2010年11月3日水曜日

高橋哲哉氏の問いかけは正当である(キリスト新聞を読んで)の続き

先ほど書いたこと対して早々の反応をいただきました(S先生、ありがとうございました!)。その答えとして私は以下のようなことを書きました(ブログ用に少し編集しました)。

(1)キリスト新聞を読むかぎり、高橋氏の贖罪論理解そのものが間違っているとは今のところ思いません。高橋氏が問題にしておられるのは、贖罪論を「誤解」してきた教会の過ちのほうだと読めるからです。換言すれば、高橋氏は「贖罪論の誤解」によって教会が引き出してきた「諸帰結」や「諸現象」のほうをご覧になり、いわば「実を見て木を知る」という仕方で、教会が犯してきた過ちを批判しておられると私には読めます。そして、この高橋氏の判断は私見によれば間違っていません。

(2)S先生が引用してくださったY先生の文章の中で若干気になるのは、「それでもイエスの犠牲にお応えする私の犠牲ということのみが、キリスト者の信仰の歩みを形作るのです」の中の「私の犠牲ということのみ」の「のみ」です。なぜ「のみ」(only)なのでしょうか。私を含めて日本の教会の牧師たちは不必要なまでに「犠牲」を強いられている面がありますので、比較的容易にイエスさまの犠牲と自分自身の犠牲とを自己同一化しやすい環境にあります。しかし、我々が今払っている「犠牲」は、イエスさまの「犠牲」とは質的に異なるものではないでしょうか。

(3)ややスコラ神学的な問題意識かもしれませんが、贖罪論はキリスト論だけに属するのではないと私は考えています。贖罪論の課題にはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの事実とその意義を解明することだけではなく、聖霊による人間における「贖罪の適用」(applicatio salutis)という点が必ず含まれます。したがって贖罪論は聖霊論にも属するものではないでしょうか。

(4)あと一つ付け加えておきたいのは「罪」の評価の問題です。「罪」は、どこまで行っても神さまにとっては「不本意」なのだと思うのです。もしわたしたちが「罪」そのものを神さまの「本意」とみなすならば、人間側の一種の開き直りを意味してしまいますし、まるで神さまが「罪の作者」であるかのようであることを認めることを意味せざるをえなくなるでしょう。しかし、そのような結論を、我々(少なくとも改革派の者たち)は決して受け入れることができません。もしこのあたりの消息が正しく了解されるならば、イエスさまがおこなってくださった「罪の贖い」もまた、神さまからすれば「不本意」であるはずです。もちろん私はイエスさまが(父なる)神さまの御心に従って十字架についてくださったということを心から信じていますので、イエスさまにとって「(父なる)神さまの御心に従うこと」自体は「本意」だったと説明できるかもしれません。しかし、上記のとおり「罪」も、そして「罪の贖い」も神さまにとっての「不本意」なのだとするならば、イエスさまからすれば、いわば「(イエスさま御自身の)本意」と「(父なる神の)不本意」との板挟みの中で、十字架の死を遂げられたと言えるのではないでしょうか。

(5)ここから先は全くのスコラ的なまさに屁理屈なのですが、もし人間が「罪」を犯さなかったとしたら、イエスさまが「犠牲の供え物」になってくださる必要は無かったのです。その意味で「罪の贖い」(贖罪)は、言うならば「仕方なく」(ファン・ルーラー先生の言葉をお借りすれば「緊急措置として」)行われたみわざです。いま私が書いていることが「イエスは果たして、神のために喜んで死んだのか」という高橋氏の問いかけへの答えになるかどうかは分かりません。しかし、私自身も上記の観点(イエスさまの死は「本意」と「不本意」の板挟みの中にあったのではないかとする推論)を考えるならば、ある意味で高橋氏と同じ問いを抱かざるをえません。

(6)まとめて言えば(ちっともまとまりませんが)、キリスト教から贖罪論を引き抜くことは私にも不可能ですが(この点はS先生やS中会と完全に一致!)、贖罪論の観点だけからキリスト教のすべてを論じつくすのは行き過ぎだろうと考えている次第です。