カール・バルトの書物は、やはり、とにかく一度はじっくり読まれるべきです。バルトは「今年150歳」と祝われている日本のプロテスタント教会の神学思想に、あまりにも大きな影響を及ぼしすぎました。つまり、現在の日本の教会の「病因」を探るためにバルトを読む必要があるのです。
ヨーロッパやアメリカの教会には「バルト以前の神学的伝統」があり、その中にあった様々な悪い面を徹底的に批判するアンチテーゼ提出者としてバルトが登場したわけです。その登場には歓迎されるべき面もあったことを私も認めます。
ところが、日本の教会には「バルト以前の神学的伝統」どころか、「キリスト教の伝統」そのものがほとんどなかったわけです。神学体系などというものが存在していなかった日本。そこに「体系的なもの」としてまとまったバルトが、まるでこれこそ「ザ・プロテスタント」、いや「ザ・キリスト教」でございます的な装いをもって、どどーんと輸入された。
おいおい、ちょっと待て、バルトが書いていることはあくまでも「アンチテーゼ」なのであり、要するにほとんどいつも「けんか腰」で書いていることなんだっつーことを知らないで、あるいは正体を見抜くことができず、彼が書いていることをほとんど無批判に鵜呑みにして、そのギラギラとした光を放つ鋭利な刃先を素人相手に向けては、迫力満点に「教会なるもの」の現状を批判し、ほとんど破壊していくほどにそれを罵倒する。
「教会なるもの」に対する批判や不満を持っている人にとってはバルトの言葉は救いだったと思います。私もかつてはそうでしたから。こんなクダラネエもん壊れちまえと、青春時代の破壊衝動みたいなものと共に教会を睨みつけていたい頃に接するバルトの言葉には、新鮮かつ衝撃的な感動がある。
しかし、いつまでもそれだけでは困るでしょう。我々は、こんなクダラネエもんと自分でもどこかで思いながら、また他の人々からそう思われていることを熟知しながらも、そんなもん(教会なるもの)でも、「これは我々の人生にとって水や空気、毎日の食事のように必要不可欠なものだ」と確信をもつことができたから、そんなもんを実に二千年も担い続けてきたのです。
「バルト自身は教会に通っていなかった」ことを、先週金曜日に行われた日本基督教学会関東支部会(会場:聖学院大学)での深井智朗先生の講演を通して確認しました。たぶんそうだろうなあと予想していたことが当たってしまった格好です。
「教会に通わない神学者」が『教会教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)を書く!そのバルトが描き出す「教会」とは何ぞやが問われて然るべきなのです。はっきり言えば、それは「絵に描いた餅」にすぎません。深井先生の言葉を借りれば、「バルトは本質主義者であった」ということです。教会の本質はこうだと主張はするが、現実の教会にはコミットしようとしなかったのです。