1937年5月17日(聖霊降臨節第二主日)の青年礼拝での説教
関口 康訳
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」 (ローマの信徒への手紙8・2)
「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」(ローマの信徒への手紙8・26)
ペンテコステ(聖霊降臨日)は、お祝いの日です。
この日、わたしたちは、キリストはわたしたちをお見捨てになられたわけではない、ということを思い起こします。キリストは、わたしたちを助けに来てくださいます。
聖霊は、わたしたちをあらゆる真理へと導く助け主であり(ヨハネ16・13)、わたしたちが悲しんでいるときに励ましてくださる慰め主です。聖霊は、弱いわたしたちを助けてくださるのです。
主イエスは地上に来てくださいました。これが福音です。そして、天に昇られました。これが福音の終わりです。
今、わたしたちの助け、わたしたちの慰めは、どこに残っているのでしょうか。
それを知るのは、わたしたちがペンテコステをお祝いするときです。
わたしたちは、主イエスなしで、この地上に生きているわけではありません。主イエスは、わたしたちを孤児のままでおかれません(ヨハネ14・18)。それが喜びの知らせ、すなわち福音なのです。
わたしたちは、ここで、この世界の上で、ありとあらゆる力によって、丸裸のさらしものにされています。これでわたしが申し上げたいことは、主イエスは助け主として、わたしたちに福音を教えてくださるべきお方である、ということです。
主イエスは、わたしたちの目が見えないとき、見えるようにしてくださいます。
足が動かないとき、歩けるようにしてくださいます。
重い病のとき、きよめてくださいます。
悪の力にとらわれているとき、助け出してくださいます。
わたしたちが死ぬとき、よみがえらせてくださいます。
こうして、わたしたちは、今や何とか、最悪の人間と呼ばれなくて済んでいます。わたしたちが罪深い者であるとき、主イエスは、そこから救い出してくださいます。
主イエスは、そのことを、御自身の聖霊を通して行なってくださるのです。
わたしたちは、自分の頭で考えていることだけが起こりうることだ、と思い込むべきではありません。わたしたちの心の中に、別の考えが訪れることがありえます。
孤独の内に生きている人であっても、見捨てられてはいません。その人は、いかに生きるべきかを学ぶべきです。
人生は神の作品です。しかし、そうだと言い張るだけでは、まだ駄目です。そのことが、聖霊を通して、人に教えられなければなりません。
そのとき、わたしたちの命は、永遠の命になります。それが実現しないのであれば、そのとき、わたしたち人間は死んでいるのと同じです。無間の死を味わっているのと同じです。
それは、もっと古びてしまうことであり、もっと悪くなってしまうことです。それは、もっと悲惨になること、もっと醜くなることです。
そのような人生は、最も憂鬱な苦役です。そのようなことをさせるために、神は人間をお造りになったのではありません。ひとは、聖霊を受け取らなくてはなりません。そうでなければ、その人は、完成された人間とはいえません。
聖霊を受け取っていないとき、その人は、生きているのではなく、死んでいるのです。罪の赦しを与える聖霊だけが、わたしたちを、からだのよみがえりと永遠の命に、生かしめるのです。
聖霊は、今、地上に来られています。誰かがイエス・キリストを信じているなら、その人は聖霊を受け取っているのです。信仰とは、より高く、より新鮮な空気の中で呼吸することなのです。「目を上げ、心を高くあげよう!」 (賛美歌の歌詞)。
今や、聖霊がわたしたちに信じさせてくださることは、どのような事柄でしょうか。
わたしたちは、教会のメンバーとして、洗礼を受け、あるいは主の晩餐に与ることを許されている者として、使徒信条を持っています。
「われは、父なる神、イエス・キリスト、聖霊を信ず」と告白します。わたしたちは、まさに存在する何者かであるひとりの神を信じているだけではありません。そのようなことは、異教徒でも行っていることです。異教徒は、そのような神を探し求めています(使徒言行録17・27参照)。
わたしたちは、それ以上のお方を信じています。わたしたちの父なる創造者は、天地万物の創造者です。聖書によれば、主イエスは我らの贖い主です。これが福音です。
ペンテコステの聖霊は、わたしたちの慰め主です。これが使徒の働きです。
このようにして、わたしたちは、神を知るのです。聖霊は、そのことに基づいて、わたしたちに確信を与えてくださるのです。
第一に、主イエスのよみがえりがあります。もしキリストがよみがえられなかったとしたら、宣教は無駄であり、あなたの信仰も無駄になります(コリント一15・14)。
そこから聖霊が確信を与えてくださいます。ペトロはペンテコステの祝いの場で説教を行いました。聖霊は力強い論拠をお用いになります。それは、しばしば、確信の殻を叩き割る、あらゆる非日常的な論拠なのです。
そうです、あなたは、人生をとおして、永遠に向かって行かなくてはなりません。あなたは、両手・両足・五感を持つだけで、他は何にもないような人間ではありません。それらは、獣でも持っているものです。
あなたは、他のものを身につけなければなりません。あなたはキリスト教会のメンバーです。第二のアダムとしてのキリストは、あなたの先祖です。
聖霊は、あなたの弱さを助けに来てくださいます。そのとき人生は栄えるのです。霊の結ぶ実は、愛、忍耐、寛容、親切、信仰、柔和、節制(ガラテヤ5・22)。聖霊の賜物を持たない者は、落伍者です。
しかし、その人は、それらの賜物を、聖霊をとおして与えられていないわけではありません。聖霊の賜物は、他の被造物にではなく、まさに人間に与えられるものです。
信仰者も一人の人間です。希望、そして愛。聖霊の賜物に欠けているならば、枯れ果ててしまうのです。