2010年10月31日日曜日
信じる者は幸いである
ヨハネによる福音書20・24~31
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』このほかにもイエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためである。」
今お読みしました個所は今年のイースター礼拝でも取り上げたところです。しかし、皆さんの多くはそのとき私が何を話したかをすっかり忘れておられると思いますので、私は安心して同じ話をすることができると思っています。いま、少し意地悪なことを言いました。しかし、今日はイースターのときに申し上げたこととは別の点に強調を置いてお話ししたいと願っています。
全くお恥ずかしい話なのですが、今日が何の日であるかを、先週まで私自身がすっかり忘れておりました。そのため先週の週報では予告も出しておりませんでした。今日は宗教改革記念日なのです。完全に忘れていましたことをお詫びいたします。1517年10月31日、宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会への激しい批判を記したいわゆる95カ条の提題、その原題は「贖宥の効力を明らかにするための討論」という文書をドイツのヴィッテンベルクの城教会の扉に掲げたとされる日です。そのルターの勇気ある行為が全世界の宗教改革運動の事実上の幕開けとなったため、全世界のプロテスタントの教会がこの日を「宗教改革記念日」として覚えるようになったのです。
なぜルターは10月31日にその貼り紙を教会の扉に掲げたのかという点については定説があります。ご承知のとおり、明日11月1日は教会の暦ではオールセインツと呼ばれ、日本では「聖徒の日」とか「万聖節」などと訳されて重んじられています。それは、松戸小金原教会ではイースターにおこなっている召天者記念礼拝と同じ意味を持っており、遺族を含めて大勢の人が教会に集まる日です。教会に集まる人は当然、教会の扉の前を通って中に入ります。つまり、教会に大勢の人が集まる日に教会の扉に貼り紙をすれば、大勢の人の目に触れます。だからこそ、ルターはその聖徒の日の前日である10月31日を選んだのだと言われています。
しかし、ルターは、ただ単に目立つことをしたかったからその日を選んだというだけではなかったと思われます。ルターがローマ・カトリック教会を批判したその内容とその日を選んだこととは関係していると考えるべきです。ルターが批判したのは、よく知られているとおり、ローマ・カトリック教会が信徒向けに販売していた日本での通称「免罪符」、正確には「贖宥券」と呼ばれるものは無意味かつ有害であるという点でした。それを買うことは当然、教会に献金することにもなるわけですが、そのお金を支払うことによって、すでに亡くなっているがまだ天国に迎え入れられていない中間状態(煉獄)の中で漂っている魂が天国まで「飛び上がる」と、ローマ・カトリック教会が教えていたのです。そのような教えには聖書的な根拠は無く、全くのでたらめであると、ルターは批判したのです。
ですから、このことから分かるのは、ルターが10月31日に教会の門に貼りつけた文書の中で問題にしたことは要するに「人間は死んだ後どうなるのか」という点にかかわることであったということです。だから、ルターがその文書を「聖徒の日」の前日に貼りだしたのだと考えれば辻褄が合います。聖徒の日に教会に集まる人の中にはすでに亡くなった方々の遺族が多く含まれていたわけですから、人間の死と死後の状態について多少なりとも関心を持っている人々であったはずです。別の言い方をすれば、493年前の今日から始まった宗教改革運動がいちばん最初に取り組んだのは「人間は死んだらどうなるか」という問題であったということにもなると思います。それは、少し難しい言い方をすれば、「終末論的な問題意識」と呼ぶことができるものかもしれません。
わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは死んだ後どうなるのでしょうか。この問いに対して、わたしたちは躊躇なく間髪入れず「わたしたちは復活する」と答えなければなりません。イエスさまが復活されたのだから、わたしたちも復活するのだと。それこそが聖書の教えであり、わたしたちの信仰です。わたしたちは、かつてのローマ・カトリック教会が教えていた意味での「煉獄」という魂の中間状態があるなどということをそもそも信じていません。中間状態とは天国にも地獄にも入っていない状態であり、最後の審判の座に引き出されるのを待っている未決の状態のことです。そのような状態にある先祖の魂が、地上にいる遺族が献金箱の中に投げ込むお金のチャリンという音でピョンと天国に飛び上がるのだとローマ・カトリック教会が教えていたというのです。
そんなのはでたらめだとルターが批判したわけですが、私にとって気になることはローマ・カトリック教会も「教会」であるということです。16世紀の話はともかくとして、少なくとも今、21世紀のわたしたちがローマ・カトリック教会を名指しして異端呼ばわりすることはありえません。彼らもまたキリスト教会の仲間です。事情がそうであるとき、私にとって最も気になることは、「わたしたち人間が死んだらどうなるのか」という問題について正しい答えを出すことができるのも「教会」であるとわたしたちは信じてよいわけですが、それと同時に、この問題についての間違った答えを出すのも「教会」であるということを認めざるをえないということです。
ローマ・カトリック教会は、その間違ったでたらめな教えを、事実上の献金集めの手段として利用しました。亡くなった方の遺族の心は多少なりとも傷ついているわけですが、まるでその弱みにつけこむようなことをしていたのです。しかし、たとえそれが事実であったとしても、今のわたしたちがしなければならないことは、16世紀の誰かを批判することではありません。わたしたちがしなければならないのは、今の自分たちはどうなのかという点についての深い反省です。それは、わたしたちもまた「教会」である以上、いつ何どき16世紀の教会と同じ過ちに陥ってしまうか分からない存在でもあるということを強く自覚しつつ、その過ちに陥らないように気をつけることです。
しかしそれはわたしたちがどのようにすることでしょうか。この点をよく考えなければなりません。教会に献金をすれば亡くなった人の魂が天国まで飛び上がって救われるという話がでたらめであるという点については、皆さんには直感的に「間違っている」と理解していただけるものがあるでしょう。しかし、そのような教えにだまされた人たちが信じていた事柄の本質をよく考えてみると、要するに、わたしたち人間は死んだ後、肉体は滅びても、魂は永遠に生きていて、いわば空中のどこかに漂った状態にあるというようなことだったはずです。そのような、いずれにせよ、魂と肉体が分離している状態、魂だけが漂っている状態というものが思い描かれていたはずです。
もしそうであるとするならば、今ここにいるわたしたちにとっても決して他人事ではないはずです。皆さんの中に、「肉体の復活」ということを関口牧師が声を大にし、口を酸っぱくして語っているほどには信じきることができないという方がおられるのかどうかは聞かないでおきます。「あとでこっそり教えてください」とも申しません。何も聞かない代わりに、私は今日、「肉体の復活」という信仰は、「わたしたちが騙されないためにも重要である」ということを強調しておきたいと思います。今日、最も大きな声で言いたいことは、魂と肉体が分離して、魂だけがどこかの空中に漂っている状態というようなことを聖書は全く教えていないということです。もし肉体が死んだのなら魂も死んだのです。たとえそうであっても、わたしたちの信仰は、そのことでびくともしません。なぜなら、肉体の復活と共に魂も復活するからです。肉体と魂はばらばらに切り離されたり、別々に分かれたりしませんし、そうなる必要がないのです。
ですから、たとえば、「鎮魂」という考え方がわたしたちには全くありません。肉体から切り離された魂が救われるために祈るという意味の「死者のための祈り」なども全くしませんし、信じていません。わたしたちがどれだけ祈ろうが、どれだけご祈祷料を支払おうが、それによって死者の魂がどうなるということはありえないと信じているからです。わたしたちが何をどのようにしようが、何もどうにもなりません。そもそもわたしたちには、死者の魂だけがどこかで漂っているという観念そのものがないのです。そのような観念は、わたしたちにとってはオカルト以外の何ものでもないのです。
しかし、いま私が申し上げていることは他の宗教の批判ではありませんし、関口牧師は冷たいことを言っているなどと思われてしまいますと困ります。冷たいことを言っているつもりはないのです。「わたしたちは復活する」と言っているのです。「復活の日には、肉体も魂も同時に復活するのだ」と言っているのです。
だからこそ、先週も確認したとおり、イエスさまの復活の体は傷だらけでした。その体はイエスさまの苦難の生涯がどれほど激しいものだったかを如実に物語っていました。イエスさまの復活には夢見心地な要素は皆無であり、厳しく生々しい現実そのものを映し出していました。そして、トマスには、御自分の体に残る十字架の釘跡、槍で刺された釘跡を指さされ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)と言われました。電源スイッチの切れたロボットにもう一度スイッチを入れて再起動させるように、すっかり抜け殻となった肉体の中に魂が戻ってきて息を吹き返したというような話ではありません。死よりも前の体験と記憶が、イエスさまの人格そのものが復活されたイエスさまにおいても連続していたのです。魂の復活とは、いわばそのようなことです。
イエスさまはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(同上)、また「(見ないのに)信じる人は、幸いである」(29節)と言われました。この場合「信じる人」の意味は「復活を信じる人」です。復活を信じる人は幸せであると言われているのです。
皆さんにぜひお考えいただきたいことは、「復活を信じて損することはありません」ということです。復活を信じることで誰かが不幸になることはありません。復活を信じないほうが損します。肉体から切り離された魂のようなものを想像し、追い求めることは、どこか騙されやすく、得体のしれないものを恐れやすくなります。それは宗教改革の精神に全く反することです。復活の信仰がわたしたちをあらゆる迷信やオカルトから解放してくれるのです。
(2010年10月31日、松戸小金原教会主日礼拝)