2010年11月27日土曜日

神学とは日本語である

牧師である私にとって、教会の仕事というのは毎日楽しくてしょうがないものなのですが、とにかくずっしり重くて疲れるのは、中会や大会の仕事です。

それは他でいう「教区」とか「教団」の仕事のようなものです、といえば、一般的には少しは分かりやすくなるでしょう。牧師には、通常自分がそこに住んでいる場所としての「教会」の仕事もありますが、複数の「教会」が地域ごとに集まって作る包括的な組織としての「中会」や「大会」の仕事もあるのです。

いま書いた意味での「教会」の仕事をすると牧師は元気になりますが、「中会」や「大会」の仕事をするとぐったり疲れます。理由もだいたい分かります。中会や大会の仕事の大部分は「会議」だからです。

私は何が苦手かといって、とにかく会議が苦手なのです。だから疲れる。一日の終わりの疲労感が明らかに違います。

中会も、大会も、疲れるから大っ嫌いだぁ。あんなこと、好きでやってるわけじゃねぇんだよぉ。

��とか書くと、「会議軽視だ」とか言われて罷免された法務大臣のように、私もやられますかね)。

と、私がこういう愚痴をこぼしているときは、たいてい、「ボクはぁ、本当はぁ、ファン・ルーラーのオランダ語テキストをぉ、読みたいと思っているのにぃ、ちっとも読むことができないのはぁ、中会や大会のせいであってぇ、ボクのせいではないんですよぉ」と言い訳したりお詫びしたりしなければならないと思っているときです。

ファン・ルーラーを翻訳するための、まとまった時間が欲しいです。欲しいです。欲しいです。

しかし、教会の牧師ですから、教会の仕事を最優先することは当たり前のことです。しかし、私は「中会」や「大会」の仕事もしなくてはなりません。私は今、東関東中会の伝道委員会の責任者です。その者は、自分自身で伝道もしなくてはなりませんが、「伝道とは何か」を中会レベルで考える仕事もしなければなりませんし、「伝道とは何か」を中会レベルで考える仕事の場を作り出す仕事(講演会や研修会などの準備の仕事)もしなければなりません。

つい最近、ある方に書き送ったメールの中に「教会の牧師たちにとって、神学の季節は短いものです」と書きました。

日本キリスト改革派教会の場合、定期大会が年一回あり、定期中会が年二回あり、臨時の会議も複数回あります。しかし、そのような大きな会議の場を成り立たせるための(議案を構築していくための)委員会活動は年がら年中おこなっていまして、大きな会議が近づけば近づくほど集中力が求められ、疲労度が増します。他の仕事をすべて後回しにしてでも全くかかりきりにならなくては完成しないような緻密さを要求される仕事ばかりです。

ですから、大きな会議がおこなわれる前後の期間は「神学どころでなくなってしまう」という、私がいちばん嫌いな言い方をしなければならなくなるのが実情です。一年のうちから大会や中会の大きな会議が行なわれる前後の期間を除いていって、最後に残るのが、その牧師の「神学の季節」です。(ややこしいことを書きましたが、分かりました?)

この意味での「神学の季節」は、中会や大会での責任が重くなればなるほど、短くなっていきます。今の私は、たぶん一年の四分の一(3ヶ月)くらいが残っていれば、いいほうです。10年前は「たっぷり神学できた」のですが、今は違います。

しかし、神学は手を抜いてはなりません。はっきり言いますが、神学の大部分は翻訳です。そして翻訳は手を抜くと読者も訳者も地獄を見ます。時間をかけない翻訳ほど悲惨なものはありません。つまり「時間をかけない神学ほど悲惨なものはない」のです。

そして、私が最も重要なことだと思っているのは、このブログではお馴染みの翻訳理論家の山岡洋一氏の受け売りなのですが、「翻訳は日本語である」という点です。

翻訳の目標は「こなれた訳」ではありません。翻訳の目標は「日本語であるものにすること」です。それが日本語でなければ翻訳ではないのです。その訳者自身の頭の中で原文の意味を(その言語の文法に基づいて)百パーセント理解できていたとしても、翻訳された文章が日本語としては支離滅裂であるならば、「それは翻訳ではない」と判定せざるをえないのです。

だから大変です。山岡先生の受け売りですが、文学作品に出てくる登場人物のセリフとしてのI love you.の翻訳は「私はあなたを愛しています」ではありません。「私はあなたを愛しています」という言葉を日常生活で使う日本人を私は寡聞にして知りません。「私はあなたを愛しています」と、このとおりの言葉でプロポーズをした(された)人がいるでしょうか。臭いセリフであるという以前に、また「こなれた訳」であるかどうかという以前に、それは「日本語ではない」のです。

「原文のニュアンスを残しながらこなれた日本語に近づけていく」という離れ業を考える人がいますが、その努力は尊重するとしても、そのような努力を経て仕上げられた文章は、おそらく「日本語ではない」ので、つまりそれは「翻訳ではない」のです。

私がめざしている「翻訳」も、山岡洋一先生がおっしゃる意味での「翻訳」ですので、だから大変です。時間がかかります。

私にとっては「日本語でなければ神学ではない」のです。翻訳なき神学は存在しないからです。

つまり、「神学とは日本語」なのです。