2010年11月23日火曜日

ヘルマン・バーフィンク『改革派教義学』序文

本書の立場を短い言葉で明らかにしておくほうがよいだろう。信者たちだけではなく教義学者も「我は聖徒の交わりを信ず」と告白する。教義学者は、人知を越えたキリストの愛がいかに広く、長く、深く、高いかをすべての聖徒たちと共に理解し、告白することができる。何よりも教義学者は、聖徒の交わりにおいて、また聖徒の交わりを通してキリスト教信仰がその中で表明される教義を理解することを学ぶ。この聖徒の交わりには強い力と大きな慰めがある。

教義学は今日重んじられていない。キリスト教の教えは時代に疎んじられている。時おり感じることは、フルーン・ファン・プリンステラーの言葉を用いて言えば(『不信仰と革命』1868年、17ページ)見捨てられた寂しさと孤独感である。しかし、それ以上に覚えることは、この仕事を通して先祖たちとの同盟関係を結ぶことができることへの感謝である。この点が、本書が教父神学やスコラ神学により多くの関心を注ぐ理由である。しかし、現状では、プロテスタントの神学者たちはそれらに対して必ずしも十分に関心を注いでいない。

エイレナイオス、アウグスティヌス、トマス・アクィナスといった人々は、ローマ教会だけに属しているわけではない。彼らはすべてのキリスト教会に属する教父であり、教師である。またローマ教会の神学は宗教改革後すっかり忘れ去られてしまったわけでもない。プロテスタント教会では、ローマ教会と自分たちの相違点と同じくらいローマ教会との共通点があるという認識がほとんどないことが多い。ローマ教会の神学はトマス・アクィナスの後ろ盾を持っている。その神学が息を吹き返した。ローマ神学の再興によってプロテスタントのキリスト者たちは、以下の二つの必要性を自覚しなければならなくなった。それは、ローマ教会との関係を意識する必要性と、その関係に対する明確な判断を与える必要性である。

しかし、改革派教義学は、自分自身のタイプを最も狭く限定するものである。それは、16世紀の(特にスイスの)宗教改革によって受け入れられたキリスト教の宗教と神学のタイプである。そのようなものへと自分自身を狭く限定する理由は、これが唯一の真理だからということではない。私自身の確信に基づいて、相対的に最も純粋な言葉で真理を語るためである。キリスト教というものをその宗教的性格と倫理的性格と神学的性格とにおいて引き立たせて見せてくれる信仰告白は、改革派教会の信仰告白以外には存在しないのである。これほど深く、広く、余裕があって自由な、真にカトリックな(普遍的な)信仰告白は、他のどこにもないのである。

それゆえ私は、宗教と神学の改革が必ずしもスムーズに進んでいないことを強く嘆いている。この点は、教会と学問の改革にも同じことが当てはまる。ヨーロッパ大陸だけではなく、イングランド、スコットランド、アメリカでも、16世紀の宗教改革後の展開が目に見えるものとなったという多くの良い面があるにもかかわらず、すぐにまた停滞や逆行(deformatie)も起こってきた。

私が考えていることは、古い世代の人々の言葉には新鮮さとオリジナリティにおいて後代の者たちをはるかに凌ぐものがあるということであり、そのような古い人々の言葉を引き合いに出すことこそが教義学者に与えられた特権であるということである。改革派神学の歴史は、穀物ともみがらを区別してきた。古いものだからという理由で古いものを愛するというだけであれば、そういうのは「改革派的な」考え方ではありえないし、もはや「キリスト教」ですらない。教義学が問うのは過去において価値を持っていたものは何かという問いではなく、将来において価値を持つべきものは何かという問いである。教義学は過去に根ざしている。しかし、教義学の仕事は将来のためにある。

そのため、本書もまた、最終的には「現代的な」特徴があらわにされていることを願っている。教義学は手に負えないほど膨大な仕事である。現代人はこの仕事に関わろうとしない。しかし、これは先祖たちが書いたり語ったりしてきたことである。そのようなものが今の時代においては書かれることも真面目に語られることもほとんどないというのは、神の前で善いことではないだろう。

本書は神学分野の中で交錯している多くの学派の動向に注意を払っている。その上で私はそれらすべての中で一つの立場を探し当て、一つの見解を選んでいる。異なる立場については、それではそれは我々とどこで食い違うのかを説明する責任がある。しかしまた、異なる立場の中に見いだされるものにも、できるだけ良い評価を行うよう努力している。研究を続けていくうちに、最初は全く存在しないと思われた共通性や類似性が見つかることがある。

本書は、この基本の上に依拠しながら、この分野の研究に専念している人々のための教本であろうと努めるものである。本書は、賛同を得ることができないものだからこそ、人を教義学の研究に駆り立てるものであるかもしれない。この点を考慮して、問いといくつかの信頼できる答えをできるだけ客観的に提示する。参考文献については、読者が自分の立ち位置を素早く確認し、問題解決を助けるものでありうる程度のものを示しておいた。

第一巻では序論と原理論を論述する。第二巻で教義を扱いたいと願っている。第二巻がこの第一巻より大きな規模でないかぎり、どれほど急いでもおそらく二冊で全体のうちの第二部まで進むだけである。詳細な索引は最終巻に載せる予定である。

1895年4月、カンペンにて(関口 康 訳)

ヘルマン・バーフィンク『改革派教義学』全四巻のオランダ語版全文

第一巻(1895年)

第二巻(1897年)

第三巻(1898年)

第四巻(1901年)

バーフィンク文献目録