2017年1月30日月曜日

なぜ人間が「人間」を軽蔑的に語るのか

ファン・ルーラー『全地よ喜びの叫びをあげよ』(1973年)
ファン・ルーラーの神学の要点を一言でいえば、キリスト論にせよ史的イエス論にせよ神と人間を対立関係でとらえざるをえないので、その論理で終始しないで三位一体論で考えると神と人間の親和性を言えるようになる、ということだが、それを言うと大抵「それはまた今度聞かせてもらう」とあしらわれる。

神と人間を対立的にとらえるとは、神(God)や神的(divine)は「人間でない」(not Man)と「人間的でない」(not human)の意味で、人間(Man)や人間的(human)は「神でない」(not God)「神的でない」(not divine)の意味で語る語法である。

このとらえ方は一見もっともらしい外観を持っているが、神と人間がまるで同じ次元で比較や競争の関係にあるかのようだ。「神」や「神的」は生ける神の存在と働きを描くためではなく、「人間」や「人間性」や「人間的なるもの」を抑制・批判・否定するためだけに持ち出される概念にすぎなくなっている。

そうなると「それは人間的である」や「あなたは人間である」「あなたは人間的である」という言葉は、批判か軽蔑の意味でしかなくなる。「あなたは人間にすぎない」「我々は人間にすぎない」という意味になる。このような言葉やそれを裏付ける思想は、教会の実践においては非常に危険な面を持っている。

たとえば説教者が「人間」や「人間的」という言葉を抑制的・批判的・否定的な意味で述べているのを耳にすると、「人間で悪かったね。たしかに人間だよ。しかし人間が人間的であることのどこが悪いのか。そう言うお前は何者なのだ。お前自身は人間ではないのか」と激しく反発したくなる人は多いだろう。

神と人間を対立的にとらえることを、ほとんど無意識でしている人もいれば、意識的・意図的にしている人もいる。後者の中には、神学は人間学としての哲学と常に必ず対立関係でなければならないように考えたり、ヒューマニズムといえば常に必ず神の啓示と敵対関係にあるかのように説いたりする人がいる。

神と人間を対立的にとらえれば、「地上」と「天上」も対立的にとらえることになる。前者を後者よりも劣悪で過酷なものとしてしか語らなくなれば、「一刻も早く地上の人生を終えて天国に行くことこそ我々にとっての最高の幸せである」というアイデアが人の心に生まれる。これこそ最も危険な帰結である。

「インマヌエル」(その意味は「神われらと共にいます」)はキリスト論にも史的イエス論にも用いられる。これは聖書の言葉であり、イエスがそう呼ばれている名でもあるので、神学的にきわめて重要な概念であることは間違いない。問題は「インマヌエル」を我々がどのような意味をこめて用いるかである。

なぜキリスト論が神と人間を対立的にとらえざるをえないかといえば、キリストは「神であるにもかかわらず(notwithstanding)人間になった」と必ず言わなければ成立しない議論だからである。その場合、神と人間の「インマヌエル」としての関係は必ず「逆説」(paradox)である。

史的イエス論も基本的にそれと同じ構造を持ちやすい。外見上ヒューマンな(人間的な、人間くさい)装いを持っているが、イエスを「逆説的存在」とか「反逆児」などの見方でとらえるかぎり、神と人間の対立関係という構図は温存されたままである。キリスト論と同じパラダイムの中にとどまることになる。

「祈ること」も「聞き従うこと」も「実行すること」も我々の主体的行為である。我々の存在と行為にイエス・キリストが宿る。それが「インマヌエル」である。しかしその事態をとらえるために、ファン・ルーラーによると、「キリスト論の視点」から見るだけでなく「聖霊論の視点」からも見る必要がある。

キリスト論の中心的カテゴリーは「我々の身代わり」(代理性)なので、キリスト論の枠内だけに集中的にとどまって考え続けると人間の主体性をとらえる視点は後退し、やがて欠落する。何もかもキリスト論だけで考えてしまうと「祈ること」も「聞き従うこと」も「実行すること」も不要であると言い出す。

しかしそういうのは間違っているとファン・ルーラーは考える。我々の主体的行為をとらえる視点を後退させてはならない。そしてファン・ルーラーは「聖霊によって実現する」のは「イエス・キリストの教え」だけではなく「父なる神の御心」でもあると言い出す。御父と御子の単純な同一視は不可能である。