2010年11月23日火曜日

私がブログを書く理由(のB面)

ユーストリームなどを用いて私が何をしようとしているのかと言いますと、当たり前の話ですが、自分の(ひどい)顔と自分の言葉で、いま考えていることを、多くの人たちにお伝えすることです。

私は何年か前、改革派教会が深く関係しているラジオ番組を「くび」になりました。「くび」は言い過ぎですが、私が用意した原稿をスタジオでそのまま読みましたところ、数日後、内容がNGであると判断されたらしく、「録音し直してほしい」と電話がかかってきました。しかし私は、自分が用意した原稿の内容に録音し直さなければならないほどの誤りも行き過ぎも無いと確信していましたので(その確信は今も変わっていません)、再録音の依頼を謹んでお断りし、「私はもう二度とラジオには出ませんので、別の方にお願いします」とお伝えしました。放送内容は差し替えになったはずです。

同じようなことが、つい最近もありました。まだ本当に最近のことですので、具体的な内容を書きはじめると差しさわりがあるので詳述を控えますが、改革派教会が直接関係している月刊誌に私が書いた原稿がNGになり、編集部の手で全面的に書き直されたうえで、「こういう内容で掲載しますがよろしいでしょうか」という趣旨の連絡がありましたので、「私はもう二度とその雑誌に原稿を書きませんので、別の方にお願いします」とお伝えしました。

私は、私の原稿をNG扱いする人々のことをうらんでいませんし、そういうネガティヴな感情とは全く無縁の気持ちを持っています。ラジオについても月刊誌についても、日々ご労苦しておられるスタッフには心から感謝していますし、その営みも心より尊重いたしますし、応援する気持ちが強いです。

エラソウな言い方をお許しいただけば、私の書くことは、いろんな意味で「時機尚早」なのだと思っています。逆に言えば、時間が解決してくれる何かがあるだろうと見通しています。神学思想史的に見ればとっくの昔に克服されているような過去の何かをただ(慣性の法則に従って)引きずっているだけのような人たちに「おもねる」ようなことを私は望みません。それは神学と信仰の敗北を意味すると、私は考えます。「おもねる」仕事は(もしお望みでしたら)他の牧師たちにお願いいたします。私には、そんなことにかかずらわっている余裕はありません。

ラジオであれ雑誌であれ、もし既存の価値観を無批判に再生産するだけならば、無意味かつ有害です。私は日本キリスト改革派教会の教師ですので、「改革派の枠組みを守ること」など当たり前のことです。しかし我々は、もし日々新しい言葉を語らないならば、我々が日々人間として、歴史的・時間的な存在として、この地上に生きている意味が全く分からなくなります。既存の(そして多くの問題に満ちた)古い価値観によってその立場と名誉を保全されている人たちを守(ってあげ)ることだけが、我々の仕事ではないはずです。

出版事業も、放送事業も、多くの方々の献金で支えられている活動である以上、複雑な事情が絡んでいるでしょうし、いろいろと大変であることは痛いほど熟知しているつもりです。

ですから、彼らには彼らの道を進んでいただくしかありません。しかし私は私の道を進みます。評価は神さまと教会がしてくださるでしょう。それで、おあいこでしょう。私はすべて自腹で、コツコツとブログ記事を書き、ユーストリームの録画をするのみです。

他のメディアが私にはありませんので、今のところこのブログが私の「メディアミニストリー」です。ユーストリームのほうはまだまだ慣れませんが、そのうち何とかします。