ファン・ルーラーとバルトの関係については、多くの人から繰り返し問われてきたことです。
バルトの場合は「シュライエルマッハー斬り!」で神学の新しい時代を切り開いたのでしょうし、オランダのファン・ルーラーやドイツのモルトマンは「バルト斬り!」で新しい時代を切り開こうとしました。
「キレてねえよ」とバルトは言ったかもしれないし、少しは痛い思いをしたかもしれない。まあ、そんなところでしょう。
かなり有名な事実は、晩年のバルト(1960年代)が『教会教義学』を「第三項の神学」(聖霊論)の光のもとに全部書き直したいとか言いだしたことです。
バルトは、自分の著書の中ではファン・ルーラーにはついぞ一度も触れませんでした。少なくとも私の知る限りは。
しかし、1950年代後半にファン・ルーラーが声を大にしてバルトの「キリスト一元論」を批判し、「三位一体論的神学が必要だ」とか「聖霊論的視点が必要だ」と主張していたことと、バルト自身の「第三項の神学によるKD全編書き直し」発言とは全く無関係ではありえないだろうと、私は見ています。
バルトがファン・ルーラーの名前を知らなかったはずはありません。バルトのオランダにおける親友であり何度も名前が言及されるライデン大学のミスコッテ教授は、オランダ改革派教会におけるファン・ルーラーの「論敵」でした。
ファン・ルーラーに関する情報は、ミスコッテから常に詳細に聞いていたはずです。「バルトとミスコッテがタッグを組んでファン・ルーラーを神学的リングの外に押し出した」と評している人がいるほどです。
私もバルトの近代主義、自由主義批判は正しかったと思っています。しかし、あの批判そのものはアンチテーゼにすぎないものであり、いわゆるジュンテーゼとしての新しいものを生み出すまでに至っていません。
19世紀の文化的プロテスタンティズムを徹底的に批判し、事実上の破壊にまで導いて、その後バルトは何を生み出したのでしょうか。「キリスト教的なるもの」(Das Christliche)を各個教会だけ(しかも都会の大規模教会だけ)、礼拝だけ、説教だけ、牧師だけのモノローグへと狭隘化しなかったでしょうか。
バルトについては今こそ真剣にそのようなことを考える必要があるだろうと、私は考えています。
ファン・ルーラーにしろモルトマンにしろ、新しいものを生み出すに至ったとまでは言えません。新しいものを生み出すどころか、20世紀の急速な世俗化=脱教会化の中で神学者の存在意義が根本から否定されてきた中で、手も足も出ない状況に追い込まれていったというのが本当のところでしょう。
しかしまた、だからこそ彼らが「バルト後の尻拭い時代」の中で新しいキリスト教的文化の形成のために悪戦苦闘した形跡はありありと残っていますので、それらから私たちが学びうることは多いと思います。