2009年3月26日木曜日

「20世紀最大の神学者カール・バルト」という非学問的な宣伝文句

幸か不幸かこのところ仕事が立て込んでいて禁欲的な生活を強いられてきましたので、たまには発散することをお許しいただいてもよいでしょう。とても辛らつな皮肉を書きたくなりました。といっても、大したことではありません。前世紀以来、教会と神学の文献の中に繰り返し書き込まれてきた一つのクダラナイ決まり文句を笑い飛ばしたくなっただけです。

「20世紀最大の神学者カール・バルト」。

この非学問的な宣伝文句に多くの人々が踊らされてきました。出版関係の方々からすればただの販促のつもりで書いていることでしょうから、この方々を責めるのは酷です。しかし、これと同じ言葉を(なるべく客観性を求められる)学者や教師たちが反復するのはいただけません。事の真相をよく分かっていながら善良な市民をだましているなら、ペテン師であるとの誹りを免れません。あるいは、もし学者や教師たちまでも「だまされている」なら、ちゃんと勉強してくださいねと言わなくてはならなくなります。

とにかく意味不明なのは「20世紀最大の」です。何をもって「最大」と呼ぶのでしょうか。

例の『教会教義学』のページ数の多さでしょうか。「九千頁もある!」と驚かれてみたり、百科辞典サイズの白いクロス張りの本が教師たちの本棚の相当大きなスペースを分捕るので「白鯨」と呼ばれてみたり。

あれのページ数が多いことには以下のような理由があります。あれを実際に読んだことがある人なら誰でも知っていることです。

(1)とにかく繰り返しが多い。あれは一冊の本として書きおろされたものというよりも、大学での講義のレジュメ(というか完全原稿、というかセリフ)を集めて作ったもの。しかも、文書化(タイプ打ち)に際しては秘書のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムの手がかなり加えられていることは確実で、バルトが書いたのかキルシュバウムが書いたのか分からないところも多々ある。つまり、漫画などでよく見る「原作 ○○ 作画 △△」がなされていたと言ってよい。「原作 バルト 作文 キルシュバウム」である。私はそうであることが悪いと思っているわけではない。しかし、九千頁の作文をバルトひとりでなしえたかのように宣伝する人々がいることは悪いと思っている。

(2)古代・中世・近代の神学者たちの文献からの引用(コピー&ペースト)がやたら長い。つまり、他人の書いた文章でページ数をかなり稼いでいる。翻訳されるわけでもなくラテン語ならラテン語のままで書き抜かれているだけである。このバルトのようなやり方は、他の人々がしてきたように、脚注で引用個所を指示するだけで文章そのものは引用しないやり方よりは「便利」で「ありがたい」かもしれない。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(3)バルトは『教会教義学』の中に教理解説と聖書釈義を区別しないで並べているので、両者を分けて出版してきた従来の神学者たちの教義学よりもページ数が多いのは当たり前。ついでに、あの本には時事評論やら政局分析やら書評のようなもの、さらにジョークとそのオチまで加わっている。私はそれが悪いと思っているわけではなく、好ましいことであるとさえ思っている。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(4)あとは余計なことですが、日本の中でカール・バルトを「20世紀最大の神学者」と呼びたがる人々の中に、自分の所属教団を「日本最大のキリスト教団」とも呼びたがる人が多かったりする(全員がそうだと言っているわけではありません)。そして、その教団の中の「最大規模」の教会に属していたりすると「おれは日本最大だ!」とさぞかしご満悦なのでしょうね(大爆笑)。

(5)かつて出会った一人の中学生から聞いた言葉。「おれたちの県の中学生の学力は、全国レベル最下位と言われている。そして、おれの通っている学校は県内最下位と言われている。そして、おれはその学校の最下位である。つまり、おれは全国最下位だということだ。鬱だ。」この中学生の用いた三段論法と、(4)の人々が用いる三段論法は、よく似ているものです。