2017年1月28日土曜日

本棚にきれいに収まる本だけが真理の書ではない

ヘーゲル『精神現象学』日本語版(左)と原著レクラム文庫版(右)
岩波文庫などの西洋思想系の本を書斎の本棚に番号順に並べながら改めて思うのは、紀元前のプラトン、アリストテレスと、いきなり18世紀のカント、ヘーゲルの間をつなぐ線として日本で紹介されてきたのは、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルターと続く「神学」だったようだ、ということだ。

哲学の方々からすれば、紀元前と18世紀の間がまるで「暗黒時代」や「空白期間」であったかのようにスルーされることは、ご不満ではないかと思う。本当はまだまだ面白い哲学者がいるに違いないし、すでに多く紹介されているのをただ私が知らないだけだろう。神学にしてもその状況は実はよく似ている。

函とハードカバーがついた「全集」や「著作集」として日本語版がある、西洋思想史に名を残す神学者は、多くない。単純に「売れないから」という理由はおそらく大きい。しかし、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルターの三段跳び(ホップ、ステップ、ジャンプ)の歩幅は数百年単位。途中がある。

しかし、その「途中」を掘り出す(という言い方は歴史を彩る偉大なる著述家の方々への不遜な言い方ではあるが)仕事というのは、言ってしまえば「売れない本」の翻訳や研究をすることを意味するので、損得勘定の視点からすれば結論は見えている。その取り組みが「就職に有利」に働く見込みもほぼない。

しかし、哲学にしても神学にしても、聖書やクルアーンや論語などにしても、それらの翻訳や研究そのものは、おそらく「目的」ではなく「手段」(ただし「不可避的な」)なのだと思う。その作業過程(それが過酷極まりないのだが)を経て「私の(ないし「我々の」)思想」を獲得するのが「目的」だろう。

そしてまた、当時の論争や政治や商戦に勝つことができず、歴史の中で埋もれた思想家がた(「埋もれたわけではない!」と地中から叫び声が聞こえてくる気が)こそが、苦心の末にたどり着いた「真理」を絶叫のうちに告白していた可能性は決して低くないことを思うにつけ、なんとも言えない気持ちになる。

しかし、不幸なマッチョイズムかもしれないが、論争や政治や商戦に勝ち残ってこその「思想」だと言えなくもない。紙くずは紙くずだと。週末を迎えるたびに書斎を整理していると、「どの本を残し、どの本は棄てるか」という、著者の努力を踏みにじるようで目を背けたくなる選択肢が否応なく迫ってくる。

いつものことながらオチも結論も知らないまま見切り発車で書き始めたことだが、いま書いていることにタイトルを付けるとしたら「本棚にきれいに収まる本だけが真理の書ではない」だなといったん考えて、その後に「。が、しかし」と付けたくなった。揺れる想い、体じゅう感じて(ザードさんの歌詞だ)。