(7)義認後の罪の問題といつまでも格闘し続けるのが、福音派の一つの特徴なのかもしれません。
ファン・ルーラーもウェスレー的な「完全聖化主義者」ではありませんので、聖化のプロセスにおける「罪との格闘」の問題は軽視していません。しかし、そのことをファン・ルーラーは徹底的に「三位一体論的・聖霊論的に」考え抜くのであり、つまり、それを「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)の事態として捉えるのであって、わたしたち人間(イエス・キリストにあって選ばれ、信仰を与えられた人間)のうちに「聖霊」(プニューマ)が働いてくださっていることを前提としながら、聖霊(なる神)と人間精神との(ティリッヒ的に言えば大文字のSpiritと小文字のspiritとの)内的葛藤として「罪との格闘」を描き出すのです。
そして、人間存在のうちに聖霊が(そして同時に「三位一体の神」が)内住してくださっていることそのものが、すでに「救われた状態」です。わたしたちは「神無しで」罪と闘うのではなく、「神と共に」闘うのです。その勝敗はいずこにありやは、すでに決していると信じるべきです。
そしてファン・ルーラーの場合には、すでに書きましたとおり、「地上の存在を喜び楽しまないこと」や「このわたしを全面的に受け容れないこと」こそが「創造者なる神への冒涜」なのであり、それこそが端的に「罪」なのです。「人生を嘆き悲しむこと」や「憂鬱にとらわれたままでいること」でさえ、彼に言わせれば「罪」なのです。
ですから、事は単純です!神の力を信頼して、大胆にこの世を喜び楽しめばよいのです。わたしたちにできることは、それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。(終わり)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」