、だからといってその洗礼はイエス・キリストの洗礼ではなく弟子たちの洗礼であったと言わなければならないわけではありません。そもそも、たとえばペトロの洗礼であるとかヤコブの洗礼とかヨハネの洗礼というようなものは存在しません。「何々先生の洗礼」なるものは、そもそも存在しないのです。少なくともそのような洗礼をキリスト教会は行ってきませんでした。「いや、キリスト教にもいろいろある」と言われるかもしれません。少なくとも改革派教会では、洗礼に対するそのような考え方は到底受け入れられないものです。

洗礼の主体はイエス・キリストであり、イエス・キリストの体なる教会です。どれほど間違っても洗礼の主体は教師個人ではありません。儀式を行った教師が誰であれ、それが「イエス・キリストの洗礼」であることには変わりがないのです。この点がぐらつきますと、わたしたちの信仰生活は真の神への信仰によって成り立つものではなく、ただ単なる人間関係だけで成り立つものへと変質してしまうでしょう。

イエスさま御自身が洗礼の儀式を行われなかった理由は、ここには記されていません。しかし、すぐに思い当たります。「私はもろもろの弟子たちからではなく、イエスさまの手から直接洗礼を授けていただいた人間である」というような話が独り歩きし、そのような洗礼が何かある特別な意味を持ち始めるというようなことをイエスさま御自身が最も警戒なさったからに違いありません。そのような信仰のあり方は、本来のキリスト教とは最も遠いものであると言わなければなりません。

さて、イエスさまの弟子が増えてきたことが、ユダヤ教団の人々、とくにファリサイ派に属する人々の耳に入るようになりました。この「ファリサイ派」の人々は、バプテスマのヨハネのもとに遣わされた人々(1・24)の関係者であることは間違いありません。彼らは一種の警察権力であり、ユダヤ社会とユダヤ教団を脅かす存在が出てくることを絶えず警戒していた人々でした。その彼らの目から見れば、イエスさまとその弟子たちの集団は危険な存在に見えたようです。彼らが動き始めたことをイエスさまが察知なさいました。

もちろんイエスさまたちは何も悪いことをしていたわけではありませんので、逃げることも隠れることも必要ないだろうと言われるならば、なるほどそのとおりです。しかし、権力をもつ人々が自分たちに都合が悪い存在を闇から闇へと葬り去ることがありうることは否定できません。そのことをイエスさまはご存知でした。そのため、より安全な場所に身を移すことをお考えになり、ユダヤ教団の本拠地であるエルサレム神殿のある地域からは遠いガリラヤ地方に行くことになさいました。

ところが、です。ユダヤからガリラヤへ行く途中、イエスさまは、サマリアと呼ばれる地域を通らなければなりませんでした。ただし、「通らねばならなかった」(4節)の意味は、その道しかなかったということではないように思われます。道は他にもあります。しかし、イエスさまにとってできるだけ安全な道を選ぶとしたら、このサマリアを通る道が最適であったということでしょう。

なぜこの道が最適だったのでしょうか。それは9節に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれているとおりです。ユダヤ人はサマリア人を民族的・宗教的に差別していました。自分たちが忌み嫌っている人々が住んでいる町にも近づこうとしませんでした。ですから、サマリアの町を通ることがイエスさまにとってはユダヤ教団の人々の追跡を逃れるために最適な道であったと考えられるのです。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があります。それとは趣旨が異なるかもしれませんが、似たようなところもあります。しかし、わたしたちが考えておきたいことは、嫌いな人の住んでいる町には近づきたくもない、その人の家の前は通りたくもないというような心理状態はどのようなものだろうかということです。

同じ空気を吸いたくもない。その相手が地上に存在していることさえ許せない。そのように敵意や憎悪がエスカレートしていくことがわたしたちにも全くないとは言えないはずです。とはいえ、この場面では、ユダヤ人たちのサマリア人嫌いが結果的にイエスさまの身の安全の確保につながったようであることは、決して良いことであったとは思いませんが、皮肉であるとしか言いようがありません。

そのようにして、イエスさまは、ともかくサマリア地方を通る道を選択なさいました。そしてシカルという町に着きました。この地方は山坂険しいところでもありますので当然お疲れになりました。神の御子もお疲れになるのです。そして、シカルの町の井戸のそばに座りこんでしまわれました。女性がイエスさまと出会ったのは、この場所でした。

それは「正午ごろのことである」(6節)と記されています。なぜ時間のことが記されているかははっきりとは分かりませんが、それはおそらく、真昼間の出来事であったという意味でしょう。

つまり、太陽が真上から容赦なく地上を照らす灼熱地獄。そのときイエスさまは疲れと渇きの絶頂の状態であられたのだということが暗示されているのではないかと思われます。その状態のイエスさまが水を求めて井戸端にへたり込んでおられる様子は、想像すると何とも言えない気持ちにさせられます。「かわいそうだ」という言い方には語弊がありますが、なんとかしてあげたいような気持ちにもなります。

そこに女性が現れました。彼女は井戸に水をくみに来ました。その女性に対してイエスさまが「水を飲ませてください」とお願いなさったのです。「おい、水を飲ませろ」と強盗のように脅したわけではありませんし、上から命令なさったわけでもありません。哀れな姿としか表現のしようがないほど憔悴しきった中で水を求めておられるイエスさまの様子が目に浮かびます。違うでしょうか。

ところが、その女性は、ある意味で当然の、しかし、何となく冷たい感じもする言葉をイエスさまに投げ返しました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。

これがある意味で当然の言葉であったと申しましたのは、先ほども触れましたように、ユダヤ人はサマリア人を宗教的・民族的に差別していたからです。とくにユダヤ人の側がサマリア人を馬鹿にし、見くだしていました。そのユダヤ人であるイエスさまがサマリア人の女性に頭を下げてお願いする。それは明らかにタブーを破る行為でした。それは彼女の側からすれば、天地がひっくり返るほど驚くべきことであったに違いありません。

しかし、何となく冷たい感じもすると申しましたのは、目の前に現実に疲れきっており渇ききっている人が横たわっているのに、すぐには助けようとしないで、この私にそんなことをどうして頼むのですかと理屈を言って突き放しているようでもあるからです。

わたしたちならどうするだろうかと、ここでも考えておくことが重要です。嫌いな人や憎い人、敵対関係にある人が、目の前で困っている。そして、その相手が自分に対して頭を下げて助けを求めてきた。自分はその人を助けることができる力や技術を持っている。しかし、そこには単純に乗り越えることができない壁や障害がある。助けるべきか、立ち去るべきか。そのようなことで悩むことがわたしたちにもあるのではないでしょうか。

しかし、そのような場面でわたしたちは実際にどのようにするでしょうか。相手の出方次第であるという面があるかもしれません。頭の下げ方がまだ足りない。それこそ地面に這いつくばってでも願うなら、よし分かった、言うことを聞いてやってもよい、となるか。それとも、はいはい、どうぞどうぞ、となるか。

イエスさまは、この場面で何とも不思議なことを語り始められました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)。

「あれれ?イエスさまはお願いしている立場であるはずなのに、逆のことを言っているぞ」と思われても仕方がないようなことをおっしゃっています。しかし、このイエスさまの言葉が、このあと、彼女を救いに導くものになりました。「水を飲ませてください」から始まるなにげない会話をきっかけにして、この女性の人生に根本的な変化が起こりました。本当に渇いているのはイエスさまではなく自分自身であったということに彼女は気づきました。イエスさまがそのことに気づかせてくださったのです。

この続きは来週お話しいたします。

(2009年5月3日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年5月1日金曜日

カルヴァン、ゲットだぜ!

今年(2009年)は、宗教改革者ジャン・カルヴァンの生誕500年。日本でも各地で記念行事が行われています。



パーフェクトではありませんが国内と海外で今年行われる記念行事をほぼ一覧できる「カルヴァン生誕500年(2009年)関連行事カレンダー」を私が作成しましたので、これを見て「どれに参加しようかな?」と選んでいただけるとうれしいです。



すでに終了したものもありますが、まだまだたくさん残っていますので、すべての集会が多くの人で満たされますよう期待しています。



ちなみに私は、子どもたちに大人気の「ポケモン スタンプラリー」を真似て「カルヴァン スタンプラリー」を企画しませんかと一応提案してみたのですけどね。全国共通の「カルヴァンスタンプ」を作って全国の集会に設置していただき、「カルヴァンスタンプ帳」にたくさんスタンプを集めた人に「カルヴァンマスター認定証」を出しましょうと。



冗談だと思われたらしく即座に却下されましたが。ナニ、こちらは大真面目だったのですけどね。



ともかく今年を機に、日本におけるカルヴァン研究が盛んになっていくことを願っています。