2010年11月23日火曜日

キリスト教倫理


世界で初めて結成されたキリスト教民主党「反革命党」の初代党首アブラハム・カイパー(Abraham Kuyper [1837-1920]、オランダ国会図書館所蔵)

■ はじめのことば

関口 康

「キリスト教倫理(Christian Ethics)とは要するに何なのか」という問題を考えていくために最も手っ取り早くかつ実りある方法は、もし自分の国に公党としての「キリスト教政党」なるものが存在し、その党に自分が(国会議員としてでなくても一党員として)所属しているとしたら、そのとき我々はどのような政策を現実に提案することができるだろうかとあれこれ思索してみることを置いて他にないだろうと、私は長年考えてきました。

社会の中で生きているキリスト者に常に問われているのは、その信仰に基づいて思い描かれる「人」と「国」のあり方を「政策」という具体的な形で提案できるかどうかです。それが不可能な場合には、その信仰はどこか抽象化しすぎているのです。

しかしまた、他方で、我々が日本国内でたとえば「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を云々することがどれほど困難で危険を伴うことであり、また、どれほど虚しさや惨めさが漂う取り組みであるかも、よく分かっているつもりです。

そして、そのようなものがわが国に生まれる可能性というような次元に至っては、どれほど早くても半世紀ないし一世紀以上先のことであるという点も明言しておかねばならないほどです。

しかし、国際社会に目を転じてみますと、「キリスト教民主党」を名乗る政党が世界80数か国に存在し、力強い活動を続けていることが分かります(「世界のキリスト教民主党一覧」参照)。なかでもオランダとドイツの「キリスト教民主党」は、現在の政権与党を担当していることで特に有名です。

これで分かることは、「キリスト教民主党」という具体的な形式をもってのキリスト者の政治参加(Christian Political Engagement)は、理論上の空想にすぎないものではなく、世界史の過去と現在において多くの実践事例があり、成功と失敗の歴史があるということです。

そして私がしきりに考えさせられていることは、日本におけるキリスト者の社会的発言と実践の目標は何なのかということです。どうしたらこの国の政治の場に、わたしたちキリスト者の声が、歪められることなく正しく届くのでしょうか。

「教会は政治問題を扱う場ではない」と語られることが多くなった昨今、それではキリスト者は、いつ、どこで、どのようにして政治に参加すべきでしょうか。

それとも、そもそも「キリスト者としての政治参加」(Political Engaging as a Christian)ということ自体がもはや無理なことであり、今日においては時代遅れであると言われなければならないのでしょうか。我々が「キリスト者として」立ちうるのはもっぱら教会の内部だけであり、せいぜい日曜日の朝の一時間だけである。社会と政治の場においては、中立者のふりでもして、自分の信仰を押し隠して立つというような、世事に長けた使い分けをするほうがよいでしょうか。あるいは、「素人どもは黙って手をこまねいていなさい。どうせ歯が立ちっこないのだから」というご丁寧なアドバイスに聞き従うべきでしょうか。

あなたに謹んでお尋ねしたいのは、このあたりのことです。

「キリスト教民主党」について誰かが、ただ《研究》するだけで、わが国にもそのような政党が即座に誕生するというようなことがたとえ奇跡としてでも起こりうるのであれば、誰も苦労しません。私自身はそのようなことは夢想だにしておりませんので、どうかご安心ください。

しかし、《研究》そのものは、誰にでも、そして今すぐにでも始めることができます。とにかく誰かが研究し続けているということが重要です。同じテーマについての先行の研究者たちを批判する意図などは皆無です。どのような協力でもさせていただきますので、お気軽にご連絡いただけますとうれしいです。

なお、このサイトはこのたび全く新規に開設したものというわけではなく、「ファン・ルーラー研究会」や「信仰と実践」(廃止)という名前のサイトで公開してきた政治ジャンルの情報提供サイトを引き継ぐものです。また、「改革派教義学」「キリスト教倫理」は姉妹関係にあります。両者の歴史的かつ思想的な相互関係は、そのうち明らかにしていきます。古くからお付き合いいただいている方々には、これからもお世話になりたく願っております。

2009年9月5日記す(2009年10月19日 サイト名変更)