(5)私も、被造世界を喜び楽しむことが神の意志であると思っております。しかし、それを具体的な生活の中で実践しようとする時、被造世界全体が堕落の影響によって「喪に服している」という面も忘れてはならないと思わずにはいられないのです。そうなると、被造世界を「喜び楽しむ」という時、そこには何らかの形で神を「喜び楽しむ」こととは、区別をつけなければいけないのではないでしょうか。
「喪に服している」というご見解には、正直ちょっとした驚きを禁じえませんでした。「堕落」(corruptio)の影響があるのは当然のことですが、イエス・キリストにおける「贖い」(redemptio)の影響のほうはいかがでしょうか。「贖い」とは、改革派神学の伝統においては「再創造」(recreatio)です。その意味は、創造の原初性の再獲得です。堕落した全被造物に「はなはだ善きもの」(erant valde bona! 創世記1・31)としての原初性が回復されるのです。
この「再創造」は終末だけに起こる出来事ではありません。それはイエス・キリストの十字架と復活による「贖い」によってすでに始まったことであり、今なお進展し続けており、終末における完成の日まで継続されます。花婿としてのイエス・キリストは、すでに来られています。祝宴はすでに始まっています。それにもかかわらず、どうしてわたしたちがいつまでも喪に服し続けなければならないのでしょうか。
「堕落」ないし「罪」についてファン・ルーラーが主張していることは、彼の言葉を借りれば、「罪は二次的なものないし二番目のものである」(De zonde is iets secundairs, een tweede)ということです。第一番目はもちろん「創造」(schepping)です。創造こそが「神の善きみわざ」です。天地を無から有へと呼び起こしてくださった神の力、そしてまたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神の力と比較するならば、人間の犯す罪の力や影響などどれほどのものでもありません。もし人間の犯す罪の力が神の救いの力に勝利するというなら、人間は「神以上の存在」であると認めることを意味してしまいます。(さらに続く)
「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」