2017年1月23日月曜日

「反知性主義の時代」を反転させる力は知性にしかない

やっぱりもうゼンゼン違うもんね。説教であろうと授業であろうと、これについてはカルヴァンのあの本から引用したいとか、あれはどの本の言葉だっけとか思いつくままに、さっ、ぱっ、ほっで引用できちゃうもんね。書斎の本棚が片付いていることは偉大だ。ハードディスクのデフラグってやつですよね。

もうなんだろ。「教会」と打とうとするたびに「虚迂回、虚迂回」と変換するグーグル日本語入力。と愚痴を書こうとすると「打とうとするたびに」を「ウトウトするたびに」と変換するグーグル日本語入力。文句でもあるのとキレ気味に言いたくなるグーグル日本語入力。疲れているのかなあ。冷静になろう。

叱られるかもしれないが、今が「反知性主義」が跋扈し、知性が現実の職を得られないないし失っている時代であるとしても、それを反転させる力は知性にしかないのだから、知性がんばれと言いたくなる。三人寄れば文殊の知恵なんでしょ。まず三人寄ろうか。あと、ペンは剣より強いんでしょ。知らんけど。

それと何の慰めにもならないことを書くが、知性の報酬というのは、古来「死後」とか「めっちゃ苦労した後」とかに受け取るものではないのかと。スピノザとかヘーゲルとかの伝記を読んだことがありそうな方々を意識して書くが。知名度を活かしてどんと売るとかは知性的でないような(負け惜しみくさい)。

たとえばこういうの。

「ヘーゲル自身はテュービンゲンでの補習教師の職を考えていたが、しかしヘルダーリンは、この友人[ヘーゲル]が靴墨やポマードで商売する以外にはどうしようもなくなったときしか、この墓場[?]に埋もれるべきではない、と考えた。」
ディルタイ『ヘーゲルの青年時代』久野、水野訳、以文社、1976年、56頁。

ここもヘーゲルの青年時代のリアル。

「1797年1月に彼[ヘーゲル]はフランクフルトに到着した。ゴーゲル家はロスマルクトの豪華な家に住んでいた。この家庭教師[ヘーゲル]は二人の子供の勉強をみた。彼の家族に対する関係は快いものであったし、報酬もよかった。(中略)しかし、ヘーゲルの憂愁はここでも和らぐことはなかった。生活状態の重荷が相変わらず彼を苦しめていた。」
ディルタイ、同上書、57頁。