2017年1月31日火曜日

「フィリオクェ」についてのファン・ルーラーの見解

『ファン・ルーラー著作集』第4巻上(2011年)
ファン・ルーラーが1957年に発表した論文の部分訳を公開する。「フィリオクェ」についての彼の見解が分かる。平易な訳を心がけた。論争の経緯はネットで検索すれば出てくる。

(私訳)

A. A. ファン・ルーラー「聖霊論の主要線」(1957年)部分訳(関口康訳):

東方教会の立場の難しさは、私見によれば、もし「神の内なるみわざ」(opera ad intra)の意味で御子と御霊の関係が全くないとしたら両者の区別性をどのように考えることができるかという問いにある。かたや西方教会の立場の難しさは、「御子からも」(filioque)という句を挿入することで「神の内なるみわざは区別される」(opera ad intra sunt divisa)という命題をどうしたら維持できるかという問いにある。

いずれにせよ、「御子からも」(filioque)という句は「御子だけから」(ex filio solo)という意味で理解されてはならない。神は「御子だけから」という発想から想像できる存在よりも深い方である。現代神学における聖霊論の多くの議論はそのことを忘れている。まるで御霊は御子の霊だけであるかのようだ。しかし御霊は御父の霊でもあるし、御子の霊である前に御父の霊でこそある。

さらに言えば、御霊とは御父と御子が「一息で吐き出す」(una eademque spiratione)存在である。このことに鋭く着目する人は、「御子からも」(filioque)という句には本当に意味があるのだろうかと疑い始める。歴史的に言えば、この句はスペインのアリウス派を排斥するために必要ではあった。しかし、もし御霊が御父の吐き出す息でもあり、そうでこそあるならば、その息に御子が別の要素を付け加えることがありうるだろうか。

このことを十分に考えた上で私が申し上げたいのは、「御子からも」(filioque)についての問題は、たとえそれが重く難しい問題であるとしても、もはやスコラ的な問題以外の何ものでもないということである。この立場が持つ意義はエキュメニズムにおいて小さくないと私は考えている。

出典:『ファン・ルーラー著作集』第4巻上、ブーケンセントルム出版社、2011年、300頁。