2010年11月10日水曜日

「高橋哲也氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)」をめぐって

「高橋哲也氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)」を読んでくださった別の方から反応をいただきました。以下は私の返信文です。コンテクストは読者のご想像にお任せします。(ブログ公開用に若干編集しました)



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なんと、メールと説教の原稿を、ありがとうございました!



いやー、まあ、とてもよい説教だと思いましたよ。お世辞抜きで、ありがとうございました。



(1)まず文章上の表現の問題ですが(それが大事だと思っています)、「です」「ます」と歯切れがよいのが素晴らしいです。加藤常昭氏の影響を受けた人たちが皆、ケロロ軍曹みたいに「なのであります!」になっちゃうのがとにかくウザいと思っていました。「です」と二文字で書けるところをわざわざ「なのであります」と七文字(3.5倍)に引き延ばすわけですから、ああいう書き方は一種の水増し原稿ですよ。しかし、あれはまあ、加藤氏というよりは、さらにさかのぼったところの竹森満佐一氏の影響なのですが、正直、読んでいて恥ずかしいです。



(2)送ってくださった説教原稿は全体として少し長すぎるのではと感じましたが、教会の皆さんがこの長さで慣れておられるなら、私が文句をつけるところではないでしょう。私なんて、この半分くらいですけどね。毎週(長文の)原稿執筆、ごくろうさまです。



(3)「(やっぱり)出たか」と思ったことは、先生のような、ある意味最もストレートな仕方で、高橋氏への(どちらかというと肯定的な)レスポンスを「日曜日の礼拝の説教でおこなう」という形についてです。私はどうかなあと思いました。「ブログには書けても、説教で言えるかなあ」と。特にステファノに結びつけて語れるかなあと。



(4)説教では語るべきではないとか、ステファノの殉教と高橋氏の言説とを結びつけるべきではないとか言いたいわけではないのです。どう言ったらいいのか迷いますが、高橋氏は、何度も繰り返して「わたしはクリスチャンではないのですが」と明言しておられる方です。「わたしはクリスチャンではない」と公の場で明言する人による明確な「教会批判」なのですから、その発言を我々自身が説教の中に持ち出すこと自体で、教会の中から猛烈に反発する人が出て来てもおかしくはない。でも、先生の教会の中に大きな反発が無かったのであれば、この点はセーフなのかもしれません。



(5)高橋氏の言説に対して、教会の中から起こってくるかもしれない拒否反応として予想できるのは、雑な言い方をお許しいただけば、右からの反発と、左からの反発です。右からの反発については説明の必要は無いでしょう。ことが靖国神社批判なのですから。しかし、厄介なのは左からの反発(の可能性)です。左からの反発の例として最も容易に想定できるのは、「殉教を避ける」という論理こそが、戦時中の日本の教会がおこなった「宮城遙拝」を「やむをえなかった」とする苦しい弁明そのものではないかという反発です。



(6)私がブログに書いたことは、「高橋氏の“問いかけ”は正当である」ということにとどめてあります。高橋氏の「答え」が正しいとは、意識的に書きませんでした。ズルいやり方であることは自覚しています。答えは、高橋氏のご著書を(少なくとも二、三冊は)きちんと読んでから出すべきであることは当然でしょう。高橋氏からお贈りいただいた『殉教と殉国と信仰と』は、いま読んでいる最中なのですが、別のことをしている間に妻が来て、「何その本?面白そうね」とか何とか言いながらかっさらって行きました。いまは彼女が夢中になって読んでいますので、なかなか返してくれません。そのうち奪い返し、読み終えたら、感想文を書かせていただくつもりです。



ともかく、反応してくださり、ありがとうございました。反応の無いブログ記事は、やはり、どこかしら哀愁が漂っています。お忙しい中、どうもありがとうございました。議論はいつでもどうぞ。神学と社会の問題になると、血沸き肉躍るものがありますので。