2017年1月31日火曜日

「フィリオクェ」についてのファン・ルーラーの見解

『ファン・ルーラー著作集』第4巻上(2011年)
ファン・ルーラーが1957年に発表した論文の部分訳を公開する。「フィリオクェ」についての彼の見解が分かる。平易な訳を心がけた。論争の経緯はネットで検索すれば出てくる。

(私訳)

A. A. ファン・ルーラー「聖霊論の主要線」(1957年)部分訳(関口康訳):

東方教会の立場の難しさは、私見によれば、もし「神の内なるみわざ」(opera ad intra)の意味で御子と御霊の関係が全くないとしたら両者の区別性をどのように考えることができるかという問いにある。かたや西方教会の立場の難しさは、「御子からも」(filioque)という句を挿入することで「神の内なるみわざは区別される」(opera ad intra sunt divisa)という命題をどうしたら維持できるかという問いにある。

いずれにせよ、「御子からも」(filioque)という句は「御子だけから」(ex filio solo)という意味で理解されてはならない。神は「御子だけから」という発想から想像できる存在よりも深い方である。現代神学における聖霊論の多くの議論はそのことを忘れている。まるで御霊は御子の霊だけであるかのようだ。しかし御霊は御父の霊でもあるし、御子の霊である前に御父の霊でこそある。

さらに言えば、御霊とは御父と御子が「一息で吐き出す」(una eademque spiratione)存在である。このことに鋭く着目する人は、「御子からも」(filioque)という句には本当に意味があるのだろうかと疑い始める。歴史的に言えば、この句はスペインのアリウス派を排斥するために必要ではあった。しかし、もし御霊が御父の吐き出す息でもあり、そうでこそあるならば、その息に御子が別の要素を付け加えることがありうるだろうか。

このことを十分に考えた上で私が申し上げたいのは、「御子からも」(filioque)についての問題は、たとえそれが重く難しい問題であるとしても、もはやスコラ的な問題以外の何ものでもないということである。この立場が持つ意義はエキュメニズムにおいて小さくないと私は考えている。

出典:『ファン・ルーラー著作集』第4巻上、ブーケンセントルム出版社、2011年、300頁。

2017年1月30日月曜日

なぜ人間が「人間」を軽蔑的に語るのか

ファン・ルーラー『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
ファン・ルーラーの神学の要点を一言でいえば、キリスト論にせよ史的イエス論にせよ神と人間を対立関係でとらえざるをえないので、その論理で終始しないで三位一体論で考えると神と人間の親和性を言えるようになる、ということだが、それを言うと大抵「それはまた今度聞かせてもらう」とあしらわれる。

神と人間を対立的にとらえるとは、神(God)や神的(divine)は「人間でない」(not Man)と「人間的でない」(not human)の意味で、人間(Man)や人間的(human)は「神でない」(not God)「神的でない」(not divine)の意味で語る語法である。

このとらえ方は一見もっともらしい外観を持っているが、神と人間がまるで同じ次元で比較や競争の関係にあるかのようだ。「神」や「神的」は生ける神の存在と働きを描くためではなく、「人間」や「人間性」や「人間的なるもの」を抑制・批判・否定するためだけに持ち出される概念にすぎなくなっている。

そうなると「それは人間的である」や「あなたは人間である」「あなたは人間的である」という言葉は、批判か軽蔑の意味でしかなくなる。「あなたは人間にすぎない」「我々は人間にすぎない」という意味になる。このような言葉やそれを裏付ける思想は、教会の実践においては非常に危険な面を持っている。

たとえば説教者が「人間」や「人間的」という言葉を抑制的・批判的・否定的な意味で述べているのを耳にすると、「人間で悪かったね。たしかに人間だよ。しかし人間が人間的であることのどこが悪いのか。そう言うお前は何者なのだ。お前自身は人間ではないのか」と激しく反発したくなる人は多いだろう。

神と人間を対立的にとらえることを、ほとんど無意識でしている人もいれば、意識的・意図的にしている人もいる。後者の中には、神学は人間学としての哲学と常に必ず対立関係でなければならないように考えたり、ヒューマニズムといえば常に必ず神の啓示と敵対関係にあるかのように説いたりする人がいる。

神と人間を対立的にとらえれば、「地上」と「天上」も対立的にとらえることになる。前者を後者よりも劣悪で過酷なものとしてしか語らなくなれば、「一刻も早く地上の人生を終えて天国に行くことこそ我々にとっての最高の幸せである」というアイデアが人の心に生まれる。これこそ最も危険な帰結である。

「インマヌエル」(その意味は「神われらと共にいます」)はキリスト論にも史的イエス論にも用いられる。これは聖書の言葉であり、イエスがそう呼ばれている名でもあるので、神学的にきわめて重要な概念であることは間違いない。問題は「インマヌエル」を我々がどのような意味をこめて用いるかである。

なぜキリスト論が神と人間を対立的にとらえざるをえないかといえば、キリストは「神であるにもかかわらず(notwithstanding)人間になった」と必ず言わなければ成立しない議論だからである。その場合、神と人間の「インマヌエル」としての関係は必ず「逆説」(paradox)である。

史的イエス論も基本的にそれと同じ構造を持ちやすい。外見上ヒューマンな(人間的な、人間くさい)装いを持っているが、イエスを「逆説的存在」とか「反逆児」などの見方でとらえるかぎり、神と人間の対立関係という構図は温存されたままである。キリスト論と同じパラダイムの中にとどまることになる。

「祈ること」も「聞き従うこと」も「実行すること」も我々の主体的行為である。我々の存在と行為にイエス・キリストが宿る。それが「インマヌエル」である。しかしその事態をとらえるために、ファン・ルーラーによると、「キリスト論の視点」から見るだけでなく「聖霊論の視点」からも見る必要がある。

キリスト論の中心的カテゴリーは「我々の身代わり」(代理性)なので、キリスト論の枠内だけに集中的にとどまって考え続けると人間の主体性をとらえる視点は後退し、やがて欠落する。何もかもキリスト論だけで考えてしまうと「祈ること」も「聞き従うこと」も「実行すること」も不要であると言い出す。

しかしそういうのは間違っているとファン・ルーラーは考える。我々の主体的行為をとらえる視点を後退させてはならない。そしてファン・ルーラーは「聖霊によって実現する」のは「イエス・キリストの教え」だけではなく「父なる神の御心」でもあると言い出す。御父と御子の単純な同一視は不可能である。

2017年1月29日日曜日

ヘーゲル集めの理由

ヘーゲル『エンチュクロペディー』樫山欽四郎、川原栄峰、塩屋竹男訳
岩波『ヘーゲル全集』(旧版)全33冊中14冊セットを6千円で落札した。ライバル現れず。『全集』は1冊も持っていなかったので大喜び。函が汚れている、蔵書印や書き込みがあると「難有」だそうだが、どうでもいい。新版だと古書店で全冊5~7万円で取り引きされている様子。ああまた本が増える。

哲学については完全な素人だし、読んでも分からないし、そもそも厳密な知識を求めてはいない。ただ、プラトン、アリストテレスにしろ、カント、ヘーゲルにしろ、神学の議論に必ず登場するので、彼らが何者だったのかを大雑把でも把握する必要があり、全集を入手するのが最も手っ取り早いと考えてきた。

このたび(6千円+送料で)落札できた岩波『ヘーゲル全集』(旧版)全33冊中14冊セットの内訳は、6a、6b、7、8、10、10b、12、14c、15、16a、18b、18c、19b、20a(巻)だが、大論理学(6a、6b)と宗教哲学の一部(15、16a)を獲得できたことがうれしかった。

岩波文庫や中央公論社「世界の名著」や河出書房新社「世界の大思想」などの廉価版は持っていたが、その中に大論理学と宗教哲学はない。ヘーゲルが生前に出版した精神現象学、大論理学、エンチュクロペディー(小論理学、自然哲学、精神哲学)、法の哲学(綱要)の4冊の日本語版がこのたびやっと揃う。

上記4冊以外のヘーゲルの著作は彼の死後に学生のノートなどに基づいて出版されたもので、いろいろバージョンがあるらしい。真贋の議論がややこしそうなのであまり近づきたくない。そもそもヘーゲル自身や哲学それ自体に関心があるとはいえず、「神学における哲学の位置づけ」に関心があるにすぎない。

とはいえ、ヘーゲルが「神学校の卒業生」であるという事実は、知っている人は知っているが、知らない人は知らない。牧師にはならなかったし、「神学」を標榜する体系を展開したわけでもない。しかし、ヘーゲルを理解したいと願う人が真っ先にすべきことは、ドイツ語の勉強と共に、神学の勉強だと思う。

しかし、ヘーゲルは全く理解できない。たまに興味をひかれる文章を見かけるが、正しく理解できているかどうかの確信が持てない。そんな手に負えないものをどうして買うのか自分でも分からないが、繰り返せば「神学における哲学の位置づけ」に関心を持つ者としての参考文献集めの一環であるとしておく。

小金教会の主日礼拝に出席しました


今日(2017年1月29日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。マタイによる福音書12章9節から14節までの箇所に基づく今泉幹夫牧師の慰めに満ちた説教が、本当に心の底に響き、新たな力を与えられました。ありがとうございました!

2017年1月28日土曜日

本棚にきれいに収まる本だけが真理の書ではない

ヘーゲル『精神現象学』日本語版(左)と原著レクラム文庫版(右)
岩波文庫などの西洋思想系の本を書斎の本棚に番号順に並べながら改めて思うのは、紀元前のプラトン、アリストテレスと、いきなり18世紀のカント、ヘーゲルの間をつなぐ線として日本で紹介されてきたのは、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルターと続く「神学」だったようだ、ということだ。

哲学の方々からすれば、紀元前と18世紀の間がまるで「暗黒時代」や「空白期間」であったかのようにスルーされることは、ご不満ではないかと思う。本当はまだまだ面白い哲学者がいるに違いないし、すでに多く紹介されているのをただ私が知らないだけだろう。神学にしてもその状況は実はよく似ている。

函とハードカバーがついた「全集」や「著作集」として日本語版がある、西洋思想史に名を残す神学者は、多くない。単純に「売れないから」という理由はおそらく大きい。しかし、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルターの三段跳び(ホップ、ステップ、ジャンプ)の歩幅は数百年単位。途中がある。

しかし、その「途中」を掘り出す(という言い方は歴史を彩る偉大なる著述家の方々への不遜な言い方ではあるが)仕事というのは、言ってしまえば「売れない本」の翻訳や研究をすることを意味するので、損得勘定の視点からすれば結論は見えている。その取り組みが「就職に有利」に働く見込みもほぼない。

しかし、哲学にしても神学にしても、聖書やクルアーンや論語などにしても、それらの翻訳や研究そのものは、おそらく「目的」ではなく「手段」(ただし「不可避的な」)なのだと思う。その作業過程(それが過酷極まりないのだが)を経て「私の(ないし「我々の」)思想」を獲得するのが「目的」だろう。

そしてまた、当時の論争や政治や商戦に勝つことができず、歴史の中で埋もれた思想家がた(「埋もれたわけではない!」と地中から叫び声が聞こえてくる気が)こそが、苦心の末にたどり着いた「真理」を絶叫のうちに告白していた可能性は決して低くないことを思うにつけ、なんとも言えない気持ちになる。

しかし、不幸なマッチョイズムかもしれないが、論争や政治や商戦に勝ち残ってこその「思想」だと言えなくもない。紙くずは紙くずだと。週末を迎えるたびに書斎を整理していると、「どの本を残し、どの本は棄てるか」という、著者の努力を踏みにじるようで目を背けたくなる選択肢が否応なく迫ってくる。

いつものことながらオチも結論も知らないまま見切り発車で書き始めたことだが、いま書いていることにタイトルを付けるとしたら「本棚にきれいに収まる本だけが真理の書ではない」だなといったん考えて、その後に「。が、しかし」と付けたくなった。揺れる想い、体じゅう感じて(ザードさんの歌詞だ)。

2017年1月25日水曜日

これというあれがなくて

今夜いただいた妻手作りのシュウマイも本当に美味しかった。いつもの高知県馬路村ポン酢醤油でいただいた。美味しい美味しいと言いながら家族みんなで味わった。SNSのリア充書き込みを見ると不快になる人が半数以上いるらしい。すみませんすみません。せめて言わせて幸せですと(それ前も使った)。

半世紀ごえの年齢のせいだろうか自分に固有の形容詞がないのを寂しく思うことがある。住所も職場も所属教団も比較的時間の短い単位で変動してきたし、どれもこれも中途半端なので、いい歳なのに「○○の関口」と言ってもらえるものがない。旅行自体は苦手なので「旅人の関口」とかは呼ばれたくないし。

しかしひょっとすると私の形容詞は結局「日本基督教団の関口」かもしれないことをそろそろ観念せねばならないかもしれない。「新人教師」のくせに生意気ですが。日本キリスト改革派教会の教師だった19年間も大会や中会の正規の委員会から何度となく「日本基督教団について」私に問い合わせがあった。

2017年1月23日月曜日

「反知性主義の時代」を反転させる力は知性にしかない

やっぱりもうゼンゼン違うもんね。説教であろうと授業であろうと、これについてはカルヴァンのあの本から引用したいとか、あれはどの本の言葉だっけとか思いつくままに、さっ、ぱっ、ほっで引用できちゃうもんね。書斎の本棚が片付いていることは偉大だ。ハードディスクのデフラグってやつですよね。

もうなんだろ。「教会」と打とうとするたびに「虚迂回、虚迂回」と変換するグーグル日本語入力。と愚痴を書こうとすると「打とうとするたびに」を「ウトウトするたびに」と変換するグーグル日本語入力。文句でもあるのとキレ気味に言いたくなるグーグル日本語入力。疲れているのかなあ。冷静になろう。

叱られるかもしれないが、今が「反知性主義」が跋扈し、知性が現実の職を得られないないし失っている時代であるとしても、それを反転させる力は知性にしかないのだから、知性がんばれと言いたくなる。三人寄れば文殊の知恵なんでしょ。まず三人寄ろうか。あと、ペンは剣より強いんでしょ。知らんけど。

それと何の慰めにもならないことを書くが、知性の報酬というのは、古来「死後」とか「めっちゃ苦労した後」とかに受け取るものではないのかと。スピノザとかヘーゲルとかの伝記を読んだことがありそうな方々を意識して書くが。知名度を活かしてどんと売るとかは知性的でないような(負け惜しみくさい)。

たとえばこういうの。

「ヘーゲル自身はテュービンゲンでの補習教師の職を考えていたが、しかしヘルダーリンは、この友人[ヘーゲル]が靴墨やポマードで商売する以外にはどうしようもなくなったときしか、この墓場[?]に埋もれるべきではない、と考えた。」
ディルタイ『ヘーゲルの青年時代』久野、水野訳、以文社、1976年、56頁。

ここもヘーゲルの青年時代のリアル。

「1797年1月に彼[ヘーゲル]はフランクフルトに到着した。ゴーゲル家はロスマルクトの豪華な家に住んでいた。この家庭教師[ヘーゲル]は二人の子供の勉強をみた。彼の家族に対する関係は快いものであったし、報酬もよかった。(中略)しかし、ヘーゲルの憂愁はここでも和らぐことはなかった。生活状態の重荷が相変わらず彼を苦しめていた。」
ディルタイ、同上書、57頁。

2017年1月22日日曜日

信仰でしか開かない扉(千葉若葉教会)

ヘブライ人への手紙11章17~19節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

今日はヘブライ人への手紙を開いていただきました。中身に入っていく前に、この手紙の緒論的なことについて、いくつかのことを申し上げておきます。

1つめは、この手紙の著者はだれかという問題です。そもそもこの手紙のどこにも差出人の名前が記されていません。ですから、この手紙の著者は不明であると言えば済むことです。しかし1箇所だけですが、パウロの弟子の「テモテ」の名前が出てきます(13章23節)。それでパウロが書いたものかもしれないと考える人はいます。しかし、かなり以前から言われているのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡ではないということです。16世紀の宗教改革者カルヴァンもパウロでないと考えています。

2つめは、たとえこの手紙の著者がパウロでないとしても、だからといってパウロ書簡よりも価値が低いとか、読む価値がないというような考え方をすべきでないということです。私はどちらかといえばそのように考えてしまうほうの人間ですので、自戒をこめて申し上げておきます。大昔からパウロ書簡であると言われていたものが最近の研究によって「これはパウロの偽名書簡である」などと言われると、私はがっかりします。急に価値が低いものになったような気がします。しかし、重要な問題は「誰が書いたか」よりも「何が書かれているか」です。

もともとヘブライ人への手紙をパウロ書簡だと考える人はほとんどいませんでしたので、どうしても今日話さなければならないことではないかもしれません。とにかく申し上げたいのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡より価値が低いとか読む価値がないというような見方をするのは偏見に満ちていて間違っているということです。

3つめは、この手紙の中で歴史的に最も危険視されてきたのはどの箇所かです。それは6章4節から6節までに書かれていることです。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。

ここに確かに書かれているのは、「一度救われた人がその後堕落したら、その後に悔い改めることはもはや不可能である」という意味のことです。それは間違っているのではないかと言われてきました。そのように言われるなら、イエスの教えにもパウロの教えにも共通する「神の無条件の赦し」という点と著しく矛盾することになるのではないかと考える人が出てくるのは、ある意味で当然です。

しかし、この点についても、カルヴァンは、この箇所(6章4節以下)を理由にヘブライ人への手紙を退けるべきではないと述べています。なぜカルヴァンを引き合いに出すのかといえば、カルヴァンの教えを広めたいからではありません。この議論は大昔からあり、16世紀にもあり、いまだに十分な解決に至っていないものの、かなり解決済みの問題であるということをご理解いただきたいからです。

カルヴァンは次のように書いています。「要するに、使徒は私たちに、悔い改めは人間の意志によるものではなく、神が信仰からすっかり堕ちてしまってはいない人々にだけ与えたもうということを諭すのである。この諭しは私達にはひじょうに有益である。一日また一日と延期することによって、私たちがますます神から遠ざかることのないためであるから。(中略)もし、だれかその滅びから立ち上がる者がいたら、その点では他の点で大きな罪を犯していたにしても、全く反逆してしまったわけではないと言うべきである」(『カルヴァン新約聖書註解Ⅷヘブル書・ヤコブ書』久米あつみ訳、新教出版社、1975年、152~153頁)。

途中で省略した箇所には、人間の回心は並大抵のわざではない、神のわざであると記されています。つまり、カルヴァンが言っているのは、悔い改めも回心も人間の努力ではなく、神のみわざであるということです。

わたしたちの教会の現実に照らし合わせていえば、たとえば、あの人は何年も教会に来ていないし、連絡もとれなくなっているし、「私はもう信仰を捨てた」と自分で言っているのだから、そういう人はもう救われないのだ、滅びに至るのだなどと安易に考えてはならないということです。

私の過去の牧師としての経験の中で出会った人の中に、こういう方がおられました。「私は20歳で洗礼を受けました。しかし、その後50年教会から離れていました。しかし、その50年間、教会のことを忘れたことはありませんし、信仰を失ったことはありません。もう一度教会生活を始めたいです」と言われ、復帰願いを出されました。

その意志を教会として受け容れました。その方は、その後はとても忠実な教会生活を送られました。人の目で見れば50年も教会を離れている人にはもはや信仰がないと見えるでしょう。しかしそういう見方をしてはいけません。だれが堕落した者かを見分けることは人間には不可能だからです。

ある意味で最も分かりやすい見分け方は、教会生活を続けているかどうか、日曜日の礼拝への出席を続けているかどうか、教会の献金を続けているかどうかかもしれません。それを続けていないから、あの人はもう堕落したのだ、あの人は天国に行けないのだなどという考え方がもし正しいなら、「教会とは行為によって救われることを教える団体である」ということを自ら主張しているのと同じです。礼拝出席という行為、献金という行為を怠っている人は救われないというならば。

しかし、聖書の教えはそういうものではありません。ヘブライ人への手紙の教えもまた、そういうものではありません。むしろ逆のことを言おうとしています。

ここまでお話ししたうえで、今日開いていただいた箇所の解説に入っていきます。ただ、これからお話しすることは、今の話の流れの続きです。3つカウントしました。4つめを申し上げます。

4つめは、ヘブライ人への手紙はどこが面白いかです。挙げていけばいろいろあります。しかしその中のひとつだけ言えば、ヘブライ人への手紙と呼ばれるだけあって旧約聖書がとても強調されていて、いわば旧約聖書の解釈に基づく説教のように読めることです。実際に、この手紙はいわゆる「手紙」ではなく「説教」であると考える人もいます。

今日開いていただいた箇所も説教です。新共同訳聖書が「信仰」という小見出しを付けている11章のすべてを本当は読みたいと思いましたが、長いので一箇所だけ読みました。アブラハムが神の命令で息子イサクを犠牲の供え物として献げる物語は、旧約聖書の創世記22章に出てきます。その物語の解釈に基づく説教が今日の箇所に記されています。

つまり、いま私が強調して申し上げたいのは、今日の箇所に記されているのはあくまでもひとつの解釈であるということです。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(19節)と記されていますが、そのようなことは創世記22章にはどこにも書かれていません。実際の文字としては書かれていないことについて、ヘブライ人への手紙の著者が想像して書いたのです。別の解釈も可能ですし、別の解釈は必ず退けなければならないわけでもありません。

「何を言っているのだ。ヘブライ人への手紙は新約聖書の権威ある正典だ。正典たる書物が示している旧約聖書の解釈は絶対的に正しいのであって別の解釈はありえない」という批判が出てくるかもしれませんが、そういう考えに立つ必要はないという趣旨のことを今申し上げています。

しかし、「これはあくまでもひとつの解釈である」ということを私がいま強調しているのは別の解釈を持ち出して主張したいからではなく、むしろ逆で、今日の箇所に記されていることは、これはこれでひとつの解釈として受け容れるべきだということを申し上げたいからです。

ヘブライ人への手紙の著者が11章全体で言おうとしていることの要点は「何が信仰なのか」ということです。最初に定義が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(11章1~2節)。

自分自身が望み、希望、願い、祈りとして抱いているが、まだ見ていない。将来的には実現するかもしれないが、眼前の事実としては全く見えないし、具体的な姿を想像することすら不可能であると思うようなことは、わたしたちにもいくらでもあるでしょう。しかし、それが必ず実現するということを確信すること、それが「信仰」だということです。

アブラハムがイサクを神に献げた物語の内容は、話としてひどすぎます。神がアブラハムに星の数ほど子孫を与えると約束してくださったのに、アブラハムと妻サラの間に生まれた子どもはひとりでした。しかも、そのひとりの子どもを献げろと神が命じました。つまり殺せと命じました。

意味不明すぎて頭が混乱します。人間の論理は完全に崩壊します。自己破綻します。「たくさん子孫が与えられること」と「眼前のひとりごをその親自身が殺すこと」という絶対的に矛盾するふたつの命題が同時に提示され、それが両立するといくら言われても、それを受け容れることは通常無理です。

しかし、それをアブラハムは受け容れました。そこで人間の論理を放棄しました。「神が何とかしてくださる」というような信じ方をしました。しかし、それもまた、ある意味で人間の論理です。もし「神」がいなければ絶対に成り立たない論理ですが、逆にもし「神」がいるならば成り立つ論理です。人間の論理を超える神の論理、つまり「超論理」です。

「そんな危なっかしい考え方の人とは付き合えない。いつも賭けごと、ばくちをしているようなものではないか」と嫌われるかもしれません。しかし、そこで考えてみる必要があるのは、それならば人間の計画や計算がどれほど確実なものなのかということです。なんら確実ではありません。

アブラハムには神に逆らう選択肢がなかったわけではないし、そのほうが人道的に正しかったかもしれません。しかしアブラハムはそうしませんでした。「信仰でしか開かない扉」があることを知っていたからです。その扉を開けるにはおそらく「勇気」が必要ですが、その扉の向こうに進むべき未来があります。

(2017年1月22日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年1月21日土曜日

書斎のアイテム

ワンクリックがダブルクリックになり、いろんな記事に「いいね」を押しても取り消されるので、「いいね」連打。そのたびに通知をたくさん送るご迷惑をおかけしていた旧マウスの後任マウスを本日購入した。「本日より配属されたマウスです。よろしくお願いいたします」と挨拶してくれた。実力は未知数。


もう日が暮れたのか。明日の説教の準備がちっとも進んでいない。


今日購入したマウスの調子が良くて安堵。コーナン柏中新宿店で税込842円。今の自宅(借家)に入居後まもなく集合住宅ゆえ電波障害が起こりやすいことが判明して以来、マウスもキーボードもLANも全有線化。LANはPLC(電力線通信)で隣室の親機から有線接続。


今の自宅(借家)に入居後まもない頃、集合住宅ゆえの電波障害に苦しんだ末に導入したPLC(電力線通信)の子機はこれ。スイッチ切り替えにより親機としても使用可能。現在4機(親1、子3)使用してわが家の全PCのLANを有線化。PLC導入から1年経過したが、接続障害に悩むことはなかった。

新メンバーのマウスくんを迎えて喜んでいるのは旧メンバーたち。「これからよろしくね」と言っているのは、もう何年使っているか分からないほど長い付き合いのビデオ通話用マイク付きウェブカメラ。カールツァイス社製レンズ採用。「わ、すごくきれいに見えるんだけど」とみんなに言ってもらえる良品。

「ようこそマウスくん」と言っているのは、これまた長い付き合いの大型スピーカー。デジタルのクリアな音を迫力あるヴォリュームで再生できる。ガーネット・クロウさんの曲は当然いつもこれで。「午前5時です!朝ですよ!起きてください!」と毎朝騒ぐしゃべる目覚まし時計のおっさんロボ声もこれで。

「次の仕事」を生み出すネット

へぇ~ボタン(トリビアの泉)
SNSのカリスマ論客にはなりたくないが、情報の体系をネット上に構築したいとは思う。そういうのが「次の仕事」を生み出す。ギリシア語ができる人は「私訳アリストテレス全集」をネットで無料公開すれば然るべき人の目にとまる。簡単に言うなと言われるかもしれないが、もちろん簡単ではありえない。

「私訳聖書」などはどんどん出てくればいいと思う。自分の翻訳でひと儲けしてやろうという野心でもあれば話は別だが、私訳のネット公開の自由はあるはずだ。だれもとがめはしないし、とがめる理由がない。聖書の原典テキスト(写本は無数にある)そのものは、もはや著作権を主張することはないだろう。

説教原稿を公開することも「情報の体系をネット上に構築すること」に該当する要素を含んでいるが、そうする場合は引用元の文献名や頁番号などを詳細に書くほうがよい。そういうのが「他の人に役立つ資料提供」になる。ネットで説教を読む人の多くは、その人自身の説教づくりの資料探しに追われている。

あれこれ考えているうちに、いつの間にか眠っていた。朝まで目を覚ますことはなかった。気がつけば、パソコンが、部屋や机のライトが、エアコンが、どれもこれもつけっぱなし。ガーネット・クロウさんの曲は流れっぱなし。家族は仕事や私用。私は明日の礼拝の説教準備。よくねたので、体調はいい感じ。

2017年1月19日木曜日

個人の趣味も長く続ければ何かにはなる

ファン・ルーラーに関する拙論を掲載していただいた雑誌
私がネットに自分のことしか書かないのは、自分のことしかしていないからではなく自分のことしかネットに書けないからであるということを一応書いておかなければ、ネットだけでお付き合いしている方々にまるで私が常に自分のことしかしていないかのように誤解される可能性があるので、一応書いておく。

それにしても、今ほどまでに教会からも学校からも組織神学への関心が失われている只中に呆然と立ち竦んでいると、組織神学は個人の趣味でしかないと見られているのかもしれないという疑念が確信に変わる。現実の組織神学は「書斎の本の並べ方の順序の研究」のようなものかもしれないが、まあそれでも。

組織神学のすべてがそうだという意味ではないが、私が関心を抱くようなタイプの組織神学は、出版社の経営危機を救うほどに飛ぶように売れるようなものではないし、学校や教会を人気スポットにするほど魅力的な内容でもないので、「個人の趣味然」とした紹介の仕方や営み方を細々と続けていくしかない。

そのようなことをずっと続けても鳴きもしないし飛びもしないものだと自分でも分かっているつもり。まあでも、人類史の中から完全に失われるようなことがあってはならない息の長い営みではあるだろうと、自分に言い聞かせている。20年研究を続けてもタテに立つ厚さの本にならない怠慢を許してほしい。

しかし小さな声で言いたいのは、私の仕事上の資格や免許(車の運転免許を除く)のいわば唯一の根拠は「大学と大学院で組織神学を勉強したことがある」ことだったりはする。そこから数えれば30年、ファン・ルーラーに特化した研究の開始時から数えれば20年。個人の趣味も長く続ければ何かにはなる。

「ファン・ルーラーの著作」のアドレスを変更しました

拙ブログの「ファン・ルーラーの著作」ページのアドレス(URL)を変更しました。旧アドレスは削除となります。画像データを増やしました。これからもよろしくお願いいたします。

ファン・ルーラーの著作
http://yasushisekiguchi.blogspot.com/p/vanrulerjp.html


『カイパーのキリスト教的文化の理念』(1939年)
『宗教と政治』(1945年)
『政治は聖なる事柄である』(1946年)
『よみがえれ喜びに』(1947年)
『ヴィジョンと展望』(1947年)
『国家と啓示』(1947年)
『律法の成就』(1947年)
『夢と形』(1947年)
『神の国と歴史』(1947年)
『新しい教会規程における告白教会』(1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』(1948年)
『被われた存在』(1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』(1952年)
『特別職と一般職』(1952年)
『百年後の司教杖』(1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』(1953年)
『われらの父よ』(1953年)
『世にかかわる勇気を持て』(1953年)
『中高等教育のキリスト教化』(1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』(1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)
『政府とヒューマニズム』(1955年)
『司牧書簡の背景』(1955年)
『安心して楽しみなさい』(1955年)
『世界においてキリストが形を取ること』(1956年)
『最も大いなるものは愛』(1957年)
『プロテスタンティズムと動物保護』(1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』  (1958年)
『教会の政治的責任』(1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 (1965年)
『人生の愚かさ』 上巻(1966年)
『人生の愚かさ』 下巻(1966年)
『神学における人間性』(1967年)
『われ信ず』(1968年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第1巻(1969年)
『ファン・ルーラー神学論文集』第2巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第3巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第4巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第5巻
『ファン・ルーラー神学論文集』第6巻(1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』(1969年)
『聖書との交わりの形成』(1970年)
『なぜ私は教会に通うのか』(1970年)
『使徒の権威において』(1971年)
『喜びをもって信じる』(1971年)
『マルコ14章』(1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』(1972年)
『祝祭としての人生』(1972年)
『死は打ち負かされた』(1972年)
『幼子のように喜ぶ』(1972年)
『切り口鋭く』(1972年)
『詩編を物語る』(1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
『輪舞』(1974年)
『マルコの歌』(1974年)
『待望と成就』(1978年)
『炎のような舌』(1980年)
『日々の黙想』(1989年)
『ファン・ルーラー著作集』第1巻 神学の本質(2007年)
『ファン・ルーラー著作集』第2巻 聖書と啓示(2008年)
『ファン・ルーラー著作集』第3巻 神、創造、人間、罪(2009年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻上 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第4巻下 キリスト、聖霊、救済(2011年)
『ファン・ルーラー著作集』第5巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第6巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第7巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第8巻(未刊)
『ファン・ルーラー著作集』第9巻(未刊)
『創造から神の国まで』  (2008年

2017年1月15日日曜日

古本屋でもカオスでもない私の書斎

拙ブログにも楽屋裏があり、どの記事にどれだけアクセスがあったかが分かる。各記事のアクセスは少ない。寂しくはない。世と人に役立つことを書いていないので当然だ。なるべく目立たないことを書こうと意識している。騒ぎになることは絶対書かない。


古本屋ではない。私の書斎。カオスではない。多様性。


増強の願いはある。たとえばシュライアマハー。今あるのは『宗教論』(日本語2種)、『独り語る』(日本語2種、英語)、『解釈学の構想』、渡邊泰三『シュライエルマッヘル』、A. A. Vogelsangの博士論文『シュライアマハーの説教』(オランダ語、1916年)。もうちょっと欲しい。


カール・バルトの(「についての」含む)本は180×90cmの本棚の奥側をすべて提供しても足りず、前側まで要求してきた。さすがは前世紀「最大」の神学者だ。『教会教義学』の英語版は持っていない。デジタル版には興味ない。バルト関係の蔵書リストは作っていないが、そろそろ必要かもしれない。

そう。こんなに邪魔な存在でも紙の本の蒐集にこだわり、デジタル版に興味ない理由は、本は内容だけがデータではないからだ。本の存在そのものがデータだ。どうしてこういう装丁なのか、どれくらい邪魔な存在かも重要なデータ。写真を撮ればある程度のイメージは保存できるが、撮影者の主観にとどまる。

勝田台教会の主日礼拝に出席しました

今日(2017年1月15日日曜日)は日本基督教団勝田台教会(千葉県八千代市勝田台北3-13-5)の主日礼拝に出席させていただきました。少し(いやかなり)遅刻してしまって申し訳なかったのですが、水谷勤牧師はじめ教会の皆さまがとても温かく歓迎してくださいました。ありがとうございます。

2017年1月14日土曜日

週末は「また」または「まだ」書斎整理

某社から書評依頼を一昨日いただいた新刊書の原著ドイツ語版を昨日の昼休みにアマゾンで注文したら24時間以内に自宅(借家)に届いたことに、ひたすら驚愕している。このウルトラハイスピード社会に全くついていけていない。恩恵を享受しているものの血圧の上昇を感じる。いやべつに血圧は関係ない。


週末は「また」または「まだ」書斎整理。左上から。すべて奥側。一列目プラトン、アリストテレス、フィヒテ、ヒューム、カント、ヘーゲル、デリダ、レヴィナス、ハーバーマス、ジンメル、フルキエ、ホルクハイマー、宗教学、政治学、社会学。二列目聖書学。三列目トレルチ、ヴェーバー、キリスト教史。


依然平積みだった本を整理中、昨冬お世話になった本を掘り出した。昨年すでに50歳だったので人生最初で最後の更新だった。25年どこに行ったか分からない状態で放置していた教員免許状のほこりをはたいて使うことになったのは神の恩寵としか言いようがない。更新講習修了認定試験は緊張しまくった。


15年も更新していない中学と高校の同窓会名簿。悪い卒業生で申し訳ない。


書斎がすっかり片付いたので、今夜も安心して眠れそうだ。

2017年1月12日木曜日

うれしいことがありました

2017年1月12日午前6時40分、自宅(借家)にて撮影
いま気づいた。20年前の今日(1月12日)は日曜日だった。日本基督教団の教師として最後の説教をした。20年後の私は日本基督教団の教師である。「分かってくれとは言わないが~」という歌をなぜか思い出す。「神さまのお導きですね~」とあまり言われたくない。途中を省いた結論はそれでいいが。

今月で拙ブログが9周年を迎えたことも忘れていた。2008年1月1日に開設した。早くやめるつもりだった。1997年から始めたファン・ルーラーの翻訳の「翻訳調」を脱したく流暢な日本語を書けるようになるための練習帳だった。ブログをやめられないのは、いまだに流暢な日本語が書けないからだ。

今日うれしいことがあった。新刊書の書評の依頼を何年かぶりに受けた。もちろん即答で受諾した。そういう世界からは完全に忘れ去られたと思っていた。そういう世界に加えていただいたと実感したことは一度もないが。「軽薄だ」なんだと私を叩く人がいることを知っている。よく分かっているではないか。

2017年1月10日火曜日

「書斎の本の説明」への追記

このたび書斎の本を本棚に並べてみた感じでいえば、A5判ハードカバーの本1冊を500グラムとすれば、ひとつの本棚に前後入れれば(ひとつの棚に2列置く)120冊入るので500グラム✕120冊=60キロ。ハードカバーの本ばかりではないので、本棚1台につきざっと50キロの本があるとする。

その本棚をこのたび6.5台(うち半分量のもの1台)揃える。50キロ✕6.5台で325キロ。あとは押し入れにしまったのが150キロから200キロの間くらいありそうなので、全部でざっと500キロちょっと。「推定1トン」と言い続けてきたのは大げさすぎる目分量だったことになり申し訳ない。

500キロちょっとなら、私が5人と半分くらいいるだけなので、大したことない。むしろ安定感が出てしっかりすると思う。それと本棚そのものが1台28キロなので、180キロほど加わる。全部でざっと700キロ。私が8人いるだけだ。大したことない。床なんて抜けるわけない(だんだん自信ない)。

書斎の本の説明


画像の説明、左上から。一列目古代教父、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、リュースブルク、ルター、カルヴァン、ウェスレー、二列目バルト、三列目ノールトマンス、ミスコッテ、ベルカウワー、ティリッヒ、ボンヘッファー、カイパー、バーフィンク、四列目ファン・ルーラー、現代神学、辞書類。

ノールトマンス(Noordmans)、ミスコッテ(Miskotte)、ファン・ルーラー(Van Ruler)は、20世紀オランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)の「三大神学者」(derde grote theoloog)と呼ばれている存在。

ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラーが20世紀に属した「オランダ改革派教会」(NHK)は今は存在しない。もうひとつのオランダ改革派教会(GKN)とオランダ福音ルーテル教会とNHKが合同して「オランダプロテスタント教会」(PKN)として現存する。「三大」神学はPKNに継承。

「改革された(英語でもドイツ語でもオランダ語でも過去形で表現する)教会」を名乗るかぎり16世紀に縛られているイメージを保持し続けてしまう。「プロテスタント教会」だって何かにプロテストしていると言いたいのだろうと見られてしまうかもしれないが、歴史的名称としては他に名乗りようがない。

プロテスタント教会の神学は、カトリック教会、オーソドックス教会に次ぐいわば「第三の」神学なので、すべてをカバーしうるような蔵書は個人的には不可能であるにしても、どうしても相対的に蔵書量が多くなってしまうと言えると思う。「第三の」神学は前二者を「包括する」という自負を持つがゆえに。

1月5日(木)千葉県北西部(現住所の柏市含む)震度3以上(震源地福島M5.8)でピクリともしなかった。東日本大震災のとき千葉県北西部は震度4だが、当時の住所地(松戸市)の本棚から1冊も本は落ちなかった。震度5以上の経験はないが、その場合はうちだけではなく首都圏全体の問題だと思う。

説教もまた「言葉」であるかぎり、それなりの結果責任は生じるので、何らかの根拠に基づいて語らざるをえない。それが蔵書が増えていく理由。単なる蔵書趣味ではないつもり。

2017年1月9日月曜日

書斎の本棚の大幅な並べ替えをしました

今日(2017年1月9日月曜日)は、先週金曜日の時点ではただランダムに突っ込んだだけだった書斎の本棚の大幅な並べ替えをしている。満を持して始めたものの、片付けているのか散らかしているのか分からない状況がえんえんと続いている。だが、そろそろ時間切れだ。このままだと寝るところがない。


とりあえず寝られる場所は確保できたので書斎整理終了。今日で休みは終わり。明日から多忙。次の書斎整理は来年かも。地震の心配はしている。今日もひどく重い全3巻の『へメーネ・フラチー』という呪文の本が足に落ちて痛かった。『夜中にラーメンを食べても太らない技術』の本を久しぶりに見つけた。


今夜で終わる年末年始の休暇を振り返って思うのは、過去に例がないほど最も体を動かした休暇だったのではないかということだ。ほとんど書斎に引きこもりっぱなしだったが、1年前からの懸案だった書斎整理に取り組めた。これからはいろんな質問に迅速に対応できる。いちおうこれでも「先生」なので。

2017年1月8日日曜日

神があなたの行く道を教える(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章28~30節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日もよろしくお願いいたします。

豊島岡教会南花島集会所で前回説教させていただいたのが昨年11月13日ですので、2ヶ月前です。そのあいだに日曜日は7回ありました。それぞれ私がどこにいたかを明かします。

まず千葉市の日本バプテスト連盟の教会に3回。そのうち2回は私が説教しました。先週1月1日は千葉県いすみ市の日本基督教団上総大原教会で説教しました。元日の朝に片道200キロ離れた教会に車で行きました。残り3回は松戸市の日本基督教団小金教会、新松戸幸谷教会、そして千葉市の西千葉教会の主日礼拝に出席しました。

本来でしたら、どこかひとつの教会に落ち着いて、続けて礼拝に出席すべきであることは分かっています。ふらふらしているように思われるのは、よいことではありません。しかし、少しわがままな言い方をお許しください。今のような教会生活は、私にとって生まれて初めての貴重な経験なのです。

私は昨年11月に51歳になりました。51年、教会に通ってきました。前回申し上げたとおり、私の父は日本基督教団松戸教会で60年前に洗礼を受けました。母は岡山市内の日本基督教団の教会で洗礼を受けました。その両親の二男として生まれ、その後ずっと教会に通ってきました。そして高等学校を卒業してすぐに東京神学大学に入学し、大学院を卒えてすぐに日本基督教団の教師になりました。それが27年前です。当時は24歳でした。

それ以降はずっと教会で説教する立場にいました。それは他の牧師の日曜日の礼拝説教を聴く機会がほとんどなくなったことを意味します。しかし、今は違います。自分が説教を担当させていただく日曜日以外は、毎週違う教会に行き、他の牧師の礼拝説教を聴かせていただいています。それは私にとって大きな恵みです。そして私にとって貴重な学びの機会でもあります。

大きな声では言えないことですが、と言いながら大きな声で言っていますが、高校を卒業するまで18年も通った教会の牧師の説教は全く理解できませんでした。

それは単に私が子どもだったからだという面ももちろんあるとは思いますが、それだけではありません。そんなふうにだけ言うと、子どもをばかにしていることになります。中学生、高校生には聖書についても、あらゆるものごとについても十分な理解力があります。それは私がいま高校生を相手にしながら思うことでもあります。

その教会に18年も通いました。生まれたときから。私はその教会の附属幼稚園の卒園生でもあるのです。それでも全く理解できませんでした。何を言っているのかが分からなかったのではありません。納得できませんでした。内容を受け容れることができませんでした。教会に行くたびに「違う、違う、そうじゃない」と首を横にふり続けていました。

だから、自分が牧師になろうと決心しました。高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを決心した理由は、自分の眼前のこの牧師の代わりに私が説教すべきであると本気で思ったからです。そういうことを考える高校生もいるのです。

ですから私は、教会の説教が理解できないことで苦しんでいる人の気持ちがとてもよく分かります。深く同情します。

はっきり言っておきますが、説教が理解できないのは、聴く側の人の聴き方の問題ではありません。勉強不足だから、自分の知識が足りないから理解できないというのでもありません。100パーセント、説教者の側の問題です。これは感情に任せて言っていることではなく、厳密に考えて申し上げていることです。

どうしてそうだと言えるのでしょうか。それは、私の先生でもある加藤常昭先生が、私が東京神学大学の学生だった30年前から言っておられたし、その後もずっと加藤先生の十八番になっている話と関係しています。東京神学大学の先生たちの話は、私の心に深く刻まれています。

加藤先生が繰り返しおっしゃるのは、ゲアハルト・エーベリンクというドイツの神学者が、日本語版も出版されている『キリスト教信仰の本質』(飯峯明訳、新教出版社、第一版1963年、第二版1983年)という本の冒頭に書いていることです。

そこにエーベリンクが書いているのは「興味」という言葉の意味の説明です。英語のインタレスト、ドイツ語でもインタレッセです。それはラテン語のinter-esseである。そして、その文字通りの意味は「~の間にあること、そのそばにいること、その事柄のもとにあること、その事柄にかかわること」であると書いています(同上書11ページ)。

そのうえでエーベリンクが続けていることを加藤先生がまとめておっしゃいます。それは、何かに興味や関心を持つことができるかどうかは、結局のところ「自分に関係があるかどうか」に尽きるということです。

高校で授業をしていると、てきめんに分かります。生徒は「自分に関係ある」と感じているところでは目を覚ましています。「自分に関係ない」と感じた瞬間から居眠りを始めます。教壇から見ていると、とてもよく分かります。全員が目を覚ますときがあります。それは「これはテストに出ます」と言うときです。テストと無関係な生徒は、学校にはひとりもいないからです。

エーベリンクの言葉を一箇所だけ引用させていただきます。愛とは何か、死とは何かなどのことが問題になっているときに、人の心の中に起こる反応について書いているところです。

「このような問いを取り扱うとき、たといわたし自身があらわに話題になっていないときでも、事実的にはわたし自身が話題になっているのと全く同じことが、語られていることになる。つまり、そこでかかわってくる問いは、わたし自身につき当たっている問題であるからであり、わたし自身がそれらの問いの中で現われてき、そこでわたし自身が問われているからである」(同上書、12ページ)。

この中に出てくる「わたし自身につき当たっている問題」というのは、今の若者ことばの「刺さる」です。べつに若者だけが使っていることばでもないのですが、若者たちが使う場合は「グッと来る」というような意味です。グッと来る言葉や、グッと来る音楽が「刺さる」と言います。

それは「自分に関係ある」ということです。「私の話をしてくれていると感じる」ということです。そのときに興味がわく、関心を抱く。興味や関心とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。

私が高校生のときに考えたことと、エーベリンクの話がストレートに結びつくわけではありません。しかし18年聴き続けても理解も納得もできなかった説教は、私の心には「刺さり」ませんでした。

そういうわけで、私はいま教えている高校生の中からぜひ私と同じ志を持つ生徒が出てきてくれることを願っています。いまお笑いになった方は、私が言おうとしていることがお分かりになったからでしょう。

そうです。私がワケの分からない授業とワケの分からない説教を続ければ、「あの教師を教壇から引きずり下ろして自分が聖書の授業をする。チャペルの講壇から引きずり下ろして自分が説教をする」と言い出す生徒が出てきてくれるのではないかと期待しています。

しかし、今日はこのままずっと私の話だけしてこの説教を終わらせようとしているわけではありません。先ほど朗読していただいた聖書の箇所と今までお話ししたことが深い次元で関係していると思っているので、かなり長く自分のことを話させていただきました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と書かれています。

この箇所は時々誤解されるところがあるので、気をつけなくてはなりません。「御計画に従って召された者たち」とはキリスト者のことです。教会のことです。狭い意味で牧師、説教者になった者たちだけのことではありません。

その者たち、すなわちキリスト者のことを、神は「前もって知っておられ」、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)、そして「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった」(30節)とまで書かれています。

これだけを読むと、なんだかまるでベルトコンベアに載せられて自動的にキリスト者が製造される工場のようなものを思い浮かべる人が出てくるとも限りません。

すべては神の御計画。人間の側の意思も決断も一切関係なし。我々の悩みも苦しみもすべて神のたなごころ。手のひらの上でころころと転がされているだけ。我々が苦しんでいる姿を、山のあなたの空遠くから、神がニヤニヤ笑いながら見おろしておられる。そういうふうなイメージでとらえる人が出てくるかもしれません。

しかし、それは全く違いますから。そのような話ではありませんから。完全な誤解ですから。どうかご安心いただきたいし、もし誤解しておられるようでしたら考えを改めていただきたいです。

どう言えば理解していただけるのかは難しいところではあります。あまり説得力はありませんが、ひとつの点を言えば「神を愛する者」と書かれていることは重要です。

ベルトコンベア式で考えれば、我々は「神を愛する者」ではなく「神を愛させられている者」(?)と奇妙な受動形を使って言わなくてはならないでしょう。もしキリスト者の存在を、自分の意思が働く要素はなく、100パーセント完全に神のコントロール下で動かされているようにとらえるのであれば。

しかし、それは違いますから。全くの誤解ですから。そこに人の意思は必ずあります。決断も当然あります。我々自身の主体性があります。そこにはまた必ず葛藤があり、悩みがあります。

「万事が益となる」の「万事」に、それら一切が含まれます。「あの牧師を講壇から引きずり下ろさなければならない」という苦渋に満ちた決心が含まれます。その後の長年にわたる苦闘がすべて含まれます。

神がすべての道を備えてくださいます。わたしたちの行く道を教えてくださいます。しかし、その道の上を歩いていくのは、あくまでも私自身です。それらすべてが「共に働く」のです。

ローマの信徒への手紙8章28節は、私が高校を卒業して東京神学大学に入学することになったときに、私の母が送ってくれた言葉です。「この御言葉を大事にしなさい」と教えてくれました。

(2017年1月8日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)

2017年1月6日金曜日

書斎整理とりあえず完了

今日(2017年1月6日金曜日)でとりあえず書斎整理に一区切りつけることにした。思い立って動き始めたのが先週金曜日の12月30日だったので、一週間もかかった。ほぼ自室に引きこもりっぱなしの年末年始となった。少しは生活感が出てきたと思う。生息はしていたが、ちょっと進化した気がする。


2017年1月5日木曜日

スタンドの皆さん、アリーナを見守ってください!

2017年1月5日20時30分撮影
今日(2017年1月5日木曜日)も起床直後から、自宅(借家)書斎の整理をしている。週末も冬休みの終わりも近づいているので、今日でなんとか決着をつける。かくして今日も書斎は大混乱状態。「これは創造のための破壊なのだ」とか「これはルービックキューブなのだ」とか自分に言い聞かせている。

「しゃべる目覚まし時計」を利用するようになって、朝の目覚めもさることながら、時報をしゃべってくれるのがありがたい。一向に行動を起こせずどうするこうすると悶々とするばかりの中、無駄情報が多いのでかえって煩わしいテレビではない相手が時報をしゃべってくれると背筋が伸びる。やる気が出る。

「しゃべる目覚まし時計」が時報をしゃべってくれたので、背筋は伸び、やる気が出たが、あれれ力が出ない。「顔が汚れて力が出ない」はアンパンマンだが、顔は起きてすぐに洗ったぞ。そうか、朝から何も食べていなかった。何か食べなくちゃ。家族の冬休みは終わったので、さびしくひとりでお昼ごはん。

「今日でなんとか決着をつける」と書いたが、だんだん不機嫌になってきたので、書斎整理終了。製本組の偉い方々は全員スタンドに上がっていただいた。しかし、真の戦いはこれから。30年前からの自筆系未製本組が全部ある。パンドラの箱。砂上の楼閣。スタンドの皆さん、アリーナを見守ってください!

書斎の広さ(狭さ)の問題がもっぱらの理由ではあるが、このたび思い切って、「ファンダメンタリスト」の皆さまとの決別の意思をこめて「閉架送り」とさせていただいた。書斎の押し入れに押し込んだだけだが。ひもで縛って資源ごみに出すことまではできずにいる。それでも気持ちのうえですっきりした。

2017年1月4日水曜日

たこ焼きパーティーと書斎整理の一日

今日(2017年1月4日水曜日)も午前中からずっと、自宅(借家)の書斎の本の整理をしている。書斎内で散らばっていた遠い過去の哲学者や神学者の全集や、何巻もある長大な著書などを全部集めて巻数順に並べなおしていると、「分霊箱を集めてヴォルデモートを復活させようとしている」錯覚に陥る。

(♫ ラスボス出現の曲~)
だれじゃ、わしの本を分霊箱だ、わしをヴォルデモートだ言っておるのは。


うちでたこ焼きパーティー。ウィンナー焼きや、モチーズ焼き(おもちとチーズ)も。くるりんぱと上手に焼いてくれたのは妻と娘。ありがとう。


たこ焼きパーティーで心が満たされて、書斎の本の整理を続ける気力がなくなった。本棚をさらに追加購入しに行かなければと考えていたが、今日はあきらめた。ただ、こういうことは休み中しかできないのであまり悠長でいられない。平積みカオス状態の本は役に立たないが、きちんと並べるだけで生き返る。


本日の書斎の本の整理作業はこれにて終了。現在21時。60パーセントというところか。でもゴールのイメージがかなり見えてきた。ナニずっと付き合ってきた本だ。住む場所、置き場所が変わっただけでガタガタ言うな。1年間ばらばらのまま放置して申し訳ない。これからは自由に遊んでもらえるだろう。


我々の職務にとって重要なことは、部屋がきれいに片付いていることそれ自体ではない。その時々に必要な情報を得るために、信頼すべき情報源にいかにスムーズにアクセスしうるかである。ヤン・ファン・セキ・グーチ


いまはっと気づいたが、うわあ、今日はついに家の玄関の外に一歩も出なかった。風呂に入って、下着を着替えて、ひげを剃ったのに。今日したのは、家族でたこ焼きパーティーと、書斎の本の整理だけだ。それを写真にとってフェイスブックとツイッターで報告しただけだ。なんという一日。でも楽しかった。

2017年1月3日火曜日

夜露死苦

今日(2017年1月3日火曜日)の午後は近所のホームセンターで新しい本棚を買い、書斎の本の整理に取り組んだ。片付いたとはとても言えないが、15時から21時まで6時間立ちっぱなしで続けたので疲れた。これにて作業を終了する。その間もずっとガーネット・クロウさんの曲に励まされていた。

今日がんばって片付けたので、1年前の入居後初めて6畳間の半分の畳を見ることができた。それがうれしくて写真を撮りまくっている。四半世紀かけて購入した本はこれだけ。牧師の中では少ないほうだ。自慢げに言うが厳選して購入してきた。ほとんど古書で購入。新本を定価で買ったことはほとんどない。


安かったらしく家族が都内のデパ地下でいろいろお惣菜を買ってきてくれたので、これでみんなで夕食。なかなか美味しかった。妻の料理のほうが美味しいと思ったが。正月気分も今日までは許されていいだろう。そろそろ切り替えていかなくては。休みが終わり次第いきなりエンジン全開するので。夜露死苦。