2017年1月8日日曜日

神があなたの行く道を教える(豊島岡教会南花島集会所)

ローマの信徒への手紙8章28~30節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。今日もよろしくお願いいたします。

豊島岡教会南花島集会所で前回説教させていただいたのが昨年11月13日ですので、2ヶ月前です。そのあいだに日曜日は7回ありました。それぞれ私がどこにいたかを明かします。

まず千葉市の日本バプテスト連盟の教会に3回。そのうち2回は私が説教しました。先週1月1日は千葉県いすみ市の日本基督教団上総大原教会で説教しました。元日の朝に片道200キロ離れた教会に車で行きました。残り3回は松戸市の日本基督教団小金教会、新松戸幸谷教会、そして千葉市の西千葉教会の主日礼拝に出席しました。

本来でしたら、どこかひとつの教会に落ち着いて、続けて礼拝に出席すべきであることは分かっています。ふらふらしているように思われるのは、よいことではありません。しかし、少しわがままな言い方をお許しください。今のような教会生活は、私にとって生まれて初めての貴重な経験なのです。

私は昨年11月に51歳になりました。51年、教会に通ってきました。前回申し上げたとおり、私の父は日本基督教団松戸教会で60年前に洗礼を受けました。母は岡山市内の日本基督教団の教会で洗礼を受けました。その両親の二男として生まれ、その後ずっと教会に通ってきました。そして高等学校を卒業してすぐに東京神学大学に入学し、大学院を卒えてすぐに日本基督教団の教師になりました。それが27年前です。当時は24歳でした。

それ以降はずっと教会で説教する立場にいました。それは他の牧師の日曜日の礼拝説教を聴く機会がほとんどなくなったことを意味します。しかし、今は違います。自分が説教を担当させていただく日曜日以外は、毎週違う教会に行き、他の牧師の礼拝説教を聴かせていただいています。それは私にとって大きな恵みです。そして私にとって貴重な学びの機会でもあります。

大きな声では言えないことですが、と言いながら大きな声で言っていますが、高校を卒業するまで18年も通った教会の牧師の説教は全く理解できませんでした。

それは単に私が子どもだったからだという面ももちろんあるとは思いますが、それだけではありません。そんなふうにだけ言うと、子どもをばかにしていることになります。中学生、高校生には聖書についても、あらゆるものごとについても十分な理解力があります。それは私がいま高校生を相手にしながら思うことでもあります。

その教会に18年も通いました。生まれたときから。私はその教会の附属幼稚園の卒園生でもあるのです。それでも全く理解できませんでした。何を言っているのかが分からなかったのではありません。納得できませんでした。内容を受け容れることができませんでした。教会に行くたびに「違う、違う、そうじゃない」と首を横にふり続けていました。

だから、自分が牧師になろうと決心しました。高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを決心した理由は、自分の眼前のこの牧師の代わりに私が説教すべきであると本気で思ったからです。そういうことを考える高校生もいるのです。

ですから私は、教会の説教が理解できないことで苦しんでいる人の気持ちがとてもよく分かります。深く同情します。

はっきり言っておきますが、説教が理解できないのは、聴く側の人の聴き方の問題ではありません。勉強不足だから、自分の知識が足りないから理解できないというのでもありません。100パーセント、説教者の側の問題です。これは感情に任せて言っていることではなく、厳密に考えて申し上げていることです。

どうしてそうだと言えるのでしょうか。それは、私の先生でもある加藤常昭先生が、私が東京神学大学の学生だった30年前から言っておられたし、その後もずっと加藤先生の十八番になっている話と関係しています。東京神学大学の先生たちの話は、私の心に深く刻まれています。

加藤先生が繰り返しおっしゃるのは、ゲアハルト・エーベリンクというドイツの神学者が、日本語版も出版されている『キリスト教信仰の本質』(飯峯明訳、新教出版社、第一版1963年、第二版1983年)という本の冒頭に書いていることです。

そこにエーベリンクが書いているのは「興味」という言葉の意味の説明です。英語のインタレスト、ドイツ語でもインタレッセです。それはラテン語のinter-esseである。そして、その文字通りの意味は「~の間にあること、そのそばにいること、その事柄のもとにあること、その事柄にかかわること」であると書いています(同上書11ページ)。

そのうえでエーベリンクが続けていることを加藤先生がまとめておっしゃいます。それは、何かに興味や関心を持つことができるかどうかは、結局のところ「自分に関係があるかどうか」に尽きるということです。

高校で授業をしていると、てきめんに分かります。生徒は「自分に関係ある」と感じているところでは目を覚ましています。「自分に関係ない」と感じた瞬間から居眠りを始めます。教壇から見ていると、とてもよく分かります。全員が目を覚ますときがあります。それは「これはテストに出ます」と言うときです。テストと無関係な生徒は、学校にはひとりもいないからです。

エーベリンクの言葉を一箇所だけ引用させていただきます。愛とは何か、死とは何かなどのことが問題になっているときに、人の心の中に起こる反応について書いているところです。

「このような問いを取り扱うとき、たといわたし自身があらわに話題になっていないときでも、事実的にはわたし自身が話題になっているのと全く同じことが、語られていることになる。つまり、そこでかかわってくる問いは、わたし自身につき当たっている問題であるからであり、わたし自身がそれらの問いの中で現われてき、そこでわたし自身が問われているからである」(同上書、12ページ)。

この中に出てくる「わたし自身につき当たっている問題」というのは、今の若者ことばの「刺さる」です。べつに若者だけが使っていることばでもないのですが、若者たちが使う場合は「グッと来る」というような意味です。グッと来る言葉や、グッと来る音楽が「刺さる」と言います。

それは「自分に関係ある」ということです。「私の話をしてくれていると感じる」ということです。そのときに興味がわく、関心を抱く。興味や関心とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。

私が高校生のときに考えたことと、エーベリンクの話がストレートに結びつくわけではありません。しかし18年聴き続けても理解も納得もできなかった説教は、私の心には「刺さり」ませんでした。

そういうわけで、私はいま教えている高校生の中からぜひ私と同じ志を持つ生徒が出てきてくれることを願っています。いまお笑いになった方は、私が言おうとしていることがお分かりになったからでしょう。

そうです。私がワケの分からない授業とワケの分からない説教を続ければ、「あの教師を教壇から引きずり下ろして自分が聖書の授業をする。チャペルの講壇から引きずり下ろして自分が説教をする」と言い出す生徒が出てきてくれるのではないかと期待しています。

しかし、今日はこのままずっと私の話だけしてこの説教を終わらせようとしているわけではありません。先ほど朗読していただいた聖書の箇所と今までお話ししたことが深い次元で関係していると思っているので、かなり長く自分のことを話させていただきました。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と書かれています。

この箇所は時々誤解されるところがあるので、気をつけなくてはなりません。「御計画に従って召された者たち」とはキリスト者のことです。教会のことです。狭い意味で牧師、説教者になった者たちだけのことではありません。

その者たち、すなわちキリスト者のことを、神は「前もって知っておられ」、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)、そして「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった」(30節)とまで書かれています。

これだけを読むと、なんだかまるでベルトコンベアに載せられて自動的にキリスト者が製造される工場のようなものを思い浮かべる人が出てくるとも限りません。

すべては神の御計画。人間の側の意思も決断も一切関係なし。我々の悩みも苦しみもすべて神のたなごころ。手のひらの上でころころと転がされているだけ。我々が苦しんでいる姿を、山のあなたの空遠くから、神がニヤニヤ笑いながら見おろしておられる。そういうふうなイメージでとらえる人が出てくるかもしれません。

しかし、それは全く違いますから。そのような話ではありませんから。完全な誤解ですから。どうかご安心いただきたいし、もし誤解しておられるようでしたら考えを改めていただきたいです。

どう言えば理解していただけるのかは難しいところではあります。あまり説得力はありませんが、ひとつの点を言えば「神を愛する者」と書かれていることは重要です。

ベルトコンベア式で考えれば、我々は「神を愛する者」ではなく「神を愛させられている者」(?)と奇妙な受動形を使って言わなくてはならないでしょう。もしキリスト者の存在を、自分の意思が働く要素はなく、100パーセント完全に神のコントロール下で動かされているようにとらえるのであれば。

しかし、それは違いますから。全くの誤解ですから。そこに人の意思は必ずあります。決断も当然あります。我々自身の主体性があります。そこにはまた必ず葛藤があり、悩みがあります。

「万事が益となる」の「万事」に、それら一切が含まれます。「あの牧師を講壇から引きずり下ろさなければならない」という苦渋に満ちた決心が含まれます。その後の長年にわたる苦闘がすべて含まれます。

神がすべての道を備えてくださいます。わたしたちの行く道を教えてくださいます。しかし、その道の上を歩いていくのは、あくまでも私自身です。それらすべてが「共に働く」のです。

ローマの信徒への手紙8章28節は、私が高校を卒業して東京神学大学に入学することになったときに、私の母が送ってくれた言葉です。「この御言葉を大事にしなさい」と教えてくれました。

(2017年1月8日、日本基督教団豊島岡教会南花島集会所 主日礼拝)