2017年1月22日日曜日

信仰でしか開かない扉(千葉若葉教会)

ヘブライ人への手紙11章17~19節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

今日はヘブライ人への手紙を開いていただきました。中身に入っていく前に、この手紙の緒論的なことについて、いくつかのことを申し上げておきます。

1つめは、この手紙の著者はだれかという問題です。そもそもこの手紙のどこにも差出人の名前が記されていません。ですから、この手紙の著者は不明であると言えば済むことです。しかし1箇所だけですが、パウロの弟子の「テモテ」の名前が出てきます(13章23節)。それでパウロが書いたものかもしれないと考える人はいます。しかし、かなり以前から言われているのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡ではないということです。16世紀の宗教改革者カルヴァンもパウロでないと考えています。

2つめは、たとえこの手紙の著者がパウロでないとしても、だからといってパウロ書簡よりも価値が低いとか、読む価値がないというような考え方をすべきでないということです。私はどちらかといえばそのように考えてしまうほうの人間ですので、自戒をこめて申し上げておきます。大昔からパウロ書簡であると言われていたものが最近の研究によって「これはパウロの偽名書簡である」などと言われると、私はがっかりします。急に価値が低いものになったような気がします。しかし、重要な問題は「誰が書いたか」よりも「何が書かれているか」です。

もともとヘブライ人への手紙をパウロ書簡だと考える人はほとんどいませんでしたので、どうしても今日話さなければならないことではないかもしれません。とにかく申し上げたいのは、ヘブライ人への手紙はパウロ書簡より価値が低いとか読む価値がないというような見方をするのは偏見に満ちていて間違っているということです。

3つめは、この手紙の中で歴史的に最も危険視されてきたのはどの箇所かです。それは6章4節から6節までに書かれていることです。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。

ここに確かに書かれているのは、「一度救われた人がその後堕落したら、その後に悔い改めることはもはや不可能である」という意味のことです。それは間違っているのではないかと言われてきました。そのように言われるなら、イエスの教えにもパウロの教えにも共通する「神の無条件の赦し」という点と著しく矛盾することになるのではないかと考える人が出てくるのは、ある意味で当然です。

しかし、この点についても、カルヴァンは、この箇所(6章4節以下)を理由にヘブライ人への手紙を退けるべきではないと述べています。なぜカルヴァンを引き合いに出すのかといえば、カルヴァンの教えを広めたいからではありません。この議論は大昔からあり、16世紀にもあり、いまだに十分な解決に至っていないものの、かなり解決済みの問題であるということをご理解いただきたいからです。

カルヴァンは次のように書いています。「要するに、使徒は私たちに、悔い改めは人間の意志によるものではなく、神が信仰からすっかり堕ちてしまってはいない人々にだけ与えたもうということを諭すのである。この諭しは私達にはひじょうに有益である。一日また一日と延期することによって、私たちがますます神から遠ざかることのないためであるから。(中略)もし、だれかその滅びから立ち上がる者がいたら、その点では他の点で大きな罪を犯していたにしても、全く反逆してしまったわけではないと言うべきである」(『カルヴァン新約聖書註解Ⅷヘブル書・ヤコブ書』久米あつみ訳、新教出版社、1975年、152~153頁)。

途中で省略した箇所には、人間の回心は並大抵のわざではない、神のわざであると記されています。つまり、カルヴァンが言っているのは、悔い改めも回心も人間の努力ではなく、神のみわざであるということです。

わたしたちの教会の現実に照らし合わせていえば、たとえば、あの人は何年も教会に来ていないし、連絡もとれなくなっているし、「私はもう信仰を捨てた」と自分で言っているのだから、そういう人はもう救われないのだ、滅びに至るのだなどと安易に考えてはならないということです。

私の過去の牧師としての経験の中で出会った人の中に、こういう方がおられました。「私は20歳で洗礼を受けました。しかし、その後50年教会から離れていました。しかし、その50年間、教会のことを忘れたことはありませんし、信仰を失ったことはありません。もう一度教会生活を始めたいです」と言われ、復帰願いを出されました。

その意志を教会として受け容れました。その方は、その後はとても忠実な教会生活を送られました。人の目で見れば50年も教会を離れている人にはもはや信仰がないと見えるでしょう。しかしそういう見方をしてはいけません。だれが堕落した者かを見分けることは人間には不可能だからです。

ある意味で最も分かりやすい見分け方は、教会生活を続けているかどうか、日曜日の礼拝への出席を続けているかどうか、教会の献金を続けているかどうかかもしれません。それを続けていないから、あの人はもう堕落したのだ、あの人は天国に行けないのだなどという考え方がもし正しいなら、「教会とは行為によって救われることを教える団体である」ということを自ら主張しているのと同じです。礼拝出席という行為、献金という行為を怠っている人は救われないというならば。

しかし、聖書の教えはそういうものではありません。ヘブライ人への手紙の教えもまた、そういうものではありません。むしろ逆のことを言おうとしています。

ここまでお話ししたうえで、今日開いていただいた箇所の解説に入っていきます。ただ、これからお話しすることは、今の話の流れの続きです。3つカウントしました。4つめを申し上げます。

4つめは、ヘブライ人への手紙はどこが面白いかです。挙げていけばいろいろあります。しかしその中のひとつだけ言えば、ヘブライ人への手紙と呼ばれるだけあって旧約聖書がとても強調されていて、いわば旧約聖書の解釈に基づく説教のように読めることです。実際に、この手紙はいわゆる「手紙」ではなく「説教」であると考える人もいます。

今日開いていただいた箇所も説教です。新共同訳聖書が「信仰」という小見出しを付けている11章のすべてを本当は読みたいと思いましたが、長いので一箇所だけ読みました。アブラハムが神の命令で息子イサクを犠牲の供え物として献げる物語は、旧約聖書の創世記22章に出てきます。その物語の解釈に基づく説教が今日の箇所に記されています。

つまり、いま私が強調して申し上げたいのは、今日の箇所に記されているのはあくまでもひとつの解釈であるということです。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(19節)と記されていますが、そのようなことは創世記22章にはどこにも書かれていません。実際の文字としては書かれていないことについて、ヘブライ人への手紙の著者が想像して書いたのです。別の解釈も可能ですし、別の解釈は必ず退けなければならないわけでもありません。

「何を言っているのだ。ヘブライ人への手紙は新約聖書の権威ある正典だ。正典たる書物が示している旧約聖書の解釈は絶対的に正しいのであって別の解釈はありえない」という批判が出てくるかもしれませんが、そういう考えに立つ必要はないという趣旨のことを今申し上げています。

しかし、「これはあくまでもひとつの解釈である」ということを私がいま強調しているのは別の解釈を持ち出して主張したいからではなく、むしろ逆で、今日の箇所に記されていることは、これはこれでひとつの解釈として受け容れるべきだということを申し上げたいからです。

ヘブライ人への手紙の著者が11章全体で言おうとしていることの要点は「何が信仰なのか」ということです。最初に定義が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(11章1~2節)。

自分自身が望み、希望、願い、祈りとして抱いているが、まだ見ていない。将来的には実現するかもしれないが、眼前の事実としては全く見えないし、具体的な姿を想像することすら不可能であると思うようなことは、わたしたちにもいくらでもあるでしょう。しかし、それが必ず実現するということを確信すること、それが「信仰」だということです。

アブラハムがイサクを神に献げた物語の内容は、話としてひどすぎます。神がアブラハムに星の数ほど子孫を与えると約束してくださったのに、アブラハムと妻サラの間に生まれた子どもはひとりでした。しかも、そのひとりの子どもを献げろと神が命じました。つまり殺せと命じました。

意味不明すぎて頭が混乱します。人間の論理は完全に崩壊します。自己破綻します。「たくさん子孫が与えられること」と「眼前のひとりごをその親自身が殺すこと」という絶対的に矛盾するふたつの命題が同時に提示され、それが両立するといくら言われても、それを受け容れることは通常無理です。

しかし、それをアブラハムは受け容れました。そこで人間の論理を放棄しました。「神が何とかしてくださる」というような信じ方をしました。しかし、それもまた、ある意味で人間の論理です。もし「神」がいなければ絶対に成り立たない論理ですが、逆にもし「神」がいるならば成り立つ論理です。人間の論理を超える神の論理、つまり「超論理」です。

「そんな危なっかしい考え方の人とは付き合えない。いつも賭けごと、ばくちをしているようなものではないか」と嫌われるかもしれません。しかし、そこで考えてみる必要があるのは、それならば人間の計画や計算がどれほど確実なものなのかということです。なんら確実ではありません。

アブラハムには神に逆らう選択肢がなかったわけではないし、そのほうが人道的に正しかったかもしれません。しかしアブラハムはそうしませんでした。「信仰でしか開かない扉」があることを知っていたからです。その扉を開けるにはおそらく「勇気」が必要ですが、その扉の向こうに進むべき未来があります。

(2017年1月22日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会 主日礼拝)