しかし、どうか誤解がありませぬように。
「日々新しい言葉を語らなければならない」と信じている私は、その一方で、相当確かな意味で「カルヴァンとウェストミンスター信仰規準に固執している」者でもあります。要するに、私は「カルヴァン主義者」であると自覚しています。この枠組みの中には「創造から神の国まで」のすべてを論じる場(locus)が備えられているのですから、この枠組みに「固執」するときにこそ、この世界のすべてを自由かつ大胆に論じつくすことができるのです。
勘違いしている人たちは、この枠組みには広大な視野があるということを理解できず、狭く小さく切り取った何かだと思い込んでいるのです。
事実として、カルヴァンとウェストミンスター信仰規準が示した枠組みは「三位一体論的・聖霊論的視座」であり、それこそが、私が力を込めて取り組んできたファン・ルーラーの神学との親和性をも示す「歴史的改革派神学」の枠組みそのものなのであって、この枠組みを我々が守ることによってこそ悪い意味での「キリスト一元主義」、すなわち、まるで神は「子なる神」としてしか存在しえないかのような粗末で乱暴な議論、の狭さに陥らないための防波堤を得ることができるのです。
また、私がこだわっている「病床聖餐反対論」の根拠もウェストミンスター信仰規準への固執あってこそです。私は、病床聖餐を実際におこなっている人のことをとやかく言いたいのではなく、「私はおこなわない」と言っているだけなのですが、「なんじは病床聖餐をおこなわねばならない(must)」と強要されるときには、全面的に反対の態度をとります。とくに現在進行中の牧師不足の時代にあって、そうでなくても数少ない教師たちが(多大な時間が割かれる)病床聖餐のために「振り回される」ことは有害無益です。
いずれにせよ、私は、もし日本キリスト改革派教会が「カルヴァンとウェストミンスター信仰規準に固執すること」をやめるならば、教派存立の根拠を失うだろうと考えています。そのことを「カルヴァンが嫌った」かどうかは私にはあまり関係ないことです。「カルヴァンに愛されたい」とは思いませんので。
ところで、今日(火曜日)は、東関東中会の2010年度第二回定期会です。午前中におこなわれる付帯役員懇談会で「これからの中会形成 ~東関東中会伝道の緊急課題~」というテーマで、私が発題する予定です。その原稿が、つい先ほどやっとできあがりました。しんどいなあ・・・。