2010年11月3日水曜日

高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)

キリスト新聞の最新号(2010年11月6日付、第3161号)に今日、やっと目を通すことができました。第一面のトップ記事のタイトルが「『犠牲の論理』へ警鐘」とデカデカ。記事の内容は、高橋哲哉氏(東京大学教授)他による話題の書『殉教と殉国と信仰と』(白澤社)の出版記念シンポジウムのレポートでした。

残念ながら『殉教と殉国と信仰と』を、私はまだ手にしていません。「書評の依頼でも来ないかな?」と期待していたので自分で買わないでいたというわけではありませんが(でも「来ないかな?」)、先月末あたりの仕事ラッシュや、その中で遭ってしまった車上荒らし(私の目の前で起こった窃盗事件でしたが、長くなるので詳述は控えます)や、その他もろもろで、外出もままならず、書店に行く暇がなかったために、この話題の書にさえ手を伸ばすことができずにいた体たらくでした。

ですから、下に書くことはキリスト新聞の記事だけから純粋に受けた印象です。私が感じたことを一言でいえば、高橋哲哉氏の問いかけは真摯かつ全うなものであり、日本の全キリスト教会は氏の問いに真摯に応えなければならないということです。

「高橋氏は先のシンポジウムで、キリスト教が戦死者を殉教者としてみなしてきた歴史、殉教者の列福と靖国神社による英霊顕彰が持つ『構造的な同系性』、殉教者を尊崇することと神の愛の『絶対的無差別性』の関係などについて指摘した。(改行)講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、『贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない』との反響があったことを紹介し、『欧米の神学者の中にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではない』と反論。(改行)『殉教という行為が否定される』と懸念する声にも、『それぞれの人が迫害や強制によって追い詰められた状況で下した選択自体は到底否定できない』としながら、『非業の死を顕彰、賛美、美化すること、その死によって何かが購われたとして満足してしまうこと、殉教が模範的な死とされ見習うべきものとなることの危険性を改めて強調した。」(キリスト新聞、同上号、第一面)。

高橋氏は上記の問いかけ以外にもいくつもの重要な問題提起をなさったようですが、私は高橋氏が提起された問いかけのすべてに賛同の意を表明することができます。私自身が長年もやもやと感じてきたことを明瞭な言葉で適切に表現してくださったという思いです。設問内容がきわめて正当なものなのですから、「キリスト教」は、そして「キリスト教会」は、この問いかけに真摯な答えを出さなければなりません。

組織神学的な視点から見れば、高橋氏の問いかけの中には、実にたくさんの論点が含まれています。その中でも特に重要な問いは、「イエスの十字架上の死は贖罪の犠牲なのか」と「贖罪論なしには信仰が成り立たないか」の二つでしょう。

第一の問いに対して、私がすぐに答えられることは、イエスの十字架上の死は、たしかに贖罪の犠牲であるが、イエスの死をわたしたちの死と同列に並べて比較すること自体が間違っているということです。

イエス・キリストについての代々の教会の信仰告白は、「人間の肉をまとった永遠の神の御子」です。「贖罪論はキリスト教の核心だから譲れない」と言い張る人たちは、贖罪論と受肉論という二つの教説はドミノ関係にあるということについても決して譲るべきではありません。「永遠の神の御子の死」と、御子以外の「(普通の)人間の死」は、全く次元が異なるのです。

つまり、「イエス」は他の人間とは比較不可能なきわめて特殊な存在であり、その方の死は歴史上ただ一回かぎり起こった出来事であり、その出来事は決して反復されえないゆえに、イエスの死と他のすべての人間の死とを比較すること自体が、そもそも間違っているのです。

したがって、「殉教」や「非業の死」を「イエスの死に似ている」という理由で美化したり賛美したりすることは、神学的にいえば、完全に誤りです。

第二の問いに対して、私がすぐに答えられることは、結論からいえば、「贖罪論なしには信仰は成り立ちません」。しかし、このことを言いながら同時に言いたいことは、「贖罪論だけではキリスト教は成り立ちません」ということです。

贖罪論だけにまるで自らの全体重をかけてしまったようなキリスト教は、いびつに歪んだ形をしています。それは健全なものではなく、明らかに不健全であり、かつ限りなく異端的なるものに接近している様相を呈しています。

なぜなら、贖罪論の教義はキリスト教信仰の一部分にすぎないからです。キリスト教信仰は贖罪論だけで覆い尽くされているのではなく、少なくとも創造論と終末論があります。また、別の角度からいえば、キリスト教信仰はキリスト論(イエス・キリストの存在とみわざについての教説)だけで成り立っているのではなく、少なくとも神論(御父なる神についての教説)があり、かつ聖霊論(聖霊なる神についての教説)があります。

我々の神は三位一体です。経綸的三位一体論的にいえば、神は贖罪者なる方であるだけではなく、創造者なる方でもあり、完成者なる方でもあります。内在的三位一体論的にいえば、御子だけが神ではなく、御父も聖霊も神です。

したがって、もっぱら「贖罪論」の視点だけをまるでキリスト教の唯一の切り口であるかのようにみなし、イエスの死をまるで「人間の死のあるべき模範」であるかのように美化したり賛美したりすることは、これも神学的にいえば完全に誤りです。

キリスト新聞によると、高橋氏は次のようにも問いかけています。

「(高橋氏は)『殉教者自身が「喜んで死んでいく」ことに対しては違和感を禁じえない』と告白した上で、「国の英霊がお国のために『天皇陛下万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだとされているように、殉教者が神のために『イエス・キリスト万歳』と叫び歓喜に打ち震えて死んだ、と読めないか。イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか』と疑問を投げかけた」(同上面)。

この問いかけに対する即答は私にはできませんが、非常に興味深く、かつ真剣に考え抜くに値する、きわめて重い問いかけであると感じました。

続く