2009年3月19日木曜日

質疑応答(3)享受と使用

(3)アウグスティヌスが使用(uti)と享受(frui)という点に具体的に見出したのに対して、ファン・ルーラーがこの区別性を取り払ってしまうとすれば、彼はどこに両者の区別性を具体的に見出したのでしょうか。同じ「喜び楽しむ」あるいは「享受」(frui)と言う時、そこには「使用」(uti)と「享受」(frui)の差異ほどではないにしても、創造者を「享受」することと被造物を「享受」することには、何らかの区別性があるのでしょうか。



繰り返しになりますが、創造者と被造物の区別性を「享受」と「使用」の区別に求めること、すなわち、わたしたち人間の倫理的態度に求めることが、なぜ必要なのでしょうか。



創造者と被造物との区別を設けてくださったのは神御自身です。なぜ人間が、自らの態度をもって(一方に対しては崇敬ないし礼拝をもって、他方に対しては軽蔑と尊大さをもって)区別しなければならないのでしょうか。



わたしたち(その中には私自身も含まれています)が「被造世界を享受すること」に躊躇があるのは、それを軽んじるなり憎むなりするように教え込まれてきたからではないかと思うのですが、その教えないし命令は神から出たものではないでしょう。アウグスティヌスもカルヴァンも神ではないし、直接啓示の仲保者でもありません。



わたしたちにできることは、「創造者は被造物ではないし、被造物は創造者ではない」というこのきわめて単純な事実を確認することだけではないでしょうか。



ファン・ルーラーの場合、神の場合も、世界の場合も、「享受すること」(frui)においては区別も差もありません。それはちょうど、17世紀のフラネカーとライデンで活躍したヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)が、御父なる神と御子キリストの関係についても、神と人間との関係についても、同じ一つの「友情」(amicitia)という概念で説明したのと似ています。(さらに続く)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」