関口 康
最近のわたしの心を魅了している問題は、十七世紀の改革派契約神学者、なかでもヨハンネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius [1603-1669])において確立された「贖いの契約」(pactum salutis)という概念が、その後の改革派教義学における三位一体論とキリスト論と聖霊論とをつなぐ扇の要のような役割を果たしてきた経緯もしくは歴史的展開は、今日においていかなる意味を持っているのだろうか、というあたりのことです。
コクツェーユスの契約論において重要な概念は次の三つです。
「贖いの契約」(pactum salutis)
「恵みの契約」(foedus gratiae)
「わざの契約」(foedus operum)
それぞれの概念の定義は非常に難しいのですが、「贖いの契約」の内容だけは、はっきりしています。
それは、父なる神と神の御子イエス・キリストとの間の契約、すなわち「三位一体の神の内部の契約」(foedus Dei trinitatis intra)というべきものであり、「御子イエス・キリストの仲保者職への任職」(constitutio Mediatoris)です。
これに対して、「恵みの契約」も、「わざの契約」も、神と人間との間の契約です。
この「贖いの契約」(pactum salutis)は、キリスト教信仰の教義的体系化ということを考えていくためには、非常に重要であり、かつ必要不可欠な概念であると思われます。
コクツェーユスの場合は、「贖いの契約」における御父と御子との関係についても、「恵みの契約」や「わざの契約」における神と人間との関係についても、全く同じ「友情」(amicitia)という言葉で説明されます。
コクツェーユスの語る「贖いの契約」(pactum salutis)の内容と、ファン・ルーラーが「喜び」(vreugde)と呼んでいるものとは同一のものではないかと、わたしは数年前から考えてきたのですが、ファン・ルーラーのテキストの読みのほうがなかなか進まなくて(書物をじっくり読む時間が無くて)苦しんでいるところです。
裏が取れ次第、「喜びの神学の歴史的展開―カルヴァンからコクツェーユス、そしてファン・ルーラーへ―」(仮題)というような大論文でも書きたいところですが、「書きたいなあ」と、ただ思っているだけです。
御父と御子との関係も、神と人間との関係も、押しなべてコクツェーユスのように「友情」と呼ぶか、ファン・ルーラーのように「喜び」と呼ぶか。どちらも同じであると考えてよいか。
これは非常に重要な問題である、と感じています。