2010年11月1日月曜日

宗教改革記念礼拝

今日は、宗教改革記念礼拝をおこないました。



「信じる者は幸いである」



ヨハネによる福音書20・24~31



http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2010-10-31.pdf (印刷用PDF)



「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」



今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。



全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。



なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ(※)、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。



しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。



ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。



わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。・・・



(この続きは「今週の説教」にあります。ぜひお読みください。)



※実際の説教では「明日11月1日はハロウィーンですが」と説明してしまいましたが、これは間違いでした。ハロウィーンは「万聖節の前夜祭」なので「今日10月31日はハロウィーンですが」と言わねばなりませんでした。お詫びして訂正いたします。事実関係を訂正したうえで本文からは削除させていただきました。