2010年11月28日日曜日

なぜ私にキリストが必要か


ローマの信徒への手紙8・1~8

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は神に喜ばれるはずがありません。」

今年のアドベントを、なんだか感慨無量で迎えることができました。今年もいろいろありました。もう忘れておられるかもしれませんが、そもそも今年はわたしたち松戸小金原教会の30周年でした。記念誌を発行したり記念礼拝をおこなったりしました。夏には会堂の外装工事がありました。T長老の大きな手術もありました。KさんやH長老も入院され、その後、退院されました。

いま挙げているのは、教会としての三つ、四つくらいの出来事です。わたしたちのそれぞれの個人としての出来事には、もちろんもっともっとたくさんのことがありました。しかし、次から次へと、いろんなことがあったのに、わたしたちはもう忘れてしまっているかもしれません。それは、わたしたちが忘れっぽいからではありません。すべてのことを神に感謝しているからです。神さまがすべてのことをしてくださったと信じることができたので、すっかり安心しているのです。もちろん苦しいこともありました。しかし神がわたしたちに苦しみに耐える力、苦しみを乗り越える力を与えてくださいました。今なお苦しみの中にある方がおられるでしょう。しかし、神がその方の心に希望と喜びを与えてくださり、今の苦しみを何とか乗り越えることができるように励ましてくださっています。だから、わたしたちは、悪い意味で引きずっているものは、何もありません。すべてが解決し、安心して、今ここに立つことができているような気がします。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」は、もっぱら悪い意味だけで用いられる諺であるようです。しかしわたしたちには、忘れてもよい苦しみもあるのだと思います。何もかも憶えていなくてはいけないのでしょうか。良いことや楽しいことならば、憶えていればいい。しかし、悪いことや苦しかったことまでいつまでも憶えていなくてもよいのです。どんどん忘れてください。忘れても構わないのです。

しかし、もちろんこんなことを私がいくら言いましても、皆さんは憶えておられることはいつまでも憶えておられるでしょう。だからこそ私は安心して「どうぞどんどん忘れてください」と言えます。私がこう言ったから皆さんが忘れるわけではないからです。私のせいにはしないでください。しかし良いことだけ、楽しいことだけを、どうぞ憶えていてください。悪いことや苦しいことは、どんどん忘れてください。そうすることがわたしたちに許されているし、そうすべきでもあるのです。

このように言いますと、開き直ったことを言っているというふうに思われてしまうかもしれません。そういう面も全く無いとは言えませんが、そういうことよりも、私が考えていることは、人間の心や体には限界があるということです。神さまがわたしたちを限界ある存在に造ってくださったのです。わたしたちの心や体はまるで、その中に入る分量が決まっている容れ物のようなものなのです。中に入ってくるものがある程度の量を超えると、溢れ出してしまうのです。それとも、わたしたちの脳は無限の大きさをしているのでしょうか。わたしたちの体は無限の力を持っているのでしょうか。そのようなことはありえない。すべての人に限界があるのです。

だからこそ「忘れてください」と言っているのです。どのみち限界があるわたしたちの心と体なのですから、悪いことや苦しいことばかりで一杯にしなくてもよい。外に出せるものは、どんどん出したらよいのです。もちろん、わたしたちには「忘れなさい」などと言われても忘れられないことが、体脂肪のようにたくさん詰まっているでしょう。しかし、だからこそわたしたちは、心のダイエットに真剣に取り組まなければならないのです。余分なものは、すっかり外に出してしまうことが必要なのです。

今日は何の話なのかが分からなくなりそうなので、そろそろ本題に入ります。今日の主題は「なぜ私にキリストが必要か」です。もちろんわたしたちはキリストが必要だと信じています。だからこそキリスト教を信じているし、教会に通っています。今さら問うほどのことではないかもしれません。しかし、今日考えたいことはその理由です。「なぜ」必要かです。あるいは、その事情についての説明です。だらだらやるつもりはありません。ワンポイントに絞ります。ここを押さえておいてほしいという一つの点だけをお話しいたします。

それが、今まで前段としてお話ししてきたことに、実は全部関係しています。いちばん大切な点は、わたしたちの心や体は限界ある容れ物のような存在であるということです。その中には良いものだけではなく、悪いものもたくさん詰まっているのですが、この容れ物自体にどのみち限界がありますので、悪いものは外に出してしまえばよいし、良いものだけが残るようにしたらよいのです。そうすることがわたしたちに許されていますし、そうしなければならないのです。

何を外に出すべきなのでしょうか。それが今日の聖書の個所に使徒パウロが書いている「肉の思い」(6節)です。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(同上節)と記されています。「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」(7節)とも記されています。ここで「肉の思い」の意味は「神に敵対する思い」です。つまり罪です。罪とは、神に敵対することです。神に背を向けることであり、神を憎むことであり、神の御心に反する生き方をすることです。それはわたしたちには許されていないことです。神に敵対する思いとしての罪はわたしたちの外側に出してしまわなければなりません。もしわたしたちが心のダイエットに取り組むとするならば、わたしたちの「罪」をわたしたちの存在の外側へと絞り出してしまわなければならないのです。

しかし、その次にすぐ出てくる問題は、それがわたしたちに可能かどうかです。「絞り出しなさい」などと言われてもなかなか出て行かないのが、わたしたちの罪です。ですから、わたしたちの心にはいつまでも葛藤が残ります。わたしたちの心の中に葛藤が残り続けること自体をパウロが責めているわけではありません。彼の中にも罪は残っています。「肉の思い」が残っています。しかし、それだけではなく、彼の心の中には「霊の思い」もあるのです。「霊の思いは命と平和であります」と記されています。「平和」の意味は「神との平和」です。それは「神に敵対すること」の反対です。敵対の反対は和解です。つまり、「平和」とは「神との関係が敵対関係ではなく、和解されている関係である」ということです。それは、神さまと私が仲良くなることです。神が私を心から喜び楽しんでくださることであり、私もまた神を喜び楽しむことです。神と私が仲良く一緒に遊ぶことです。

それは、わたしたちには可能なことです。神がわたしたちにそれを可能にしてくださったのです。神がわたしたちに何を可能にしてくださったのでしょうか。神に敵対する思い、神を憎む思いだけではなく、神を喜ぶ思いを持つことを可能にしてくださったのです。

それが、今日の個所に「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(2節)と記されていることの意味です。書かれていることの表現自体は難しいものですが、言われている意味は比較的単純です。パウロが言おうとしていることは、わたしたちの心と体との中に「霊」と「罪」が共存しているということです。しかし、ただ共存しているというだけではなく、「霊」あるいは「霊の法則」が、「罪」あるいは「罪と死との法則」よりもいわば分量的に勝っているということです。「霊」と「罪」が綱引きして、「霊」が勝利したのです。

そしてここで思い起こしていただきたいことが、わたしたちの心と体は、限界がある容れ物のような存在であるということです。無限の大きさを持っているわけではありません。「霊」が溢れるほどに豊かにわたしたちの存在を満たすならば、わたしたちの中で「罪」の占める割合は小さくなっていくのです。これは、わたしたちが小学校で勉強する足し算、引き算のようなものです。あるいは理科の時間で勉強する、ビーカーの中の濁った水のうえに澄んだ水を注いでいくと水全体がだんだん澄んでいくことにも似ています。ビーカーの容量の限界を超えた水は、外側にどんどん溢れて行くからです。もちろん、そのようにしても、どこまでいっても、完全な真水にはなりません。しかし全体としての濁りはどんどん薄まっていきます。そういうことが、わたしたちの心と体にも確かに起こるのです。

いま私は「霊」「霊」と言っていますが、ここでパウロが書いている「霊」の意味は、どう読んでも聖霊のことです。聖霊とは、わたしたちの存在の外側から内側へと注ぎこまれる存在であり、わたしたちの内側に宿ってくださる、あるいは住み込んでくださる存在であり、それは端的に神さまのことです。それは神の霊であり、キリストの霊でもあり、聖霊なる神のことです。「霊の思い」(6節)とは、聖霊なる神の思いであり、神のお考えであり、神のご意志、すなわち神の御心のことです。その意味での「霊」すなわち聖霊なる神のご存在が、わたしたちの心と体の中で「罪」と共存しているのです。しかし、聖霊なる神のご存在がわたしたちの存在の中で満ち溢れるならば、罪の占める割合は小さくなるのです。罪によって濁った心は、聖霊が注ぎ込まれることによって、だんだん澄んでいくのです。

たった今、私は「聖霊とは神の霊であり、キリストの霊でもある」と言いました。その意味を説明する時間はもうありませんが、一言でいえば、聖霊とは父なる神がイエス・キリストにおいてわたしたちに御自身の御心を伝える手段であるということです。その神の御心の具体的な内容は、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」(3節)というものです。「御子」はキリストです。つまり、パウロが書いているのは、神がキリストを「この世に送った」理由ないし目的です。それは「罪を取り除くため」であるというのです。

神がキリストを世に遣わされた目的は罪を取り除くことです。ただし、「取り除く」と言っても完全に無くなるわけではありません。いわば薄まること、または薄めることです。濁りきって飲めない水ではなく、なんとか飲める程度の水にすることです。私と神との関係が敵対関係であることをやめて和解されたものになり、仲良くなることです。神が私を喜び楽しんでくださり、私も神を喜び楽しむことができるようになることです。そのために、神は御子をこの世に送ってくださったのです。

なぜ私にはキリストが必要なのか。その答えは、「私が神を喜ぶことができるようになるため」です。私の心に「喜び」を増し加えてくださるために、キリストはお生まれになったのです。

(2010年11月28日、松戸小金原教会主日礼拝)